行間を読む 177 国道17号線の20kmの渋滞

昨年12月20日から21日にかけての大雪で、長岡市では国道17号線で20kmも立ち往生しているというニュースがありました。

国道17号線」と聞いただけで、その風景がすぐに浮かんできました。

 

ちょうど半年前の6月中旬、福島江用水を訪ねた時に歩いたばかりです。たしか道路沿いに赤いアンテナのような棒が立っていて、雪の時期にはあれが道路の目安になるのだろうと暑さの中ぼーっとしながら考えた記憶があります。

そして信濃川と魚野川が合流する越後川口で歩いた国道も思い出しました。あの道も国道17号でした。

ここ数年あちこちを歩いたので、川や水路だけでなく道もだいぶ覚えました。

 

私が歩いた区間は合わせて1kmぐらいですが、上越線に沿って見えていた道を思い出すと20kmの渋滞というのは相当の距離ですね。

そしてその渋滞が解消されれば解決ではなく、雪害とは長期にわたる災害であることをその生活を伝えてくださる方々の情報で以前よりは具体的に想像できるようになってきました。

 

 

国道17号線の歴史*

 

国道17号線はどこからどこまでだろうとWikipediaの「国道17号」を読むと「東京都中央区から新潟県長岡市を経由して、新潟市に至る一般国道である」「日本橋を起点」とあり、ちょっと意表をつかれた感じです。

 

「歴史」を読んで、なんとなく国道17号の全体像が見えてきました。

国道17号は、中山道(中仙道)の一部(江戸ー高崎)および三国街道の一部(高崎ー長岡)を継承する路線である。三国街道は関東と越後を結ぶ唯一の道として江戸時代より重視され、1877年(明治10年)には国道一等に指定された。

(強調は引用者による)

 

江戸時代の「道」というのは、人や馬の重みで踏み固められた細い道だったことでしょう。

 

明治時代になり三国峠越えの道から清水峠越えの道につけ替えられたものの「冬の厳しい気象条件のために次第に荒廃し、大正になったころには廃道同然になっていた」、そして大正末期から昭和の初めに再び三国峠越えの道を改良する方向になった。

その理由が「東京と満州を結ぶ最短ルート」というのは、私の世代にはもうすでにピンとこない歴史ですね。

 

さらに自動車が通れるようになるには、四半世紀が必要だったようです。

これまでに述べたような状況により、当時の三国峠は改良が全くと言って良いほど行われておらず、自動車の通れる状態ではなかった。1940年(昭和15年)より三国峠の改良工事が開始されるが、第二次世界大戦の戦況の悪化により中止された。工事が再開されたのは戦後のことである。この工事はほとんど新設同様の改良工事になったが、カーブの終始端に挿入する緩和曲線に、積極的にクロソイド曲線を使用した道路として群馬県側の沿道に記念碑が建立された。1957年(昭和32年)に三国トンネルは貫通し、1959年(昭和34年)6月に供用開始され、群馬・新潟県境に初めて自動車の通れる道が通った。

(強調は引用者による)

 

私が生まれる少し前に「群馬・新潟県境に初めて自動車の通れる道が通った」、その数年後の都内でも幹線道路以外はまだまだ舗装道路が少なくすぐに雨で道がぬかるんでいたような、私の幼児の頃の記憶が重なりました。

道の歴史あるいは道を作る土木技術の歴史も、この半世紀ほどは驚異的に変化していたようです。

 

そしてこの道路にも田中角栄氏が関わっていたことが書かれています。

改良工事中の1952年(昭和27年)12月4日、新道路法に基づく路線指定で旧9号がそのまま一般国道17号(東京都中央区新潟県新潟市)として指定された。東京と新潟を結ぶ一般国道17号の新潟県内の道路改良新ルートの選定については、交通網が三国山脈によって阻まれていた新潟の地元民にとっては死活問題で、これには田中角栄も関与した。魚沼市内の国道17号のルートは、魚野川右岸に沿う小出のルートから、橋を渡って左岸の堀之内を通り、さらに越後川口で再び橋を渡って右岸に戻るルートを通る。この経緯は、道路特定財源の導入と道路法全面改正の提案をして各地の道路整備を推進した田中が、建設省道路局が一級国道の道路改良をするための新ルートを自分の後援会長の地元がある堀之内町側を通過させるように同局に指示したためである。

(強調は引用者による)

 

越後川口駅から信濃川と魚野川の合流部を目指して歩いた時に、「30センチぐらいの申し訳なさ程度に白線が引かれているだけで歩道がない」ために歩くのをあきらめたあの場所です。

こうして道の歴史を読むと、「交通網が阻まれていた」地元の人の念願の道だったのですね。

 

そこにはしがらみもあったようです。

 

その道が完成した3年後の1962年(昭和37年)に、「雪は春には溶けるからと災害に認められていなかった豪雪のサンパチ豪雪に、田中角栄大蔵大臣が初めて災害救助法を適用した」のは、融雪洪水のように夏だけでなく雪による水害「人には湖とみえたその一帯が、新潟県民の”なけなしの農地"だった」といった排水と闘ってきた長い歴史をなんとかしようという強い思いからであったのだろうと、「国道17号」から思い浮かべました。

 

それにしても昨年は2月の大雪といい、全国各地で雪の多い1年でした。

 

 

 

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