マイバッグがあふれている街の風景に気が滅入り、しょぼさを感じるのは何故なのかと、ここ数ヶ月考えていたのですが、少し前に見たニュースからもしかするとこれかもしれないと思いつきました。
どこかの小学校で新聞紙からマイバッグを作って人にあげることを、良いニュースとして伝えていました。
映像では、子どもたちが何も敷いていない床に直接新聞紙を置いて袋に折り、持ち手を別に折ってホチキスで止めて作っていました。
わぁと叫びたくなりました。
電車の中とかで荷物を床におく人がなかなかいなくならないのは、床は不潔という医療的な意味での「不潔」が伝わらない理由ですね。
「ごめんね。せっかく作ってくれたけれど、日頃の買い物の重さに耐えられそうにないから」、とだけ言って辞退しましょうか。
*手作りは正義*
新型コロナウイルスが広がってからも手作りマスクとか手作りビニールエプロンとか、しばしば子どもたちが作ったことが美談としてニュースになりました。
当初の医療物品が足りない時期になんとかしたいという気持ちはわかるのですが、マスクひとつとってもそれは正確な基本的な知識が必要で、善意だけでは危険なものにもなるというあたりが理解されにくいのかもしれませんね。
もし、子どもたちが「手作りのマスクを作ります」「手作りのバッグをつくります」と思い立ったとしたら、「自分で使うのに留めておいた方が良さそう」ということを説明した方が良さそうですね。
*便利さに抵抗することが正義*
プラスティックバッグ一枚を見ても、良質で均一の製品が安価で供給されているとつくづく思います。
あるいは野菜や果物の保存袋など、本当に夢のような製品もあります。
どのような方達がこの開発に携わり、どんな試行錯誤があったのか、その歴史を知らないままにきてしまいました。
ところで、80年代から90年代初頭に都内では炭カル入りのゴミ袋に変更になりました。
それまではどんなゴミ袋でもよかったですし、中身の見えない黒っぽいビニール製が好まれていたと記憶しています。
ところが、行政側からこのゴミ袋しか回収しないという方向性になりました。
高い割には破れやすくて二重にしなければならなかったり、何より強制されることに最初は抵抗がありました。
それでも協力できたのは、公害も減り、生活環境も改善されることを実感していましたし、いつかゴミ焼却場の機能が向上していくだろうという期待もありました。
ですから「住民参加」できたのだと思い返しています。
そしていつからか、どのようなプラスティックバッグでも環境負荷が少なく焼却できるようになり、いつの間にかゴミ袋を購入しなくても済むようになったのでした。
マイバッグ運動に感じるしょぼさの理由、それは便利さに抵抗することが正義で、ここぞとばかり手作り感、自分の工夫をアピールした製品がでる。
一つの製品にもリスクマネージメントが徹底され始めている専門性への理解が片手落ちになっているとも言えるかもしれません。
「住民参加」だけはしているような雰囲気ですね。
なんだか、自然なお産とか医療に頼らないとか、既視感がありますね。
同じ方向を求めていたつもりが、全く違う方向にならないといいですけれど。
「気持ちの問題」まとめはこちら。
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レジ袋とエコについての記事のまとめはこちら。
ごみについてのまとめはこちら。