祖父江町を流れる幹線水路を目指したのは、今から4年ほど前に弥富市歴史民俗博物館を訪ねた時に渡った水路に「木曽川用水 海部幹線水路」と表示があり、地図でたどったところここに取水堰があることがわかったからでした。
いつかこの幹線水路沿いに歩いてみたい、取水堰を見てみたい。
そしてその地域の生活や歴史を知りたい、その願いが叶った散歩です。
*いろいろな勘違い*
字面だけで覚えていた「海部幹線水路」ですが、こうして当日のことをまとめようと確認したら「あまかんせんすいろ」と読むようです。
弥富などの沿岸部へと送水するから「海部(かいぶ)」なのかと思ったら勘違いで、海部郡(あまぐん)という地名からのようで、その「名称の由来」に「「あま」は、古来より漁業や航海などの職業に携わった海人部(あまのべ)に由来するとされる」とありました。
地名一つとっても確認すると、ほんと勉強になりますね。
もう一つ、馬飼頭首工の読み方は「まがい」ですが、その頭首工の上の道路は「馬飼大橋(まかいおおはし)」、祖父江町馬飼は「そぶえちょうまかい」のようです。
ほんと、日本語は難しいです。
*海部幹線水路*
この取水堰から木曽川左岸をまっすぐ弥富市まで37.5kmという長大な用水路ですが、Wikipediaにその歴史がありました。
1950年(昭和25年)の国土総合開発法成立に基づき、農林省は木曽川から取水する用水を犬山地点に合口する計画を発表するが、木津用水や宮田用水に比べて佐屋川用水は地域と離れているため長い水路の建設など懸念材料が多く計画には参加しなかった。愛知用水・濃尾用水が着手されると、佐屋川用水の地域では安定した取水の確保と排水改良を農林省に求め1958年(昭和33年)から調査が行われる。佐屋川用水を含めた濃尾第二地区は、発展する中部経済圏の年用水需要増大を受けて、農業用水単独事業から都市用水を含む総合用水として計画が見直される。
私が子どもの頃にはよくニュースで耳にした「国土総合開発」ですが、残念ながら頼みの綱のWikipediaにも国土開発法が成立した経緯や当時の雰囲気はまとめられていませんでした。
1950年頃というのは「終戦直後の混乱した時期」「疲弊した時代」「出征で労働力も食糧も不足していた時代」のイメージですが、なんともすごい時代だったと思うことが増えました。
どこからこうした発想やその技術・知識を持った人たちがいたのだろう、と。
*馬飼頭首工(木曽川大堰)と長良川河口堰*
戦後の混乱の時期の1952年(昭和27)に、佐屋川用水樋門が建設されたが塩水遡上や悪水の排水阻害等の支障があり、新たに計画され1974年(昭和49)に完成したのが現在の馬飼頭首工だったようです。
木曽川用水下流部の水源として建設された。この地点には旧・佐屋川取水口があったが、堰の建設とともに改良されここから木曽川用水が流れ出している。
(Wikipedia「馬飼頭首工」)
さらに1994年(平成6年)に完成した長良川河口堰により知多半島まで導水されるようになりました。
目的は上水道・工業用水・灌漑。愛知県名古屋市に上水道を供給。また、三重用水を通して三重県に上水道と灌漑用水を、濃尾地区一帯に工業用水を供給している。さらに長良川にある長良川河口堰と連携し、長良導水を通して知多半島にも上水道や工業用水を供給している。
(同)
そうそう、「孤独のグルメ」に「Season4第五話 愛知県知多郡日間賀島のしらすの天ぷらとたこめし」がありました。
2014年に放送された頃はまだこの番組を知らなかったのですが、この回の再放送を観たのがちょうど愛知用水を訪ねるために知多半島を回った直後でした。
井戸を掘っても赤水しか出ない離島の暮らしでは「死ぬまでに一度でいいから真水を飲みたいというお年寄りがいた話を重ね合わせながら、ああなんという偶然と、ちょっと鳥肌が立つような感じで観たのでした。
もし馬飼頭首工ができなかったら、そして長良川河口堰がなかったら・・・。
正解のない「時代の葛藤」は尽きないですね。
1990年代からのやり残した宿題の地をまたひとつ訪ねることができました。
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