記録のあれこれ 235 米倉のあった久米村の久米御縣神社

前日に稗田環濠集落から佐保川を渡り郡山駅へ向かっている時に奈良市内へと移動していた大きな雨柱は、市内の道路が濁流の川のようになるほどの雨だったと夕方のニュースで伝えていました。

 

奈良の周濠と古墳と溜池をめぐる散歩の4日目は、橿原神宮の西側から歩き始めて宣化天皇陵の周濠と田んぼを眺めたあと、御所(ごせ)までバスで向かおうと決まりました。そのあとの予定は決めず、お天気と体力次第です。

 

8時52分橿原神宮前駅に到着しました。まだ8時過ぎだというのに日差しも強く気温が上る中、数百メートルぐらい歩くだけで汗だくになりました。

 

駅の西側に久米地区があります。「久米」という文字を見るだけで、どんなところだろう、どんな歴史があるのだろうと訪ねたくなります。久米田池とか久米池とか。

 

 

*米倉のあった久米村の久米御縣神社

 

 

久米寺アジサイも見てみたかったのですが、かなり境内は広そうです。暑さのためにあきらめ、手前の涼しげな鎮守の森に引き寄せられました。

 

久米御縣神社(くめのみあがたじんじゃ)

 高皇産霊神(たかむすびのかみ、天地開闢(かいびゃく)の時、高天願に出現した神)

 大来目命(おおくめのみこと、大和朝廷の軍事を掌った久米氏の祖神)

 天槵根命(あめのくしねのみこと、久米氏の祖神と関係の深い神)

 

 この神社は『延喜式神名帳』(九二七年)の「高市郡式内社小社」に載る「久米御縣神社 三座」にあたる。

 創建はあきらかではないが、来目(久米)に関わる伝承は『古事記』『日本書紀』の神代までさかのぼり、神武東征の伝説に八咫烏(やたがらす)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、「大来目シテ、畝傍山、以西ノ川辺(かわのへ)ノ地二居(はべ)ラシム。今、来目邑と号く。」との記載がある。『日本書紀』「(第十一代天皇)垂仁二十七紀」に「屯倉(みやけ)を来目に興す」とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる。久米氏の退潮により神社も衰えたが、のちに同地に建立された久米寺の寺域の一画に、鎮守として天神社または久米宮が創建された。以降、平安時代から江戸時代まで、西座・東座・九月座の宮座が中心となり奉斎されてきた。

 寺社の混同が厳禁となり、全面的に神社は久米村により奉斎され、創建当時の久米御縣神社と改めた。例祭は十月十五日であったが、現在十月の第二日曜日となっている。尚本殿に向かって左の境内社は、誉田別命(ほんだわけのみこと) 天児屋根命(あまのこやねのみこと) 大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)を祀り、向かって右は熊野神社伊弉冉命、いざなみのみこと)を祀る。

 また境内地樹林の中に臥龍石と称する巨石があり干ばつの時これを動揺すれば降雨あるとの伝説を伝える。

(注)

 御縣(みあがた) 朝廷の直轄領

 屯倉(みやけ)  朝廷の御田からの穀類を蔵する倉庫

 延喜式神名帳   九二七年に朝廷の制度を記された書物。その中に全国の神名が記される。

 

ふらりと立ち寄った神社の御由緒を読むだけで、ほんとその簡潔な記録に勉強になりますね。

 

この久米地区は橿原神宮の南側に接しています。

両親の新婚旅行が橿原神宮だったとのことで、その有名な神社の名前を子どもの頃から耳にしていたのですが、最近になって、案外と新しい神社だったことを知りました。

 

「朝廷の御田からの穀物を蔵する倉庫」があった頃から19世紀終わり頃まで、畝傍山のこの南側はどんな風景だったのでしょう。

朝廷の御田とはどのあたりだったのでしょう。

石を揺らして雨乞いするような干ばつ、どんな状況だったのでしょう。

お米が税だった時代と現代と、お米について思いをはせるだけでも勉強になりますね。

 

また、やり残した宿題ができました。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

合わせて「米のあれこれ」もどうぞ。