水のあれこれ 442 周濠と溜池をむすぶ烏田川へ

念願だった纏向(まきむく)遺跡の田んぼの中にある古墳と環濠集落を歩くことができました。

といっても、まだほんの一部なのでもっと歩きたくなる宿題ができるのが奈良ですね。困りました。

 

しだいに西の山側に黒い積乱雲が広がり始め、遠く雷鳴も聞こえています。初日から何とか土砂降りや雷をうまく避けて歩くことができたのですが、もしあの積乱雲がこちらへ向かってくるようなら、今回の遠出の最後の訪問地になりそうです。あとは奈良駅の駅ビルに避難することにしましょう。

 

 

景行天皇陵の周濠の水が流れる溜池と神社へ*

 

県道50号線を北へ少し歩いたところで東へと曲がると、草川地区に入ります。

その名も「山の辺」病院があり、JRまほろば線のすぐそばに神社と溜池があります。

 

そのそばを流れる烏田(からすだ)川を上流へとたどると、途中山辺の道に沿ってある景行天皇陵と珠城山古墳群の周濠からの水が合流していて、さらに上流を見ると「穴師」という場所にいくつかの溜池があるようです。

 

奈良の溜池を歩こうと思い始めた頃から、このまほろば線のそばの溜池と神社も計画の中にありました。車窓からすぐのところに見えますからね。

ようやく念願が叶いそうです。

 

山の辺病院の前から南へと曲がると、白い柵に囲まれた溜池がありました。名前は書かれていませんでした。

 

まほろば線の線路に沿って神社への参道があります。

神社と溜池の境に烏田川が流れ、線路は3mほどの小さな橋梁で結ばれています。レンガ造りの古い土台で、烏田川の右岸は石積み、左側はコンクリートの護岸です。

小さな流れですが、山側から清冽な水が流れ、線路のそばにはてっぺんまで花がついたピンクのタチアオイが咲いていました。もうじき梅雨が明けるでしょうか。

美しい風景です。

 

神社は灰色の屋根に白壁と焼き板の小さな民家のような佇まいで、後ろに一本の大木がありました。

お社に、木の縁台が造られていて「喫煙所」になっているので、集落の休憩所のような感じでしょうか。

 

満足して参道を線路沿いに戻り、踏切を渡って、巻向駅の東側の道を通って駅へと向かいました。昆布屋さんとか和菓子屋さんがあり、こちら側が商店街だったのでしょうか。落ち着いた美しい家並みがありました。奈良ですねえ。

 

 

 

*穴師から大和川へ*

 

大和川水系の「先人の記録」であるAGUAにこの烏田川の説明もありました。

 奈良県桜井市を流れる、大和川中流部に注ぐ小支流。

一級河川の起点は桜井市巻野内の家ツラ。西流し、奈良県磯城郡田原本町蔵堂で大和川(初瀬川)右岸に注ぐ。全長約3.8km。流域面積1.9㎢。

 上写真は旧の街道筋から見たもの。街路は上つ道の面影を残す古い家並みが続く。

川相は家々の背割を流れる水路状で三面張り、屈曲しながら流下する。

国道169号から上は田脇の溝状で、景行天皇陵脇に扇状地をひらく。

JR桜井線をくぐったあとは町はずれを流れる。幾分幅を広げ水量も増す。(以下、略)

 

私には「小さな川」ですが、これだけ簡潔・的確に表現できるものなのですね。

 

景行天皇陵脇に扇状地をひらく」

たしかあのあたりにも田んぼがあったような記憶がかすかにあるのですが、あれが烏田川のあたりだったのかもしれません。

 

さらに上流はどんな場所なのだろうと、「穴師」で検索してみました。

穴師 あなし

奈良県中北部、桜井市北部の地区。巻向山麓(まきむくさんろく)の巻向川(穴師川)に沿って古い農業集落が立地し、ミカンの産地として知られる。近くに式内社穴師坐兵主(いますひょうず)神社がありその参道に位置する相撲神社は相撲発祥の地と伝えられる。『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇7年の条に、巻向珠城宮(まきむくのたまきのみや)にいた天皇が出雲(いずも)国(島根県)の野見宿禰(のみのすくね)をよんで当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとらせたと記されている。また近くを山辺の道(やまのべのみち)が通り、柿本人麿(かきのもとのひとまろ)(人麻呂)の歌碑がある。

コトバンク、「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

 

式内社穴師坐兵主神社と相撲神社は、巻向川よりは北側を流れるこの烏田川沿いのようです。

 

「精選版 日本国語大辞典」の「穴師」の説明では、「垂仁・景行天皇の皇居があったところ」と書かれていました。

「穴師」と烏田川の上流、いつか訪ねてみたいものです。宿題がどんどん増えて困りましたねえ。

 

まほろば線を境にして、東側は緩やかな棚田の地域で、その東側の巻向山からの水が線路を越えると大和川へと平坦な水田地帯を潤しているのですが、地図で見ると、東から西へ条里のように整然と描かれています。

 

2000年近く前にあった皇居のそばを烏田川は流れていたのでしょうか。

その後、4世紀後半に築造された周濠の水を合わせて、大和川右岸の水田地帯に整然と水路が造られたのはいつ頃だったのでしょう。

考えていたらその水の歴史に気が遠くなってきました。

 

 

最近、簡単に水田の大規模集約化とかいう風潮ですが、大型機械でガーっと整地すれば済む話でもなさそうですよね。

 

 

 

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