記憶についてのあれこれ 182 「南平台町」

すり鉢状の渋谷駅周辺ですが、国道246号線と首都高3号線の高架橋がぐんと上って西へと向かう途中の南側の地域が南平台(なんぺいだい)です。

 

「あの日」以来、南平台に岸元首相の邸宅があったことをしばしば目にするようになりました。

 

10代終わり頃から渋谷周辺で遊んでいた私ですが、この南平台のあたりは無縁の地でした。

初めて南平台に行った日のことをかなり鮮明に覚えています。

国道246号線から一本入ったあたりでしょうか、交通量の多い喧騒からまったく別世界のように大きな庭木に囲まれた閑静な住宅地で、庶民的な渋谷にこんな場所があったのかと驚きました。

 

なぜ無縁の場所に足を踏み入れたのかというとそこにかつてフィリピン大使館があったからで、インドシナ難民キャンプで働くために長期ビザを取得するためでした。

鬱蒼とした庭木の中に、かつては誰かのお屋敷だろうかと思う建物だった記憶があります。

薄暗い室内で、それ以前にビザを取るために行ったことがあるアメリカ大使館に比べると来訪する日本人も少なくてひっそりとしていました。

難民キャンプへボランティアに行くと意気揚々と手続きに行きましたが、20代前半の若造はあっさりとあしらわれてしょんぼりとビザをもらいました。

 

その頃からフィリピンへと観光に行く日本人(主に男性)の話題が増えましたが、反日感情が強い時代で渡航することも危険と思われてた国ですから、やはり20代の女性の私は軽く「あしらわれた」のかもしれません。

当時、「こんなに地価の高そうな場所に大使館があるのはやはり歴史からくる何かがあるのだろうか」「なぜ危険な国なのに日本からのビジネスマンと『その筋の人たち』はその国でよく見かけるのだろう」と思ったのですが、その宿題がそのままになっていました。

 

 

*南平台と六本木の大使館について*

 

最近の南平台の様子はよく知らないのですが、どうやらまだ跡地はあるようです。

渋谷の比政府保有地、売却せず開発へ

(アジア経済ニュース、2018年2月15日)

フィリピンのドミンゲス財務相はこのほど、東京都渋谷区南平台の政府保有地を売却せず、新大使館や大使館職員用の宿舎などを建設する方針を示した。14日付マニラタイムズなどが伝えた。

南平台の土地は、1956年に日本政府と締結した太平洋戦争の賠償協定に基づいてフィリピンに移管された不動産のひとつ。面積は約4,800平方メートルに上る。

政府は当初、売却する予定だったが、2008年に実施した入札で応札した企業がなかったため、扱いは宙に浮いている

ドミンゲス財務省によると、財務省は同用地の売却を中止し、代わりに3棟の建物を建設する計画。これらを大使館や職員用宿舎、公文書保管庫、在住フィリピン人の集会場などに利用する方針だ。

財務省は外務省と共同で、開発計画を策定する予定。資金は国債発行で調達し、職員用宿舎の賃貸料を債務返済に充てることを検討している。

(強調は引用者による)

こういう形の戦後賠償もあるのですね。

 

そして「不動産のひとつ」ということは他にもあるのですね。この記事の六本木もそうでしょうか。

お化け屋敷のような大使館 竹下首相に「売却に協力を」

朝日新聞デジタル、2020年12月16日)

 「六本木の土地売却に協力を」。1989年に訪日したフィリピンのアキノ大統領が竹下登首相と会談した際、東京・六本木の旧大使館跡地が売れるよう力添えを頼む言葉が、外務省が23日に公開した外交文書にあった。農地改革を掲げていたアキノ政権は、地主から農地を買い上げる財源の確保に躍起だった。

 約3180平方メートルの跡地は港区六本木5丁目にあり、58年に比政府の所有地となって大使館が置かれた。75年ごろ新大使館が渋谷区南平台にできると旧大使館は放置され、地元で「お化け屋敷」と呼ばれることも。89年1月にアキノ大統領が売却を決め、日本で競売にかけられることになった。(以下、略)

 

