行間を読む 256 古九頭竜湾と福井平野

和布(めら)バス停からの車窓の風景は途中から防風林と畑が海側に続き、地図では「三里浜緩衝緑地」と表示されています。

三里浜」、本当に12kmぐらいありそうな長い海岸線でした。

 

ふと思い立って三里浜の歴史を検索してみたら、正確には三里浜砂丘ということがわかりました。

三里浜緩衝緑地(三里浜砂丘の森)

 三里浜緩衝緑地(三里浜砂丘の森)は、坂井市福井市にまたがる延長9km、面積約134.4ヘクタールに及ぶ都市公園で、大気汚染、騒音、振動等の公害防止、緩和を図るため、テクノポート福井と住居地等を分離遮断することを目的としています。 

 この緑地には、約70種類66万本の樹木の中に、芝生広場、休憩所、水飲み場、駐輪場、トイレなどの施設があり、地域住民および企業就労者の福利厚生施設として利用されています。(福井県ホームページ、都市計画課)

 

砂丘の海側に工場地帯が造られ、内側は畑に利用されたようです。そして「かつて三国港から海岸線に沿って南西に長さ12km巾1~3kmにわたる起伏のなだらかな砂丘地があり、浜の長さから『三里浜』と呼ばれていました」(三里浜砂丘地農業支援センター)とありました。

本当に「三里」あったようです。

 

福井平野も「潟」に近いのだろうか*

 

バスで通過した長い森と畑は、気が遠くなるような時間をかけてできた砂州だったようです。越前海岸の和布のあたりのように侵食された崖が続き、そして突然、砂丘のなだらかな海岸線になる日本海側の風景はダイナミックですね。

人が住めない海岸線、砂丘の内側も風と砂の闘いだったという河北潟の歴史を思い出しました。

そして、こうした砂州が伸びて「潟」になっていくのだと、数年来の疑問の答えと今回の散歩の計画につながる何かが少し見えてきました。

 

継体天皇が越前に住んでいた頃、現在の福井平野は、九頭竜川日野川足羽川が流れ込む大きな湖でした。

洪水のために水害にあっていたので、当時の朝廷は、湖の水を海へ流れさせるため三国の河口を広くするよう命じました

 

 

*「古九頭龍湾」と呼ばれていた時代*

 

三里浜」で検索していたら、「福井県の地盤の成り立ち」(NPO住宅地盤品質協会、2023年8月)という資料がありました。

継体天皇の時代よりもさかのぼって、福井平野の説明が書かれています。

 

「古九頭龍湾」に惹きつけられました。

古九頭龍湾

 福井平野北西部の沖積層は、下部砂泥層、中部泥層(海成層)、上部砂層(汽水成層)、最上部泥層(陸水成層)に細分できる、中部泥層は、縄文海進期に福井平野の広い範囲に浅い湾(古九頭龍湾)が広がっていた時期の堆積物である。この地層からは、いろいろな海生の貝類化石が産出されている。また、加越台地の南の平野側には、縄文時代中期の貝塚が点在する。中部泥層の深度分布からすると、古九頭龍湾は、その後の海面の低下、湾口部での砂州砂丘の形成及び九頭竜川をはじめとする河川による埋積に伴って縮小していったが、古墳時代には、福井平野の北西部にはまだ大きな湖沼が残されていたと推定される

(強調は引用者による)

 

縄文海進期関東平野がまだ海だった頃ですね。

添付されている「福井平野地質図」の「古九頭龍湾の10m水深線」は、東の山側から足羽山のあたりまで描かれています。丸岡城はギリギリ陸地、福井城は湖底でしょうか。

 

1948年の福井地震についても説明がありました。

 1948年の福井地震は、地震震源が極めて浅く、しかも古九頭龍湾を埋積した表層浅部の未固結堆積物の真下で発生した直下型地震であった。そのため、地表は激甚な揺れに見舞われ、広い範囲で家屋倒壊率が60%を超える被害が発生し、翌年に気象庁震度階級表に震度7(激震)が導入されるきっかけとなった。

 

「古九頭龍湾」初めて知った言葉ですが、これを知っているだけで地図の見方が変わってきそうです。

 

福井平野は潟だった*

 

三里浜砂丘」の説明に、「潟埋積平野」というこれまた初めて目にする用語がありました。

 かつて、福井平野は海が侵入してほぼ全域が湾域となっていたが、東側、南側、北側と西側の一部を山地・丘陵地に囲まれ、さらに海に接した西側の一部は発達した砂丘に挟まれるようにして湾は潟となり、それが次第に埋積されて低平で多湿な潟埋積平野が生まれた。

 このように、潟埋積平野が形成されるうえで、砂丘とは密接な関係を持っており、とくに福井平野では三里浜砂丘の発達が深く関係している。縄文海進の最盛期が過ぎると、海面は次第に下がりはじめ、平野部では中部泥層の上に上部砂層が堆積する。この砂層は、主として粗粒砂からなり平野部に広く分布するが、海岸部では旧砂丘の砂層をつくっている。そして、この旧砂層堆積物と新砂丘堆積物との境には、日本海側のこの時期に形成された他の砂丘と同様に層厚30~50cmの腐植質の黒色砂層(クロスナ層)が挟まれる。

(強調は引用者による)

 

ふと気になって「三里浜」を検索したら、思いもかけぬ地面の気が遠くなる歴史を知ることになりました。

 

 

*おまけ*

そして「住宅地盤品質」を調べている方々がいる。それもすごい専門性ですね。

日本の国土には農地にも宅地にも安全な場所は少なく、長い時間と失敗を糧に土地を得てきたと、改めて思います。

ところがこの半世紀、驚異的なスピードで住宅地が広がる時代でした。目先の利益だけでなく、失敗もきちんと記録されていくでしょうか。

 

 

 

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