医療介入とは  87  <CTG(分娩監視装置)は何を表し、何をどうやって知ることができるか>

分娩進行中に陣痛圧と胎児心拍数を連続的に測定する分娩監視装置(CTG)は何を表し、そこからどのような情報を私たちは得ようとしているのでしょうか?



こちらの記事で紹介した、「周産期医学」2012年4月号(東京医学社)の「特集 CTGテキストブック2012−日本母体胎児医学会共同企画」に書かれている冒頭のタイトルが今日のタイトルです。


最初に次のように書かれています。

 分娩監視装置は広く普及しているが、そこから得られる胎児心拍数陣痛図(CTG:cardiotocogram)をどう解釈し、どのような行動をとるべきかについては臨床現場で議論になることも少なくない。


私が助産師になってからの二十数年でも、陣痛と胎児心拍数のパターンについての解釈や名称が次々に変更されました。


現在、私の勤務先では、日本産婦人科医会医療安全委員会発行の「分娩監視装置モニターの読み方と対応」というポケットマニュアルを参考にしています。
副題には「胎児心拍数パターンをしっかり読んでお母さんと赤ちゃんの健康を守ろう!」とあります。


正直、全ての変更箇所は頭に入りきっていません。
それほど、名称や定義が今も尚、検討途上にあるということだともいえるでしょう。


上記の特集では、続けて以下のように書かれています。

日本産婦人科学会周産期委員会が、判読の標準化のために心拍数パターンを定義しなおしたが、それでも判読に不一致が生じることも少なくない。


これもまた、行間を読むということだと言えるでしょう。


ポケットマニュアルにまとめられた定義や対応のその行間には、そこには収まりきらないほど多様で不確実な状況が無数にあります。
「この波形をどう判断するか」
「緊急帝王切開にするか、待つか」「吸引分娩にするか、もう少し待つか」


ひとつとして同じ経過のお産はありません。
また医師・助産師あるいは看護師によっても判断に差が出てくるので、答えがあるようでない状態なのです。



<分娩時のCTGの目的>


なぜ、分娩進行中に分娩監視装置によってモニタリングするのか、その目的が書かれています。

1.胎児の低酸素・アシドーシスを速やかに発見
→速やかな処置
→intact survival(後遺症のない生存)


2.陣痛の状態を評価

胎児の低酸素・アシドーシスに関して、以下のように説明されています。

 子宮内の胎児は、胎盤機能不全、子宮収縮、臍帯圧迫などさまざまな要因によって、低酸素状態、さらに進んでアシドーシスに陥ることがあり、重篤な場合は能などに不可逆な損傷を受けたり、死に至ることがある。

特に分娩中は、繰り返される強い子宮収縮によって、時に酸素が十分供給されない状況が急速に進行する危険性が高い。

胎児の血中酸素濃度を直接測定することはできないので、その代わりに酸素飽和度をモニターするために分娩監視装置が開発されてきたわけです。


<まだまだわっていないことがたくさんある>


助産師であれば、当然上記の胎児の低酸素の説明は「知っている」と思います。


ところが、pakoさんのこちらこちらでいただいたコメントのように、連続してモニタリングすることには抵抗がある。


おそらくそれは、「こんなことも起こるのか」とわかっていないことがたくさんあることを認められていないからなのだと思います。
私もそうでした。


特にリスクのない妊婦さんでも、陣痛が始まると子宮内の環境は激変します。
「こんな早い時点で徐脈がでるのか」
「この体勢だと徐脈がでるのか」
「耳で心拍数を聴いている限りは明らかな徐脈はなかったのに、遅発性一過性徐脈だったのか」


連続モニタリングをしなければわからないことがある。
そうであるならば、「連続してモニタリングしなくて大丈夫」ということはいかに根拠のないことでしょうか。


それを認めざるを得ないのは何か事故が起きた時、つまり、「脳などに不可逆的な損傷を受けたり、死に至ることがある」という場面に遭遇した時では遅いのです。


日々のCTGモニタリングの中で、ヒヤリとしたことは誰にもあると思います。
そこから私たちは自ら何かを学んで、初めて上記の目的の行間を理解できるのだと思います。


「耳で聴いている分には徐脈はなかったのに」という体験をした私でもなお、現在の勤務先の分娩開始後からの持続モニタリングには初めは抵抗がありました。
でも、実は「ずっとつけていてもよい」ことにホッとしたのも正直なところだと思います。
「着けっぱなし」「産婦さんを器械につないだまま」というどこからともなくわきあがる罪悪感のようなものを感じずにすみました。
これで、胎児の心拍数をずっと確認することができる、と。


そして「分娩監視装置を連続してつけていても、側を離れない」。
これが私があのお産から得た教訓です。