水の神様を訪ねる 111 境内の下を大石水道が流れる長野水神社

期せずしてうきはの大正時代の灌漑用水の歴史を知ることになりました。

さあ、あと少しで2日目の目的の一つである長野水神社です。

隈上川の河畔に沿って長細く参道が続き、地図では同じ境内にもう一つ水神社が描かれている場所です。

川に沿って大きな古い石碑と銅像が並んでいました。

 

石碑の間に「大石水道全体図」がありました。うきは駅のあたりで途中下車してみようと思った理由は、この辺りに複雑に用水路が交差して流れ、そして水神社があることだったのですが、この境内を訪ねてその全容を知ることになりました。

一つ手前のJR筑後大石駅から北へ900mほどの筑後川から取水した用水路が、川と交差しながら流れたあと分水し、左岸の農地を潤しているようです。

「水路延長 約148km 受益地 約1,940ha」と書かれていました。

 

そして現在は、この隈上川と交叉する部分はサイフォンである説明板もありました。

今に生きる五庄屋遺跡 長野サイフォン

 大石から取水した水が吉井方面に向かうためには、この長野で隈上川(くまのうえがわ)を通過しないといけません。

 以前は大石から来た水を川に合流させ、この地に長野堰を設け、再度取水していました。この石は、その長野堰の一部です。

 現在は長野堰を廃止し、サイフォン形式にしており、直径18mのパイプ3本を河底に設け、下流水路へと流下させています。

 

「五庄屋遺跡」ということは江戸時代の水路でしょうか。

 

*「筑後川の水がほしい」*

 

「長野水神社の由来」にその答えが書かれていました。

 江戸時代は天災・飢饉の多い時代であった。米の不作のために農民の逃亡が起こり、治める久留米藩も地方のまとめの庄屋も不安と心配の連続であった。その頃、生業の郡の江南地区に五人の庄屋、栗林治兵衞、本松平右衛門、山下助左衛門、重富平左衛門、猪山作之丞がいた。自分たちの住む地のすぐ北側に筑後川がとうとうと流れていた。この水が欲しい。何とかしてこの豊な流水を導水したいと、綿密な調査をし、計画を立てて、久留米藩に願い出た。この時郡奉行の高村権内は農民の厚い志を深く汲み取り藩の中枢に働きかけた。寛文四年(一六六四年)ようやく許可が下りた。すぐ工事が始められ約一年間という短期間のうち第一期工事が完了した。特に大石堰、長野堰は最大の難工事だった。

当初水門は一基、灌漑田畑は八十余町(ヘクタール)だったが、予期以上の好結果のため、第四期工事まで立て続けに行われた。水門は二基となり流域は二千数百町歩(ヘクタール)に及んだ。

現在に至るまで数多くの洪水のため何回となく石垣・水門は破壊されたが、その度改修工事をし、導水の確保がなされた。このため水路が出来てからは、どんな日照りの年でもこの地方は不作を免れた。農民及び久留米藩が喜んだのは言うまでもない。

そのため、長野水道を守るため水神社を建立した。それに合わせて五人の庄屋を神として祀ったのである。五庄屋の厚き神恩に感謝するため毎年田植えが終わって、集落単位お礼のお祭りが現在も続けられている。なお、大石水道からの水は、現在サイフォン式により隈の上川の下をくぐり、境内の地下を西に流れ出ている。

また、長野堰は昭和二十八年、四十六年の決壊のため近代的なテトラポット式に改修され昔の石畳の面影は東部と中ほどの一部が残っているだけである。

  平成十五年11月吉日 宮司 熊抱孝彦 謹書

 

目の前を筑後川が流れているというのにその水を利用できない。

あの最上川からの北楯大堰の歴史と重なりました。

そのために力を尽くした人が祭神となり祀られ、そしておそらく工事で犠牲になった人たちも。

 

長野水神社の境内に入った時に、参道がコンクリートの石畳と砂利で新しい神社かと思ったのですが、地下を水路が通っていたようです。

もう一度地図を見直すと、確かに境内を細い水色の線が横切って描かれていました。

 

 

*おまけ*

5月の時点では水路名がなかったのですが、6月にはいるとマップに「大石堰用水路」と表示されるようになりました。すごい地図の進化ですね。

そして、筑後川から取水する大石堰のそばにも水神社が描かれていることを見つけました。やり残した宿題がまた一つできました。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら