歴史でその名を学んだ記憶がかすかにある欽明天皇や天武天皇ですが、古墳のそばの美しい棚田と集落を歩いているとまるでその時代の道を歩いているような不思議な感覚に陥りました。
*千年以上も水田の下に眠る*
飛鳥川沿いを歩き、水落遺跡のあたりがかつての飛鳥時代の中心地のようです。
案内板に、このあたりはかつての「古代の迎賓館〜石神遺跡〜」だと書かれていました。
1902年・1903年、明日香村大字飛鳥の「石神」と呼ばれる水田から須弥山石(しゅみせんせき)と石人像(せきじんぞう)が出土しました。1936年には石田茂作氏によって発掘調査が実施され、石組溝や石敷が見つかり、飛鳥時代の遺跡の存在が明らかとなりました。この遺跡は「石神遺跡」と名付けられ、1981年から奈良国立文化研究所(現、奈良文化財研究所)によって本格的な調査が実施されることになりました。その結果、飛鳥時代全般にわたる遺跡が見つかり、度重なる改造が行われていたことが判明しました。最も整備されたのは斉明女帝の時代(655年~661年)で、長大な建物で囲まれた長方形の区画が東西に2つならび、大規模な掘立柱建物群や方形石組池がつくられました。東北地方や朝鮮半島の新羅からもたらされた土器が出土していることから、『日本書紀』に記載のある「飛鳥西」に設けられた外国使節に対応するための饗宴の場、いわゆる「迎賓館」であったことが想定されます。
すぐ南には時による支配の象徴とされ、日本で初めての時を告げる水時計台跡と考えられる「飛鳥水落遺跡」が位置することから、日本(倭国)の威厳を示し、外国使節に対して服属を確認するための使節であったと考えられます。
7世紀に東北や朝鮮半島からこの地を訪ねるのは、どれほどの時間が必要で危険があったことでしょう。
その時代の背景が案内板に書かれていました。
斉明女帝の時代は、高句麗や百済が唐・新羅により滅ぼされるなど、緊迫した状況にありました。斉明女帝は唐や新羅に対抗するため、強力な国づくりを目指し、大土木工事に力を注ぎました。「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と呼ばれる運河の造営や東北への領地拡大を目的とした船団の派遣などを推進するとともに、百済復興のため、自ら指揮を執り、九州へ赴きました。このような状況下において整備されたのがこの石神遺跡と飛鳥水落遺跡です。飛鳥時代の政治・文化の中心となった飛鳥宮跡の北西に位置し、官衙(かんが)施設の一角を担うこれらの遺跡は、現在の日本に繋がる国家形成過程において欠かすことのできない重要な遺跡といえます。
そして栄華を誇った場所が、いつの間にか水田の下に埋もれていく。
その時代はどんな雰囲気だったのか想像するだけで、気が遠くなりますね。
そして20世紀初頭に水田の下から重要な遺跡が出てきた時、ここに住む方々はどんな思いを持って受け止めたのでしょう。
そばに地元の野菜などを売っている「あすか夢の楽市」があったのでふらりと立ち寄りました。
ちょうどお昼時でお腹がすいたので、巻き寿司と地元の方が焼いたパウンドケーキを購入して、外の椅子に腰掛けていただきました。
宇陀で購入したものもそうですが、奈良の巻き寿司の味は関西出身の母の味に似ています。
どこからどうやってこの味が伝わっていったのでしょう。知らないことばかりです。
しばらくのどかな風景の中で休憩して元気になったので、藤原京を目指して歩き始めました。
周囲の丘陵の稜線が美しく、北側へとゆるやかに棚田が広がっている先に奈良盆地が見えました。
4月中旬のこのあたりの田んぼはまだ田おこし前で、一面に薄桃色のレンゲが咲いていました。
途中、ところどころに史跡を示す古い小さな石碑があります。
畦道を歩く人の姿はなく、飛鳥時代にひとりタイムスリップしてしまったのではないかと変な妄想に陥りながらも、田んぼの下にたくさんの歴史の跡が眠るのどかな道を歩きました。
*おまけ*
そういえば、半世紀以上も前に飛鳥時代をどのように習ったのだったかとWikiepediaの「飛鳥時代」を読んだところ、こう書かれていました。
現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。20世紀初頭(1900年前後の明治30年代)に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案された時代名である。
「飛鳥時代」と習ったのか心もとなくなってきました。
歴史を知るというのは難しいですね。
「落ち着いた街」まとめはこちら。