水のあれこれ 267 白川流域かんがい用水群

まさか目の前が白く煙るほどの大雨になるとは思わずに念願の水前寺公園に向かって市電に乗った時、車内に貼ってあった「白川流域かんがい用水群」のポスターが目に入りました。

 

さすが水の国熊本ですね。

「かんがい用水群」の言葉に惹かれたのですが、今回は日程的に無理そうです。

 

帰宅して検索したら、「世界かんがい施設遺産 白川流域かんがい用水群[熊本県熊本市菊陽町大津町]」(おおきく土地改良区)がありました。

■約400年前、加藤清正や歴代細川家の手によって「上井出用水」、「下井出用水」、「馬場楠井井出用水」、「渡鹿用水」が築造され、約1,800haの新田が生まれた。

 

■流況が不安定な白川流域において利水(平常時の効率的な用水取水)と治水(洪水流域の排水)を両立させるため、「斜め堰」が設けられた(渡鹿用水に現存する)。

 

■用水群の築造と新田開発により大規模な地下水の流れを伴う地域水循環が形成された。白川中流域の水田で涵養される地下水資源は、熊本地域の約100万人の生活を支えている。

 

■当時の最先端技術によるこれら施設は、地域の自主的な維持管理もあって、度重なる災害にもかかわらず、機能を失うことなく現在も利用されている。

 

その「土砂堆積抑制の機能を持つ「鼻ぐり井出」(馬場楠井手用水)」の写真を見て、ブラタモリ「#35 水の国・熊本」で観た記憶とつながりました。

 

 

*「白川について」より*

 

国土交通省九州地方整備局熊本河川国道事務所のホームページに、「白川の歴史」がありました。

加藤清正〜国づくり川づくりの偉業

豊臣秀吉子飼の武将で数々の武勇伝で知られる加藤清正が、佐々成政のあとを受けて肥後北半国の領主として入国したのは1588年(天正16年)のことです。それまでの肥後は長らく多数の国衆が群雄割拠した状態でまとまりが無く、大規模な国づくりがなされていませんでした。特に、白川、緑川、菊池川といった大河川が多いのに河川整備は手つかずの状況で、大雨による河川の氾濫が頻発し領民は苦しんでいました。

 

清正は入国後大がかりな領地整備に着手します。新しく熊本城を築城し、城下町の防御及び洪水被害から守るため、坪井川と白川を切り離すなど大幅な改修を行いました。また坪井川を城下町と他地域を結ぶ舟運行路として整備するとともに、領内の多くの川で利水堰を設けかんがい用水を確保することで水田を大幅に開発しました。このように清正は、優れた武将であっただけでなく、後々まで「土木の神様」「せいしょこさん」として民衆から慕われました。

 

熊本駅のそばで坪井川と白川が並走したような場所があるのはそういう歴史だったのですね。

 

細川治世の治水利水

1611年、清正の逝去を受け子の忠弘が家督を継ぎ、その後1632年に加藤家に代わり細川家が肥後藩主となってからも清正の川づくりの意思は引き継がれ、瀬田上井手は細川忠利が完成させました。また赤瀬堰、細井手、津久礼井手、保木下井手、琵琶首井手などが整備され、かんがいが行われました。

 

その「近代治水事業の始まり」には現在の治水利水施設が紹介されています。

 

ぐるりと全てを見てみたい。

帰ってからも熊本の妄想の旅が続いているのですが、公共交通機関だけでは無理そうです。

熊本の世界かんがい施設遺産をめぐるツアーとかあったらいいのですけれど。

 

 

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