米のあれこれ 136 鉱害から復活したおんが米

現在の美しい水田地帯と遠賀川がかつて「黒い川」と呼ばれていたことが信じられないのですが、水巻町で見かけた「ふるさと、おんが米」にこの地域の稲作の歴史を知りたくなりました。

 

「おんが米」で検索したら「福岡県町村会」にこんな説明がありました。

遠賀町

遠賀町は、福岡県北部の遠賀川水系下流に開けた、遠賀平野の中心に位置しています。豊な自然環境があることから古くから農業が行われ、農耕文化発祥地のひとつとして、遺跡や文化財も残されています。

町の中央を東西にJR鹿児島本線一般国道3号が走っており、交通の利便性に優れていることから宅地開発による市街地化が進み。農村のゆとりにと都市の活力をあわせ持つ生活都市として発展を続けています。

昔から受け継がれた自然と人情。ゆとりのある生活空間。遠賀らしさを大切に、いきいきと暮らせるまちを目指しています。

ちょうど水巻町の対岸の地域のようです。

 

Wikipedia遠賀町の「歴史」に新田開発の説明がありました。

かつては、「古遠賀潟」と呼ばれる内湾であったが、徐々に埋め立てが進み、特に江戸時代には黒田藩が新田開発を進めたことから農業地帯として発達した。

(強調は引用者による)

 

かつては「古遠賀潟」と呼ばれていた。

祖父母の干拓地から潟とは何か、潟の生活とはどんな感じか知らない世界が広がり、潟を訪ね歩くようになったのですが、だからこの地域も通過しただけで「美しい」と感じ、惹きつけられたのだと納得しました。

 

 

遠賀川の水運と年貢米*

 

いつ頃からの干拓なのか詳しいことはわからないのですが、「世界大百科事典」に遠賀川の水田と水運について説明がありました。

 

遠賀川

(前略)流域では古くから水田農業が行われていたが、明治以降は炭鉱業が急激に発達し、日本一の筑豊炭田として栄えた。1950年代中頃からの<エネルギー革命>を背景とする石炭合理化政策によって、60年代末ごろまでに炭鉱はほとんど姿を消してしまったが、石炭の採掘と輸送を中心にして醸成された川筋気質(かわすじかたぎ)は、今も色濃く残っている。流域は人口激減など深刻な打撃を受けたが、産炭地域振興の企業が誘致され、内陸工業地域に変貌しつつある。中流の寿命(桂川町)から洞海湾に通ずる堀川運河とともに、米その他の物質、特に筑豊炭の輸送に大きな役割を果たしたが、水運は明治中頃の筑豊本線など鉄道開通後しだいに衰え消滅した。古来しばしば洪水を起こし、明治以降も1889年、1905年、41年など再三の大洪水に見舞われ、1906年からは国直轄の改修工事が行われてきたが、石炭採掘に伴う堤防陥落などもあり、53年6月の集中豪雨で大被害を受け治水工事は現在も続けられている。洗炭による川水の激しい混濁は近年の炭鉱閉山で減じた。遠賀川は、流域の市町の上水や水田灌漑水ばかりでなく、北九州市の上水、工業用水の大半の水源となっている。河川敷の一部は運動場、乳牛放牧場、サイクリング道路、駐車場などに利用されている。

 

潟から水田になり、明治以降は炭鉱が栄え、そして1960年代にはその炭鉱も閉山となった。

その間の水田はどんな感じだったのでしょう。どのような新田開発の歴史だったのでしょう。

そしてこの事典がいつ書かれたのかわからないのですが、古今未曾有とされる1953年(昭和28)の豪雨の影響はこの遠賀川も大きかったようです。

 

水運の歴史

水運は古く、すでに12世紀に流域荘園の年貢米輸送が行われ、河口の芦屋が栄えた。近世には流域は福岡・小倉両藩に分かれたが、遠賀川は両藩の年貢米輸送に利用され、要所に河岸がおかれて、船庄屋以下の役人が船頭及び艜(ひらた)(川船)を管理した。18世紀に入ると流域農村で石炭やハゼ蠟の生産が進んだので、それらの輸送が盛んとなった。(以下略)

 

「すでに12世紀」にはこのあたりで米が栽培されていたようですが、排水の悪い中でのどぶね農業だったのでしょうか。

 

「日本歴史地名大系」では、中世の遠賀川の様子が書かれていました。

遠賀川は古くから水運に利用された。特に上流の嘉麻郡穂波郡には観世音寺(現太宰府市)領荘園が多く、その年貢の輸送に利用された。大治五年(一一三〇)観世音寺碓井封(現碓井町)の年貢米一五〇石が本寺の奈良東大寺に納入されている。

なんと、はるばる東大寺まで遠賀川流域のお米が運ばれていたようです。

 

明治以降の川の汚染や幾たびもの洪水から現在の美しい水田地帯へ。

水田は蘇るのですね。

またひとつ、水田が健在の歴史を少し知ることができました。

 

おんが米、食べてみたいものです。

 

 

 

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