正しさより正確性を 25 啓蒙やプロパガンダではなく

一昨日紹介した東京都看護協会の「看護職のタバコ対策」のチラシは両面の印刷で、もう一面には「看護職のみなさん!『タバコ規制枠組み条約(FCTC)』に日本が署名、締結していることをご存知ですか?」と一回り大きな字でタイトルが書かれていますから、こちらが表側なのでしょうか。

そして「締約国でありながら、我が国の禁煙対策は、最低水準とされています」と続いています。

 

漠然と世界の禁煙への動きは追っていても、たしかにそんな条約があるとは知りませんでした。

一瞬、「そうだ、だから「年間二十数億円が区民の皆さまに役立っている」という表示が許される社会なのだと、納得しそうになりました。

 

2004年に日本も署名した「タバコ規制枠組み条約」について説明がされていました。

同条約は、「タバコ消費の削減」を目的に掲げ、各締約国が「たばこの消費及びたばこの煙にさらされることが死亡、疾病及び障害を引き起こすことが科学的証拠により明白に証明されていること」や「出生前にたばこの煙にさらされることが児童の健康上及び発育上の条件に悪影響を及ぼすという明白な科学的証拠があること」等を認識したうえで、目的達成のための基本的原則および各締約国の義務にういて規定した。公衆衛生分野における初めての国際条件です。受動喫煙防止に関しては、5条(一般的義務)2項(b)および8条に置いて規定されています。 同条約は、2003年5月21日の第56回世界保健総会(WHO)において採択され、2005年2月27日に発行しています。

 

この条約に署名したからこそ、公共の場やレストランなどでの喫煙が制限されるようになったのですね。

8年前にはまだ競泳会場周辺での受動喫煙やサードハンド・スモークに悩まされていたのが嘘のようです。

 

では、「我が国の禁煙政策は、最低水準と評価されている」というのは具体的にどういうことなのでしょうか。

 

*錦の旗ではなく、長期目標を立てる*

 

私自身、タバコの煙や匂いは本当に嫌ですし、仕事上、新生児や子どもが受動喫煙の機会が減るようにこれからも呼び掛けていきたいとは思います。

 

ただ、タバコを適切に吸い、本人にも周囲にも匂いや有害物質が影響しない方法が開発されれば、人の嗜好や選択はとやかく言いたくないと思っています。

人口密度が高いと集合住宅の隣の家からも匂いが漂ってきたり、歩いていても家の中からのタバコの匂いを感じることがしばしばあります。でも、遠出の散歩をしていると、家の間隔があるからでしょうか、ほとんどタバコの匂いに悩まされることはありません。

程度問題とも言えそうです。

 

タバコをやめたくない人の嗜好が、自身の健康にも他の人の生活にも影響が少なくなる方法もいつか見つかるかもしれませんからね。

 

東京都看護協会の次の目標はなんなのでしょうか。看護職の喫煙率をゼロにすることでしょうか。

それとも、「WHOが」「国際条約が」という話で看護職や一般の人を禁煙の方向へと向けることでしょうか。

 

*啓蒙やプロパガンダの時代ではない*

 

20代の頃は、WHOとかCDCあるいは国際機関というのはとてつもなくすごい知が集結した組織で、「正しい方向を示してくれる」ものだと思っていました。

 

最和感を漠然と感じたのが、1990年代初頭に勤務していた病院では先駆的に「母子同室・母乳だけ」を実践していた病院で、その頃に耳にした「母乳育児成功のための10か条」でした。

2000年代に入ると「母乳育児」というながれになっていきました。そこを後押ししたのがWHOが、国際規準がという言葉でした。

 

その頃、補完療法もそれぞれの国の医療の歴史から慎重に考える必要があった言葉が、「WHOの全人的な」という言葉で後押しされていきました。

 

今回の新型コロナウイルスへのWHOとかCDCの対応を見ると、迷走ではなく、多様な国や地域の中で解決策を模索するための協議機関だから仕方がないと、自分の中で整理がつきました。

 

そこに「正しい答え」があるわけではなく、問題は何か事実を積み重ね、解決策は何か試行錯誤するしかないのだと思えるようになりました。

 

 

 *啓蒙活動やプロパガンダは手のひらを返すことがある*

 

さて、最近、目にする「日本は避妊方法や中絶方法が遅れている。WHOでは・・・」についてもどう考えたらいいのだろうと逡巡しています。

 

今、私が引っかかっているのは、インプラントが安全で素晴らしい方法として紹介されていることでした。

1980年代から90年代、人口が増えることが問題視されていたので、開発途上国での避妊プロジェクトではインプラントを埋め込むことも始まっていました。当時は、「有無を言わせずに埋め込み避妊させるのは、途上国の女性の人権を無視している」と指摘されていた方法と記憶しています。

 

 

中絶が違法にされている国では、非合法な民間療法による処置が行われていたり、対応してくれる医師を命がけで探さなければならなかった。

そんな経緯があるから「飲むだけで、一人で中絶を処理できる薬」あるいは「女性が自ら手に入れられる避妊方法」は、産婦人科医にかかることができない国での苦渋の選択だったと私は受け止めていました。

 

ところがまさか30年後に、「日本ではWHOが危険としている手術をしている」「女性に対して無理解」とその矛先が産婦人科医に向くとは思いもしませんでした。

その時期に、日本では違法ではなく誰もが産婦人科医にかかることができる体制になり、より安全に、しかも麻酔を使った手術が開発されていたのに。

問題はあるにせよ、それぞれの国のそれぞれの問題解決の歴史があったはずなのに、「声を上げれば世の中はよくなるはず」という言動が、それまで築いてきたものを簡単に失わせることもあると実感したのが、2004年頃でした。

 

あの当時も、「WHOの勧告にみる望ましい周産期ケア」という雰囲気が、後おししていたのでした。

 

最近の私は、「WHOが・・・」という言葉が使われるとかなりその意見には慎重になるのです。

根拠に基づく医療という言葉もたかだか30年なのですが、パターナリズムから解放されることがもっとも厄介なことなのかもしれませんね。

 

 

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