「どうぞ」

犬養道子さんの本に書かれていたもうひとつの言葉、「どうぞ」もけっこう使える言葉だと思っています。


でも簡単そうなこの一言ですが、この「どうぞ」の一言を言えるようになるのにはその場の状況を判断できるからこその一言なのではないかと思います。


<自分が弱い立場になった経験が生かされる>


日頃、健康に恵まれ自分に自信をもって生活をしているときには、なかなかそれを失った時の大変さを想像するのは難しいものです。


<弱者に冷たいのか>に書いたように、私が腰痛でゆっくりしか歩けないだけでもあの通勤の人ごみの流れが滞り、でも周囲の人もうまくよけながら流れを作ってくれていることを初めて認識しました。
あの経験以降、体がつらそうに歩いている人にはさらに配慮しようという気持ちになりました。


そして、どちらかというとそういう弱者のほうが「お先にどうぞ」という立場になりやすいのですが、状況によっては先に行ってもらった方が安全であったり、「ゆっくりどうぞ」とこちらも待てるようになると、あれだけせかせかしていた時間はなんだったのだろうと思えてます。


<高齢者を看護していたのに本当の理解ではなかった>


最近は、会うたびに足が弱くなっていく両親に歩調を合わせる事が多くなりました。
ショックだったのは、2年ほど前に母と買い物に出かけた時にエスカレーターの一歩が踏み出せなくなってしまったことです。
普通の速度だったのですが、乗れなくなってしまいました。
あの日以来、母は買い物に行こうと言わなくなってしまいました。


父も公園を散歩していても敷石のわずかの段差につまずきそうになったり、十数メートルを歩くと休憩が必要になりました。


「高齢者を大切にする」ということは入院中の高齢者の看護を通して人よりは具体的に理解していたつもりでしたが、親の歩く速度にあわせるようになってからはまだまだあれは理解不足だったのだとあらためて思うこのごろです。



街を歩いたり電車に乗っている時に、両親と同じ年代の方を見ると両親と姿が重なります。


私たちには平に見える道がとてもでこぼこして歩きにくいだろうなとか、電車のなかでもてすりにつかまりやすい場所はどこだろうと一緒になって考えています。
すぐに「どうぞ」と言えるようにしたいものだと。


考えても見なかった自分の中での変化です。
まあ年をとったということですね。


そしてあと10年、20年のうちには私が「どうぞ」と言われる年代になるので、その時には「(そのように状況をみて判断してくださって)本当にありがとう」と言えたらいいなと思います。


犬養道子さんの本に書かれていた「どうぞとありがとう。この二つの言葉があれば世界中どこでも生きていくことができる」ということが、ようやく理解できてきたような気がします。




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