川の説明を探す時にはまず、たとえば遠賀川のようにWikipediaで全体像を読んでいます。
そしてそのあと関心のあることを検索すると、たいがい国土交通省の河川局の資料で詳細を知ることができます。
あるいは、実際に歩いた方々の記録もまた、次々と関心の扉が開かれていきますね。
遠賀川、今回はどんな文章と出会うでしょうか。
*「遠賀川と石炭産業」*
2021年に見た遠賀川流域の美しい風景が印象的だったのですが、「筑豊炭田の産炭地として発展していた昭和30年代までの水質は大きく損なわれていた」ことを知りました。
「国土交通省水管理・国土保全局」の「日本の川・九州・遠賀川」にその歴史がまとめられていました。
遠賀川と石炭産業
もう一つ、遠賀川の治水に関係するものとして石炭産業があります。石炭産業の発展とそれに伴う鉄道の開通によって洪水被害はいっそう大きなものとなりました。このような状況の中、明治38年7月の大洪水を契機とし、国の改修事業として第1期改修工事に着手し、14年後の大正8年に完工しました。
昭和に入ると石炭の採掘量が急激に増えたことで、鉱害(地盤沈下など)が次第に遠賀川にも現れるようになり、堤防や護岸が破壊され再び水害に見舞われるようになりました。そこで、昭和20年から国による改修工事が再開されることになりました。
また、微粉塵という石炭の粉による水の汚れを引き起こしました。これによって遠賀川は「黒い川、ぜんざい川」などと呼ばれるようになりました。黒い水は水道にも農業用としても使えず、流域の人々は大変苦労しました。
地盤沈下した土地や建物の復旧を目的とした鉱害復旧事業が行われました。川に堆積した微粉炭の除去も行われました。このような事業が長く続けられたこともあって、遠賀川は石炭採掘前の美しい流れを取り戻しつつあります。
石炭産業はこのように人々を悩ませたものでしたが、ときに人々を支えてきたものでもありました。遠賀川流域の炭鉱群は明治・大正・昭和と日本の産業をずっと支え続けました。
今では流域内で炭鉱を見ることはできませんが、多くのボタ山が残っており、それらは地下深いところで懸命に働いた人々の苦労を偲ばせてくれる風景となっております。
最後の一文が沁みました。
歴史が簡潔に、それでいてそれぞれの時代の葛藤や生活史に思いを馳せるような言葉がある文章。
これが国土交通省の川の説明や農林水産省の農地開拓の説明で時々出会う醍醐味ですね。
それぞれの地域の歴史を大事に思う方が書かれているのでしょう。
*遠賀川のあれこれ*
コトバンクを検索するといくつかの辞典の解説を読み比べることができるので、これも楽しいですね。
水巻の由来はなんだろうと気になっていたのですが、「日本歴史地名大系」にこんな説明がありました。
遠賀川本流の源流部は嘉穂(かほ)郡嘉穂町桑野の嘉麻(かま)峠付近にある。なお穂波川合流地点より上流の遠賀川を一般には嘉麻川と称し、下流では芦屋川とも呼ばれる。また遠賀郡が御牧(みまき)郡と称されていた頃にはミマキ(御牧・水巻)川とも呼ばれており、中流域では部分的に直方川あるは飯塚川などという場合がある。
(「遠賀川」)
水の流れが渦巻くイメージだったのですが、元々は「御牧」だったということでしょうか。
そうそう、福北ゆたか線の車窓から、念願の遠賀川の川面がほとんど見ることができなかった理由はこれかもしれません。
福岡県北部、筑豊炭田地帯を北流する川。全長61km。嘉麻峠から流れる嘉麻川と冷水峠に源を持つ穂波川とが飯塚市で合流して遠賀川本流となり、英彦山から流れる彦山川を直方市で合わせて芦屋町で響灘に注ぐ。周囲を福智山塊、英彦山地、三郡山地などで囲まれ、嘉穂盆地、直方平野を流れる。流域は古第三紀層が発達し、筑豊炭田の開発とともに各地の炭鉱で洗炭水や坑内廃水などを流すため、天井川となり、大洪水を起こしやすくなった。鉄道開通前の遠賀川は、川船による水運が発達し、石炭や米の積み出しに大きな役割を果たした。しかし鉄道開通後、水運は急速に衰微。今日では流域農村の灌漑用水、北九州工業地域の工業用水、上水道として利用されているが、その利用度は極限に近い。
鉄道や道路の方が川より下を通っていたのですが、やはり天井川だったようです。
こうした説明を読みながら地図で遠賀川を眺めていると、新幹線の車窓から見えた風景とその歴史を歩いてみたいという思いが強くなりますね。
困りましたね。
でも実際に歩いてみると、その後にまたたくさんの資料に出会える醍醐味は捨てがたいですね。
九州は遠いので、また頑張って節約して旅費を貯めましょう。
乗れば乗るほど安くなるとか、交通権に基づいた制度が少なくなる昨今が少々不安ですけれどね。
「行間を読む」まとめはこちら。
新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録はこちら。