水のあれこれ 355 名張川の高岩井堰

散歩の最終日は疲れも溜まっているのでもうこのまま名古屋へ向かおうかと思っていましたが、やはり宇陀川が名張川に合流する場所を見てみたくなりました。

 

12時6分の榛原駅発青山行きの近鉄線に乗りました。

奈良と三重を行き来する人はけっこう多いのですね。沿線はまだ灰色の屋根の集落と水田で、奈良の風景です。榛原駅から次の室生口大野駅までは少し距離があるのですが、この右手の山中に宇陀川が流れ込む室生(むろう)湖があるようです。

Wikipediaの説明に、明治時代には大和盆地への「宇陀川分水構想」もあったことが書かれていました。

 

宇陀川の流れに沿って近鉄線が進み、室生口大野駅のあたりでも美しい街並みが続いていました。しだいに県境の山あいへと入ると、三本松駅のあたりでは斜面に集落がある風景です。

蛇行する宇陀川を2回ほど渡ると、赤目口の手前からは平地になり水田地帯が広がっています。三重に入っても灰色の屋根瓦の美しい街並みでした。

 

名張駅の手前で名張川を渡りましたが、その右岸に水路があるのを見逃しませんでした。

予定していた宇陀川との川合は少し離れているので、あの水路を見てみよう。

車窓から見えた宇流富志祢(うるふしね)神社の鎮守の森から下り坂になり、名張川の河川敷の手前にその水路がぐいと蛇行して流れていました。

そばに「高岩井堰(取水施設)」と表示板がありました。

 

豊かな水が流れています。なんと美しい水路だろうと、名張川と水路を眺めながら宇陀で購入しておいた巻き寿司を食べて今回の散歩が終わりました。

 

 

*江戸時代からの水路だった*

 

あの車窓から見つけて大正解だった美しい水路のことがわかるかなあと、ためしに「高岩井堰」で検索したところ、名張市の「まちなかの見方」を見つけました。

 

 まちなかの新町橋名張川護岸などからは、名張川の流れや山並みを背景に美しい風景が望めます。

 これらの構造は、まちなかの貴重な自然的景観資源といえます。

 江戸時代の錦絵(二代目広重作)である「諸國六十八景・伊賀名張」には、豊かな名張川の流れや小高い丘を背景に、街道沿いのまちが描かれています。

 名張地区西部の市街地周縁部には、古くは黒田庄と呼ばれるまとまりのある田園地帯があり、その背景となる山並みやそれらを明確に区切る名張川沿いの竹藪などが折り重なり、特徴的な景観を形成しています。

 これらは、まちなかの貴重な自然景観資源といえます。

 

ああ、やはり美しい水田が健在のようです。

 

 まちなかを網の目のように流れる簗瀬(やなせ)水路は、1636年、藤堂高吉の城下町建設の時にさかのぼります。高岩井堰取水口から、名張川の水が取り入れられ、名張地区を貫流し、末端で7ヶ所に分かれて名張川へ流れ出ています。現在も豊かな水量が確保され、農業用灌漑用水としてだけでなく、生活に密着したまちの景観資源の一つにもなっています。

 また、この簗瀬水路では、自然石積みの護岸構造が残る部分も見られ、歴史的構築物とともに、まちなかの貴重なまちづくり資源ですが、交通事情や生活様式の変化により、暗渠化が進み、名張らしさのある水路の景観が失われつつあります。

 まちなかの平坦地には城下町・宿場町として栄えたまちなみが広がり、台地には名張藤堂家邸跡や名張城址の石積みが残るなど、桔梗ヶ丘や平尾山の地形的特徴を活かした都市構造が現在でもみられます。

 

航空写真で地図を確認すると近鉄線の線路の東側200mほどの右岸に取水堰があり、ここから神社の高台の下をぐいっと曲がって流れたあと、台地へと水路が続くようです。

誰が、どうやってこの場所を見極めて、水路を台地へと乗せたのでしょう。

 

同じように多摩川の水を武蔵野台地へと流した玉川上水は1653年ですから、その17年前にはこの地域で水路建設が行われていたようです。

 

以来500年近く水を台地に乗せているのですから、江戸時代以前の土木技術の水準や歴史を知らなさすぎました。

 

 

 

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