昨年末から都立霊園のことが気になり出して、墓地の散歩が続いています。
青山霊園、雑司が谷霊園、谷中霊園、染井霊園、多摩霊園、八柱霊園、小平霊園、八王子霊園の8か所のうち、谷中霊園は上野動物園に行った時に歩いたことがありますから、まだ行ったことがないのはあとは八王子霊園だけだと思っていたのですが、よくよく思い返すと雑司が谷霊園はそばを通っただけでした。
これは歩いてみないととふと思い立って、訪ねてみました。
*神田川の河岸段丘の上*
記録から見つけられないのですが、雑司が谷付近を歩いたのはたしか神田川を何回かに分けて歩いていた時期ですから、2~3年ぐらい前だったと思います。
あの時は、都電荒川線雑司が谷駅を降ると、池袋の方向が一段と高く見えました。
地図で見ると、護国寺に向かって網を歪ませたような道路が描かれているので、坂道が多い複雑な場所に見えます。
「雑司が谷」、どんな谷なのでしょう。
副都心線は地下深いところを通っているので、つづら折りのようなエスカレーターに乗ってようやく地上に出ました。
細い路地の商店や住宅が、1970年代とか80年代頃を思い起こさせるちょっと懐かしい風景でした。
しばらくすると雑司が谷霊園に向かう道があり、地図ではそこに清立院という寺院がありますが、実際には弦巻通りよりも数メートルは高い場所にありました。
急な坂道を登ると、雑司が谷霊園です。
*雑司が谷霊園*
他の都立霊園とも少し雰囲気がちがったのは、柵が全くないことと、墓地内の道が生活道路として人が行き来していることでした。
青山霊園、谷中霊園、染井霊園と同じく、1874年(明治7)に開園されたためか、平らに整地されていないので、墓地は昔の地形がそのまま残っているようでした。
たくさんの木が墓地内に大きく育っていて、雑木林の中にいるような感じです。
Wikipediaの雑司が谷霊園を読むと、小泉八雲、夏目漱石、島村抱月、竹下夢二など有名な方々のお墓があるようですが、それ以外にも青山霊園と同じく、祖国を離れて日本に知識や技術を伝えようとした方々の墓地もあり、文京区がその業績を記録した説明板があちこちにありました。
「 TOKYO霊園散歩」の雑司が谷霊園の「沿革」に、こう書かれていました。
江戸時代においては、寺請制度により各寺院が付属墓地に各種檀家の埋葬を行って来たが、明治政府は明治7年6月、朱引内での埋葬を禁ずるとともに「墓地取扱規則」を設け、青山神葬祭地他9か所を市民のための公共墓地として指定しました。
「朱引」ってなんだろうと思ったら、 江戸幕府が定めた江戸の範囲だそうで、今や都心のど真ん中にあると感じる雑司が谷霊園ですが、江戸というのは狭い範囲だったのですね。
*豊島岡墓地から護国寺へ*
散歩の前に地図を見ていたら、護国寺の敷地に豊島岡墓地を見つけました。
雑司が谷墓地からそのままここを訪ねてみようと思ったら、「皇族専用の墓地」で一般国民は立ち入りできないようです。
以前、護国寺のそばを歩いたことがあるのですが、鬱蒼とした森のそばが崖のような傾斜地になって、茗荷谷方面へと続いていたのですが、あの森が皇族用の墓地だったようです。
せっかくなので、護国寺の裏手をずっと歩いてみました。
高い柵と大きな木が茂っていて、中は伺い知ることはできませんが、戦前のお墓は土葬だっただけあってかなり広い敷地でした。
「墓地の始まりは1873年(明治6年)」とありますが、おそらく当時は護国寺周辺はひっそりとした場所だったのではないかと思うのですが、現在は細い路地を隔てて、マンションや住宅に囲まれた場所でした。
一般国民だけでなく皇族もまた、どこにどのように自分の亡骸を埋葬するか、驚異的に変化する時代だったのかもしれません。
「散歩をする」まとめはこちら。