散歩をする  582 あふれそうな本降りの中、柳川を歩く

旧水産橋と沖端漁港の歴史を読みながら、一世代に一干拓とか長丁場によって造られた陸地と水路であることに、また気が遠くなりそうでした。

 

そして変哲のない「川」と「水路」に見えるけれど、干満の差を利用して海水に押し上げられた淡水(あお)を得るための「水道」でもあったことに。

 

雨がちょっと強くなってきました。先を急ぎましょう。

龍神社を参拝しました。柳川の地図でところどころ見かける神社です。

御由緒はなく、地域を守る氏神さまでしょうか。境内を囲むクリークに、雨で水紋が広がっていました。太古の昔からの恵の雨ですね。

 

柳川市歴史民俗資料館*

 

ここから東へと、古い住宅地を歩きました。古い住宅地というのは木の香りがして、軒先に草花が手入れされていてなんとも落ち着きます。

その先に、倉敷を思い出すような白壁の建物が見えてきました。目指す柳川市歴史民俗資料館です。ここもクリークの一部が敷地内を流れているようです。

ところがぐるりと回っても入り口がありません。しばらくして、北側に隣接している北原白秋記念館が入り口になっていることに気づきました。

 

古い商家を利用した記念館の中を通ると、奥にありました。

ここを訪ねた目的は干拓の歴史でしたが、残念ながら写真撮影は不可でメモしました。

干拓、提塘集落、両開、昭代地区の基礎、明治開、1898年完工、沖端、六騎、ろっきゅう、5人が海に出て漁をする、沖端川左岸の町、静かな城下町と六騎の町、潮の香漂う路地に密集する漁家、出船入船で賑わう漁港の町、立花藩政時代に津口番所

今読み返すと、ほとんど意味がわからなくなっているのですが、ぼちぼちと検索していきましょう。

 

もう一度、北原白秋の生家の中を通って入り口に向かうとき、黒い立派な柱と薄暗い家の中の雰囲気に、かつての祖父母の家を思い出したのでした。

 

 

*沖端水天宮*

 

資料館を出たら、本降りになっていました。あの遭難しかけた熊本の土砂降りを思い出します。九州の雨はダイナミックですね。

 

地図にあった沖端水天宮を訪ねてみました。あたりに香ばしいうなぎの香りが漂っています。雨の中でもけっこうな観光客が歩いていたのは、運河の両岸にあるうなぎ屋さんを目指しているようでした。

 

その一角に小さなお社がありました。

沖端水天宮由緒

文禄三年(西暦千五百九十四年)立花宗茂公が筑紫次郎筑後川)の浅瀬を狐火に誘導されて、無事に柳川城に入場されたのは狐の加護によるものと稲荷神社(豊受姫神)を建立された。其の後文化年間に京都の彌剣神社(祇園社)の御分霊を合祀され当時祭の際は各町より小舟を出して舟舞台を造り余興や囃子を奉納しました。明治二年に久留米水天宮の御分霊を合祀し、水難安産の神として崇敬の宮です。水天宮合祀と同時に文化文政時代の形式そのままの舟舞台を造り其れを六そうの舟に乗せ三神丸と名づけ歌舞伎を上演し、舟舞台囃子を奉納しました。囃子は古典的の中に異国情緒豊かなオランダ風の調子が交り合って別名オランダ囃子とも呼ばれて古い歴史を持つ郷土芸能で現在は氏子の小中学生による舟舞台囃子保存会が昭和五十年に結成され、毎年五月三、四、五日大祭の時は芝居を上演し舟舞台囃子保存会の子供達が囃子を演奏し町内の若衆が三神丸に棹さし水天宮の堀割を上ったり下ったりする様は全国に類のないものです。

 

ちょうど今年の大祭が終わった直後だったようです。

文禄三年ごろのこの辺りとクリークは、どんな風景だったのでしょう。

 

 

*土砂降りの中、水路に沿って歩く*

 

しだいに傘をさしてもびしょ濡れになるくらい降り始めましたが、ここからは柳川城の外堀りを30分ぐらい歩かなければバス通りにたどりつけません。

覚悟を決めて歩き始めると、何やら賑やかな声が聞こえてきます。韓国語のようです。

この雨の中、ビニールカッパを着て観光客が乗る舟が過ぎていきました。この外堀が、あの柳川の川下りの場所なのかと、初めてつながりました。

せっかくきたからには、という感じでしょうか。

 

雨に心がくじけそうになりましたが、外堀は初夏の緑の遊歩道と美しい水面です。

こんなに雨が降っても水嵩が増してあふれてしまうわけでもなさそうなのは、どういう排水の方法なのでしょう。

水害と旱魃をどうやって乗り越えてきたのだろう、そんなことを気にしながら歩いていると、公園の中に銅像がありました。

 

田中吉政

 田中吉政は天文17年(1548)近江国滋賀県)に生まれました。

その後、織田信長豊臣秀吉豊臣秀次徳川家康に仕え、天正18年(1590)、5万7千石余の岡崎城主となり、のちに加増され10万石の大名となりました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦では東軍に組し、敵将石田三成を捕らえた功績により、筑後一円の国主となり、柳川城を居城としました。

 田中吉政は、天守閣の築造など柳川城の整備や各支城の強化、筑後川矢部川の治水事業、本土居の築堤をはじめとする干拓事業、道路の新設・整備などの土木事業に業績を残しましたが、慶長14年(1609)2月18日、江戸参勤の途中、伏見で客死しました。享年62歳で、京都の黒谷に葬られたとされています。

(強調は引用者による)

 

土砂降りの中ただ無事に歩き切ることだけに集中していたのですが、そばにある説明文の治水事業と干拓事業という言葉がふと目に入って、写真を撮りました。

そうそう、このための散歩なのですが、どこでその詳細を知ることができるでしょうか。

 

 

それにしても滋賀から岡崎へ、そして柳川へ。

戦国時代から江戸時代の「城主」というのは、権力者の意のままに転勤させられていたのですね。そして遠いところからの文化も生活も異なる城主を受けいれていたことは、のちにどのような影響になっているのだろう。

 

堀の水面は遊歩道とほとんど同じ高さで、その向こうの柳川城跡もまた同じ平な場所が広がっています。

柳川の通り柳の美しい水辺が続き、雨でなければそのベンチに一日中でも座っていたい場所でした。

 

 

 

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