より蛇行した畦道を選んで歩き、山陽新幹線の高架橋の近くの集落に入りました。
大賀博士顕彰碑の場所が描かれた地図がありましたが、これまた目の前の複雑な道のどれを歩いたらよいかわからないほどシンプルなものでした。まあ、地図というのは「環境と自分たちとの関係を概念化する手段」であり、「いかなる地図もつねに主観的である」ですからね。
一本道を間違えれば大賀博士顕彰碑とは出会えないのですが、迷ったらまたより蛇行する道を選びましょう。
田んぼのすみに何か新しい石碑が見えました。
近づいてみると「蓮ハ平和の象徴也」と彫られていました。
当日撮った写真を見直すと「象徴也」の部分が崩し文字のように彫られていて、本当にその読み方で大丈夫か確認するために検索したところ、岡山朝日高校同窓会公式webサイトの「先輩たちの足跡を訪ねて」にその由来がありました。
博士の教育・研究活動には、常に平和を意識した行動が伴い、生まれ故郷の庭瀬城の堀に浮かぶ「大賀ハス」の横には、「蓮は平和の象徴なり」という博士の言葉を紹介した説明看板が建ちます。
また、ご自身が書かれた文章にも、「昭和13年6月4日に起こった張作霖の爆死や、昭和16年9月18日に起こった柳篠溝事件を親しく目撃した私はこれを快く思わなかったので翌7年3月末職を辞して東京に帰った」(『烏城』106号(25)(原文は縦書き漢数字)の一節があります。
(同サイトより)
*「生きる希望や夢こそは、正に当時の世間に最も欠けていたところのものである」*
「大賀ハスの発見」に、大賀博士の調査の協力者となった方の回顧が掲載されて、当時の雰囲気が書かれていました。
昭和25年、68歳の老博士は千葉市にある東京大学の検見川厚生農場の管理人高野忠興を訪ねて、「ここを掘れば蓮の実がでる」と、発掘を依頼する。一面識もない老人の唐突な願いに高野は驚いたが、「しかしながらどうも博士の言動には、何かみすて難いものがあることを感じた。この老貧学究が生きるのにも苦しいこのご時世に、何を好んで、子供の遊びのようなことをしているのか、なぜ、そんなばかげたことにむきになっているのか。話をきいているうちに分かってきた。何千年と眠ってきた蓮の生命をよみがえらすことに明るい望みを託し、夢を抱いておられるということがだんだんと分かって来た。そういえば、生きる希望や夢こそは、正に当時の世間に最も欠けていたところのものである。」(『学士会会報』1965-Ⅲ No.688)と感じて、発掘の協力者となった。
(強調は引用者による)
あの「市民の心はなかなか混迷を抜け出せなかった」とバラ園を始めた福山市の歴史が重なりました。
戦争の禍根は何世代にも続くし、戦争が終わっても生きる希望や夢が欠けた時代が続くのですね。
戦争だけでなく、政治や経済のあり方が間違ったことに対して「黒を白に、白を黒に」とする現代のような時代もまた、社会に生きる希望や夢が欠けた空気にさせるのだと重なりました。
数年前にふと蓮を見たいと思いついて出かけ、古代バスと大賀博士を知ることになったのですが、大賀博士のこんな思いが綿々と受け継がれていたとは。思えば遠くに来たものです。
*蓮の記事のまとめ*
いつの間にかあちこちの蓮や蓮の名がついた場所を歩いた記録や蓮について考えたことがたまって来ました。
<2015年>
<2017年>
<2018年>
<2019年>
<2020年>
<2021年>
<2022年>
<2023年>
<2024年>
<2025年>
小倉の新幹線海底トンネルの出入り口のそばにある徳蓮寺のことば
<2026年>
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