行間を読む 45 <「私とは何か」>

「無とは何か」
この問いを半世紀ほど、考え続けています。
半世紀前と言ったら自分がまだ幼児の頃で、父に問われたのでした。


幼稚園児にこのような問いをする父によって、私はおよそ子どもらしくない何かを抱えてしまったように思っていました。
そして、一緒に遊んでくれる「父親らしい」大人がそばにいる他の家庭をうらやましく思っていました。


今だにこの問いを考え続けているようなところがあって、自分が生きていることが現実なのが幻なのか変な感覚に囚われることがあります。
ただ、この「乖離した感覚」こそが生きているリアリズムなのかもしれないと思えるようになったのは、1990年代終わり頃に図書館でふと手にした池田晶子氏の本でした。


最初にどの本を読んだのかは忘れましたが、その後は夢中になってある限りの本を探して読みました。


私とほぼ同じ年なのですが、もっと彼女の著作を読みたいと楽しみにしていたのに、2007年に亡くなられたのでした。


2009年に出版された「『最後の』新刊」である「私とは」(講談社)の帯には、こんなことが書かれています。

私とは何か さて死んだのは誰か

私が消えれば、世界が見える
この世の出来ごとに惑わされず生きるためにー今こそ<私>を考える

自分なんてものは、死んでみなけりゃ、わからない


なんだか、やはり禅問答のようですね。



<「残酷人生論」より>


1998年に情報センター出版会から出された「残酷人生論」のプロローグに、少しヒントがあるような気がしました。


考えることは、悩むことではない


世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからにほかならず、きちんと考える事ができるなら、人が悩むということなど、実はあり得ないのである。なぜなら悩むより先に、悩まれている事柄の「何であるか」が考えられていなければならないのである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからないこと」は考えられるべきである。ところで、「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか?


悩むのではなく考えるという事が、いかほど人を自由に、楽しく、するのか。

普通に人が、「悩む」という言い方で悩んでいる事柄は、内容としては、人さまざまである。ひとさまざまに、じつによく人は悩んでいる。しかし、その内容においていかに人さまざまであれ、その形式においてはそれらはすべて、「私とはなにか」「なぜ生きているのか」「死ぬとはどういうことなのか」といった、いくつかの基本形に、必ず集約されるのである。「哲学」というものの考え方は、誰がどのように考えてもそのように考えられるという仕方で、これらの事柄を「考える」のであって、これらの事柄を難しい言葉でもって「悩む」のではない。これらの事柄を「個人の悩み」として悩むのでは決してないのだ。だからこそ人は、より自由に、より力強くなれるのである。

右のような事柄を、考え方の道筋に沿った仕方できちんと考え、納得と確信を手にし、さらなる段階へ進むという過程は、少なくとも私にとっては、切なる喜びなのだった。そして、私がそうだということは、むろんほかの誰もがそうなのだと、こう思っていたのだ。ところが、なんと、人は言うのだった。「それは残酷だ」。

ならば、私はこう言おう。考えるということは残酷なことである。ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない。ありもしない慰めで人を欺かない。人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほどその意味においては残酷なことである、と。


「ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない」「ありもしない慰めで人を欺かない」


「私らしさ」とか「自己実現」といった言葉が多く聞かれるようになったこの20〜30年ほどを振り返ると、池田晶子氏のいう人生についての基本形の問いから目をそらしてきたのではないかと思えるのです。





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