行間を読む 196 奈良と大阪を結ぶ近鉄線

奈良や京都、大阪近郊の路線図がなかなか覚えられないのは、阪急や阪神といった似た名前の鉄道会社とJRが並走していたり、まるで平城京の条里制のような碁盤の目の路線図だからということ、そして同じ鉄道会社なのにたくさんの路線名があるからだと私の混乱の原因が少し見えてきました。

 

対して東京近郊だと環状の山手線を中心に放射状にそれぞれの鉄道会社名の路線が広がるので覚えやすいのかもしれません。最近は相互乗り入れや空港への便宜のために複雑になりましたが。

 

奈良と大阪を結ぶ近鉄線もブログに書きながらも「何線」なのかすぐに忘れてしまいます。

そういえばまだ近鉄線の歴史を知らなかったと、Wikipediaを読みました。正式には近畿日本鉄道だったのですね。

 

 

生駒線が最初だった*

 

「歴史」を読むと、一番北側の生駒線が最初だったようです。

近畿日本鉄道の母体ともいえる大阪電気軌道(大軌)は、1910年(明治43年)9月16日に大阪と奈良を結ぶ路線を敷設すべく奈良鉄道として設立され、同10年に大阪電気軌道へ改称した。大軌以前の大阪-奈良間の鉄道路線関西本線大和路線)や片町線学研都市線)とも間にある生駒山地を迂回するルートを通っていたため、岩下清周(大軌2代目社長)の発案で両都市を直線的に結ぶために生駒山を貫通するトンネルを建設することを計画する。そして大阪電気軌道や工事を請け負った大林組が倒産しかけるほどの難工事の末に生駒トンネルを完成させ、1914年(大正3年)に最初の路線である上本町駅(現在の大阪上本町駅)-奈良駅(現在の近鉄奈良駅)間を開業した(現在の奈良線)。

 

1911年(明治44)には掘削工事が始まったようです。ちなみに東海道本線の丹那トンネルは1909年(明治43)に復命書が出されたあと、1918年(大正7)に工事が始まり1934年(昭和9)に完成したようですが、この時代はトンネルを造って鉄道を通す大きなうねりのような時代だったのでしょうか。

 

Wikipedia「生駒トンネル」の「奈良線旧生駒トンネル」を読んで、住井すゑ氏の「橋のない川」とようやくつながりました。大林組が「倒産しかけるほどの難工事」という背景もあったのでしょうか。

そしてトンネル内の火災事故やブレーキが効かなくなった事故など殉難殉職の記録が書かれていました。

 

 

近畿日本鉄道へ*

 

その後、1927年(昭和2年)には天理・橿原神宮方面への路線網を確立した。同年に伊勢を目指すため参宮急行電鉄(参急)を設立し、1931年(昭和6年)に宇治山田まで開通、大阪から伊勢神宮への日帰り参拝を可能とした(現在の大阪線・山田線)。さらに伊勢電気鉄道(伊勢電)の合併、関西急行電鉄(関急電)の設立により、1938年(昭和13年)には名古屋へのルートを確立した(現在の名古屋線)。

 

そうそう2019年に木曽三川から紀伊半島を回った時に近鉄に乗ってその範囲の広さに驚いたのですが、きっと戦後にできた鉄道と思っていました。

 

1944年(昭和19年)には国からの強い要請を受け、長い歴史を有する南海鉄道(南海)と新設合併する形で今に至る近畿日本鉄道近鉄)が発足、資本金2億3147万円、総延長630kmの路線を有する日本最大の民営鉄道となった。

だが、こうして国からの要請に応える形で発足した近畿日本鉄道であるが、その天王寺営業局は元大阪鉄道の社員、難波営業局は元南海鉄道の社員をそのまま引き継いだような形となったため、いかにも無理矢理まとめたという印象が当初から強く、特に南海は大軌・関急との資本上・沿革上の接点がほとんどなかったのを、強引に戦時体制の名でつないだようなものであり、戦後の労働運動の高まりとともに、難波営業局では分離運動が盛り上がった。

 

路線図の複雑さには、こんな歴史があったのですね。

 

現在の路線網は1965年(昭和40)にほぼ完成したとあります。私がまだ生まれる前、1950年代半ばに両親は橿原神宮に旅行に行ったようですが、当時はどんな雰囲気だったのでしょう。

 

 

伊勢湾台風と名阪間直通特急の運転開始*

 

奈良から京都への近鉄京都線に2023年3月に乗ったのですが、奈良から三重を通って名古屋までの近鉄線全線はまだ乗る機会がないままです。

というのも一筆書き切符のJR遠距離逓減制度を知ってからは旅程を一筆書きにするのも楽しみなので、三重から奈良へもJRを利用して関西本線と大和路線経由で行きました。

いつかは桜井駅から山間部を通って津へ抜けて名古屋へ向かう近鉄の特急にも乗ってみたいと思いながら、一筆書き切符への未練とこだわりがあるのでした。

 

JRだけでなくて各鉄道会社を利用しても良い一筆書きができたらうれしいなあと、叶わぬ夢でしょうか。

 

さて今回、近鉄の歴史を読んで伊勢湾台風とつながりました。

第2次世界大戦後に名古屋線の改軌が計画され、橋梁架け替えに伴う線路移設などと併せて準備工事が徐々に勧められていたが、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風による被災を機に、当時の社長であった佐伯勇の判断で改軌工事が復旧工事と同時進行で当初の計画を前倒しして実施されることになった。この復旧・改軌工事は、最も手間の掛かる枕木の交換作業などの準備が前もってかなりの規模で進められていて、かつ架け替え工事中であった揖斐川長良川木曽川の各新橋梁が台風で致命的な被害を受けずに済んだという幸運も手伝って、被災からわずか2ヶ月後の同年11月27日に名古屋線および神戸線(現在の鈴鹿線)の工事が完了し、さらに同年12月には新造の10100系ビスタカー2世による名阪直通特急の運転が開始された。

(強調は引用者による)

 

すっかりセピア色の記憶になった幼児の時代ですが、それ以前の1950年代にも鉄道の技術や災害時の判断などなんともすごいものが積み重なっていたのだと改めて思いました。

 

少しずつ近鉄の路線図が頭の中に描けるようになってきました。ぜひ、近鉄大阪線から近鉄名古屋線へと乗ってみたいものですね。

 

 

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