ピープルパワー革命で大統領に就任したのがアキノ大統領です。

この記事だと戦後賠償で大使館となった土地は六本木の方で、南平台は75年までは何があったのでしょう。また宿題ができました。

 

「南平台、フィリピン大使館」で検索すると、あれやこれやと先人の記録が出てくるのですが、この六本木の土地はもともと「安田財閥の本邸だった」「かの『オノ・ヨーコ』の実家です」と書かれたものがありました。

 

そしてその六本木に再び大使館が建設された記録を残したものもありました。

デカイ・・・・立派・・・

疑問がありました、渋谷の南平台から六本木に、なぜ・・・移たのか・・・、どこにそんなお金が・・・??

調べましたよ!!

平成9年6月24日、東京六本木の旧フィリピン大使館跡地に、三井不動産伊藤忠商事清水建設が、定期借地権マンション建築を公表。

7階建てビルの低層部はフィリピン大使館と職員宿舎、上層部を一般に占有面積100m2程度の5~60戸でマンション分譲。

定期借地権は、地上権を採用した50年間の定期所有権方式。

地代は契約時権利金として一括払いし、第三者への転賃や転売は自由。フィリピン大使館は、自己負担なしで、建築でき、50年後には土地が戻ってくる。

 

タダで作ったのですよ・・・

その昔は、この場所に大使館が在り、この土地はフィリピン政府の所有するもので、南平台は建替えのための移転だったのでしょう・・・

 

これらの記事の正確性を見極める能力はないので引用元は書かずにおきますが、どうやら南平台も六本木も戦後賠償によってフィリピン政府が所有していたらしいことがわかりました。

 

 

*南平台町の歴史*

 

今は検索するだけで「南平台」の歴史がわかるのですごいですね。Wikipediaの「南平台町」によると、明治半ば頃から「南平台」という地名が用いられたとあり、「歴史・人物」にこう書かれています。

 

明治半ば以降から邸宅街として発展した。外交官内田定槌の洋館は、現在、重要文化財として横浜の山手イタリア山庭園に移築保存されている。終戦時に陸相阿南惟幾らと共に自刃した海軍軍司令部次長大西瀧次郎の次長官舎が、セルリアンタワー南西側の現在の東急本社界隈の地にあった。

さらに、内閣総理大臣(自民民主党総裁)を務めた岸信介三木武夫の私邸があった。前者は1940年代にこの地に居住し、60年安保闘争の際にデモ隊に包囲される騒ぎとなった。後者は現存しており、かつては三木武夫記念館として一般公開されていたが、2012年(平成24年)4月末をもって閉館した。

また岸信介邸の隣には統一教会本部があり、相互に交流があったとされている。

 

南平台の大使館に行った数年後ぐらいから合同結婚式やら霊感商法の話題を耳にするようになったのでした。

 

*「渋谷の記憶」には*

 

さて、あの2009年から2011年にかけて4冊出された「渋谷の記憶」には南平台はどう記録されているのだろうと開いてみました。

 

わずかに1ページで、「大正11年西郷山」の鬱蒼とした山林の写真と共にこう書かれていました。

現在の南平台・鉢山町付近には、かつて西郷公爵家の所有地が広がり、西郷山と呼ばれていました。宅地化が進む渋谷町で、山林や自然の小川が最後まで残っていたこの場所は、子供たちの格好の遊び場でした。昭和3年(1928)に箱根土地によって28万5千坪もの土地が分譲されると、現在のような閑静な住宅地へと変貌してゆきました。

 

南平台の南側が鉢山町で、その西側には目黒川沿い現在も西郷山公園があり、その真ん中を旧山手通りが通っています。

現在は大使館やレストランなどの多いおしゃれな通りですが、1世紀前はまだ山林だったようです。

 

元首相の私邸や安保闘争あるいは大使館があったあたりは、まだ歴史として「記憶」に残すには日が浅かったのか、それとも残さないような雰囲気があるのか。

南平台をもう一度また歩いてみよう、そしてWikipediaの「南平台町」の明治から現在までの歴史を歩いてみよう、宿題ができました。

 

 

 

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