行間を読む 183 中央線沿線から記憶を辿る

1月初旬、稲敷から佐原の一泊二日の散歩に出かけるため、日の出前に家を出ました。

2度で、顔が凍りそうに感じる寒さです。

土浦駅までJR上野東京ライン常磐線に乗るために、新宿駅から中央線に乗って東京駅へと向かいました。

 

ここ数年あちこちを散歩していて、特に東北方面へ出かける時にはこの路線を利用するのですが、ちょっとした緊張感とともに記憶が蘇る路線でもあります。

 

左手の新宿御苑の森を過ぎると小さな崖線のような斜面があり、そこから信濃町(しなのまち)駅へと入ります。

隣の千駄ヶ谷駅とは違って半地下のような駅の印象です。

当駅は地上駅だが、明治神宮外苑側の標高が高いことから、ホームから階段などで上った場所にある改札口が外に段差なく直結している。

Wikipedia信濃町駅」「駅構造」より)

 

南側は神宮外苑、南東に赤坂御所、北西には新宿御苑で、ちょうど細長い窪地のあたりかもしれません。

 

信濃町駅の北口にはまっすぐ都道319号線が新宿通りに向けて通っていて、その新宿通りが内藤新宿から半蔵門までかつての玉川上水を通していた尾根のような場所だと実際に歩いてわかりましたが、四谷方面からこの信濃町のあたりへは下り坂で、さらにここから江戸城まで現在の迎賓館あたりはちょっとした谷間という感じです。

 

信濃町駅を出ると左手は少し斜面のように見えて、四ツ谷駅のあたりでまた半地下駅になります。

今はビルが立ち並ぶので、かつての地形がどんな感じか通過するだけでは想像もつかないのですが、江戸城の外堀の近くに切り立つような場所だったのかもしれません。

 

 

*通過する時に必ず蘇る記憶がある*

 

信濃町駅を過ぎると殿堂のような建物が一瞬見えます。この辺りは半世紀ぐらい変わらない風景に感じるほど1970年代からの記憶が蘇る場所でもあり、そして現代とどうつながっているのか逡巡する場所でもあります。

思い返すと10代の頃から、この街はちょっと緊張感を感じる場所でした。

 

看護学校を卒業して都内の国立系の病院で働き始めましたが、ある日寮の部屋に先輩を引き連れた同期が訪ねてきました。

宗教の勧誘だとわかりました。「◯◯さんの部屋には大きな仏壇がある」「勧誘されるらしい」という噂は広がっていましたから。

 

「うちは禅宗なので」とすぐに断りましたが、「無とは何か」「イデオロギーに入り込むな」といったことを教えてくれた父が、宗教の勧誘には気をつけるようにアドバイスしてくれていたのでした。たしか高校生の頃で、駅名とともに記憶されていたのでした。

 

勧誘された頃の私は宗教からは離れたかったので「禅宗だから」は口からのでまかせで、本当は自分の部屋を北欧調の家具やファブリックで統一したかったので、そこに仏壇を置くなんて考えられないことが拒絶感だったのですけれど。

 

今でも信濃町駅を通過するとその日のことを必ず思い出すので、「国民はすぐに忘れる」なんて人の記憶をバカにできないかもしれませんね。

 

Wikipediaでその歴史を読むと1950年代にそうした勧誘が問題になっていたようですが、1970年代から80年代のなんとなく触れてはいけないような扱いに感じた社会の雰囲気や父のアドバイスの背景がようやくこういうWikipediaなどでまとめられてつながってきました。

 

その後、職場で堂々と本や新聞を広げる同僚からの勧誘を軽くかわせるようになったのは20年ほど前ですが、ねじれ国会から数年後だったのでちょうど息を吹き返した頃だったのかもしれませんね。

最近はさらに、政治に深く食い込んで息を吹き返す団体がまたいつ出現するかという緊張感を今まで以上に感じながらこの駅を通過しています。

 

ところで、この深い谷間を見下ろす崖っぷちのあたりは元々どんな土地だったのだろうと気になっていたのですが、Wikipedia信濃町に書かれていました。

1953年(昭和28年)11月23日ー元駐日イタリア大使館駐在武官邸を購入し、創価学会本部が信濃町に移転。

 

当時はどんな風景の場所で、どんな時代の雰囲気だったのでしょうか。

 

 

散歩の出だしから途中下車の寄り道のようになりましたが、行間が気になることが年々増えてきました。

 

 

 

 

 

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