新幹線が吸い込まれるように入っていく新丹那トンネルの向こうにレンガ造の丹那トンネル口が見えてきました。その上の森のような場所が丹那神社のようです。
海側への道へ曲がると、散策する人の数が増えてきました。
丹那神社を訪ねているのかと思ったら、どうやら熱海梅園の駐車場があるようです。
1月下旬ですが、今年は梅の開花が早いようで沿道にも美しく咲いている場所がありました。
梅はまだかと毎年楽しみにしている花の一つで熱海梅園も計画に入れてみたけれど、人が多いようならやめようかと逡巡しながらひとつ手前の誰もいない道へと曲がりました。
*熱海水力発電所*
「丹那神社」と書かれた敷地に入ってすぐにあったのが、熱海水力発電所の説明でした。
熱海水力発電所由来記
明治二十八年十月二十日送電
日本で八番目の発電所
名称 熱海電燈株式会社
持主 国府津村 杉山仲次郎
場所 熱海町字谷戸六八五番地
出力 三十馬力(二十二KW)
電圧 一千Vを百Vに変圧
電灯数 三百灯(但し十六燭光)
熱海の旅館、民家に送電した
平成六年四月吉日 熱海電気協議会 会長 内藤弘
その隣に「明治28年 当時 熱海電気灯会社水力発電所」の絵図があり、熱海梅園の上の「邪馬渓」の滝から22mの落差を利用してその下にある水車を回して発電していた様子が描かれていました。「谷戸六八五番地」、これまでの散歩から「谷戸」というのは人の生活にとってさまざまな意味がある場所だとつながりました。
明治時代に入ってわずか四半世紀で、地域に送電するのですから本当に驚異的に変化する時代ですね。
そこにはたくさんの先覚者たちが各地に出現したことと、「明治期になってとたんに近代的進歩が始まったわけではなく」それ以前の時代からの積み重ねであったことも、この数行の由来の行間にあることでしょう。
*「丹那隧道工事風景写真」*
トンネル口の上が鎮守の森のようになっていて、奥まったところに小さなお社が見えます。
そこへ歩き始めると、手前に11枚の写真が飾ってありました。
丹那トンネル延長25,754尺(7,804m)
丹那トンネル熱海側坑口(1)
丹那トンネル熱海側坑口(2)
坑内6,045尺(約1.8km)地点での掘削工事の状況
大正13年9月上旬 掘削 完成
大正13年11月上旬 覆工 完成
坑内6,600尺(約2.0km)地点での巻き立て工事の状況
大正14年1月下旬 完成
坑内7,233尺(約2.2km)地点の巻き立て工事完成の状況
大正14年7月下旬 覆工 完成
坑内7,200尺(約2.2km)地点での工事の状況
火薬置き場及び見張り所の様子(大正14年冬)
坑内7,893尺(約2.4km)地点での掘削工事の状況
大正14年11月下旬 掘削 完成
大正15年2月中旬 覆工 完成
水抜き坑(排水用トンネル)600尺(約183cm)附近
非常に固い岩盤に到達
水抜き坑(排水用トンネル)と第一連絡口との分岐点
坑内約300mにわたって土砂が流出し埋没。
なお盛んに土砂が流れ続ける状況
昭和2年に発行された「熱海線丹那隧道工事写真帳」から抜粋された写真とのことです。
大正の終わり頃になるとドリルのような機械が使われていたようですが、それでも人海戦術のような様相に見えます。それぞれが「完成」と記録された後の「坑内約300mにわたって土砂が流出し埋没」の一文に、当時の人たちの思いはいかばかりだったことでしょう。
読んでいる間にも東海道新幹線の走行音が頻繁に聞こえ、そしてこの真下を東海道本線が通過していきました。
*慰霊碑と丹那神社*
そばに土木学会推奨土木遺産の記念碑がありました。
旧熱海線鉄道施設群 丹那トンネル(熱海口)
延長7,804m 昭和9年12月竣工
当初の東海道線を輸送強化するために、御殿場線廻りから熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関工事である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。
破砕帯の出水事故などで多くの犠牲を払い、困難を克服して、ようやく昭和9年に完成した。その過程では丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多くある。
このため、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから令和元年度の土木学会推奨土木遺産に認定された。
トンネル口のちょうど真上に、線路と真っ青な海を眺めるかのように慰霊碑がありました。
丹那トンネルの殉職碑
この碑は丹那トンネル開通にさいして鉄道省によって建てられました。
この工事の際、67名の尊い犠牲者が出ました。碑には尊い犠牲者の姓名が刻まれています。この工事は足かけ16年の歳月を要した世界的な難工事でした。完成まで大事故は6回を数え、死者67名、重症者610名という多大な犠牲をはらって昭和9年に開通いたしました。
そこから少し山側へと歩いた所に、トンネル口と線路を眺めるように丹那神社がありました。
そばに「救命石」が祀られて、説明がありました。
救命石の由来
大正10年(1921)4月1日午後4時20分頃、熱海口の坑口から約300m奥に入った所で、一大音響と共に、約2チャイン(40m)位崩壊しました。
丁度この大崩壊の数分前です、ずり(残土)出しの者達が頂設盤のずりを漏斗(じょうご)にあけ、下でトロに受けて居りますと、この大石が漏斗にひっかかった、さあ大変、何とかして、これを取り出さなければいかんというので、ほかのトロ(トロッコ)と共に坑外に出る筈の作業員一同が手伝って、大石の取り除きに従事しました。
そのうちに大崩壊がやってきて一同奥に閉じ込められたのです。
もしこの大石が漏斗に引っかからず、仕事が順調に進んでいたらとすれば、丁度この石にかかっていた多数の作業員はトロと共に崩壊の箇所を通っている時分で、当然埋没される事になった筈です。
この石の為に、一同の命が助かったというわけで、救命石と命名して坑門の上の山神社のところに保存してあるのです。
「丹那トンネルの話」より 丹那神社奉賛会
1921年(大正10年)当時も、奇跡的に助かったことの神頼みだけでなく、重大事故から再発防止という視点はもちろんあったことでしょう。
それから半世紀ほどで、現代の運輸・土木・製造・医療などに共通するインシデントを認め報告する、失敗から学び事故を防ぐリスクマネージメントの根幹ができたのでした。
丹那トンネルの歴史資料館を歩いているかのような、数十メートルほどの場所でした。
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