記録のあれこれ 71 琵琶湖疏水記念館

間が空きましたが、3月初旬に琵琶湖疏水を訪ねた時の記録の続きです。

 

3月に入ると、京都を訪れる観光客の足がばったりと途絶えていた映像を見ていましたし、すでに全国で博物館などの施設の休館が始まっていました。

1月に大津から山科までの琵琶湖第一疎水を見た時に、次は是非、琵琶湖疏水記念館を訪ねようと楽しみにしていたのですが、こんな時なので開いていないだろうと思いながらもとりあえず行ったのでした。

 

中に入ると、琵琶湖の水がどのように京都市内で使われているのかがわかる大きなジオラマがありました。これを眺めているだけでも、何時間でも過ごせそうです。

 

1月に琵琶湖疏水の歴史を少し知る機会になりましたが、今回、蹴上から南禅寺船溜りまでを歩いただけでも、「工事の主任技術師は、工部大学校(現東京大学工学部)を卒業したばかりの田邊朔朗で、疎水工事着工時は弱冠25歳であった」(Wikipedia、「琵琶湖疏水」)の意味に圧倒され続けました。

 

琵琶湖疏水記念館のホームページに「琵琶湖疏水の歴史」がまとめられています。

明治

 

明治14(1881)年に第3代京都府知事に就任した北垣国道は、幕末の繊細と明治維新による事実上の東京遷都により衰退した京都を復興させるため、琵琶湖から引いた疎水の水力で新しい工場を起こし、舟で物資の行き来を盛んにしようと計画しました。そして、琵琶湖疏水の工事に関する卒業論文を作成して工部大学を卒業したばかりの田邊朔朗を主任技師に採用するなどの準備を進めます。

 

この頃の日本の重大な土木工事は外国人技師の設計監督に委ねられていましたが、琵琶湖疎水の建設は全てを日本人の手によって行った最初の土木事業でした。工事は明治18(1885)年に始まり、乏しい資材やほぼ人力による作業など、苦難も多くありましたが、わが国で初めて堅杭を利用した工法を採用するなどの技術的な工夫を行いながら、5年後の明治23(1890)年に完成しました。 

 

第一疎水の完成と合わせて、日本で最初の事業用水力発電所として「蹴上発電所」が建設され、疎水の水を使って発電し、電燈や工場動力に利用されました(電気事業)。また、運河を開さくし、大津や伏見、大阪都の間で米・炭・木材・石材などが舟で運搬されるとともに、観光客を乗せた遊覧船も多く行き交いました(観光事業)。その他、精米や紡績などにも利用される(水力事業)とともに、東本願寺京都御所では防火用として、南禅寺界隈の別荘群では庭園用水として疎水の水を引き込みました。 

 

明治以降の京都の歴史は、琵琶湖疎水がなかったらどうなっていたのか、想像がつきません。

 

それにしても江戸時代が終わってわずか10数年で、これだけの事業を成し遂げるだけの知識や技術をどうやって当時の人たちは得たのでしょうか。

驚異的に変化する時代として印象に残った展示がふたつありました。

 

ひとつは、田邊朔朗氏がアメリカに留学していた時のノートで、全て英語で書かれているものです。

もうひとつはベンチュリーメーターで、どの部分に使う水量計なのかわからないのですが、中のネジやのこぎり状の部品の精密さに見入ってしまいました。

 

そういえば90年代初め頃、水資源開発という言葉を知って、ちょっと偉そうに使った時期がありました。

私は何もわかっていなかったのでした。

 

 

 

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