立葵をはじめ初夏の花がたくさん植えられて手入れされている六木の都営団地の前のバス停前の電柱に、「想定浸水深最大4.5m ここは利根川が氾濫すると最大4.5m浸水する可能性があります」と表示がありました。
利根川水系中川の支流「一級河川垳川」や利根川から引いた葛西用水路のそばを歩いているとはいえ、地図で見直すと利根川本流は直線距離で20km以上も離れていて、むしろ荒川の方がすぐ近くです。
改めて利根川流域の一員だと感じますね。
バスはところどころ畑が残る市街地をぐるりとまわって環七に入り、賑やかな綾瀬駅に到着しました。環七の沿線には古い大きな農家が見えます。いつも高架橋からの風景で、いつか歩いてみたいと思っていましたがどんな街でしょうか。
*拘置所の前の緑道へ*
駅の南側の入り組んだ道沿いに綾瀬川へ向かって歩くと、川沿いの高い場所を通る首都高6号三郷線と千代田線・東武線の高架橋が交わる近未来的な場所に、ぽつりと綾瀬神社の立派な社殿がありました。
隅に、「氷川神社・胡録神社合祀」の石碑が建っています。期せずして水の神様に出会いました。
綾瀬川の対岸にはどーんと東京拘置所が見えます。鉄道の車窓からは気づかなかったのですが、綾瀬川ぞいに拘置所と向かい合うように大きなマンション群がありました。
綾瀬川にかかる橋はきっと昭和後期に作られた新しい橋だろうと思いながら渡ると、「伊藤谷橋」という、案外、歴史を感じるような名前です。
何と読むのかなと検索したところ「いとうやはし」で、この橋一つとってもさまざまな視点での先人の記録がありました。市井の人の正確な記憶と記録によって成り立つ世の中ですね。
さて、橋を渡ると東京拘置所沿いに住宅地があり、そこから水路が始まって親水公園のように水路沿いが美しく整備されています。
住宅地が終わると対岸はすぐそばが拘置所ですが、赤いレンガの壁と水路と、車窓から見て緊張していた風景とは違いました。
*五反野親水公園へ*
その水路はまだ続くのですが、半分のあたりで拘置所の北側の門があり、その真正面にまるで林の中を歩くかのような五反野親水緑道がありました。
後ろをふりかえると東京拘置所があってちょっとシュールですが、車窓からは見えにくい場所に静かで落ち着いた住宅地と水路のある美しい遊歩道がありました。
水路に沿って歩くと、小さな花壇の中に下山国鉄総裁追憶碑がありました。
まだまだ歴史として学ぶには近すぎた時代、その雰囲気はどんな感じだったのでしょう。やり残した宿題がまた増えました。
綾瀬駅から千代田線に乗って荒川を越えて、今回の散歩が終わりました。
想像以上に美しい親水公園を歩くことができました。
*足立区の親水水路*
あの拘置所の前の水路の名前はなんというのだろう、五反野親水緑道はいつできたのだろうと検索したところ、国土交通省の「東京都・足立区・親水水路・貯留水路」という資料がありました。
地区の概要
首都圏では大正期から昭和初期に過剰な地下水の汲み上げにより地盤沈下し、区の大半が満潮時(AP +2.0m)には水面下となります。堤防に囲まれた地盤高の低い地域では、大雨の際には用水路等の自然排水ができず内水氾濫を起こすようになり、一時的に遊水機能を果たしていた水田の宅地化により増水に拍車がかかりました。こうした状況を打開するため、農地組合で管理されていた農業用水を区の管理に委譲し、公共溝渠化を進め、流末には排水機場を設置し、雨水を強制的に川へ排除するようになりました。
しかし昭和50年以降、汚水、雨水対策として下水道整備の整備が本格化し、宮内の水路が公共溝渠としての役割を終えていました。
そのため昭和60年に「足立区河川・水路総合利用計画(足立区水の回廊構想)」が策定されたとのことでした。
五反野親水緑道
・東武伊勢崎線五反野駅から東京拘置所までの延長900mを親水水路と通路を一体的に整備したもので、周辺は住宅地で公園とコミュニティセンターが隣接しています。
・身近な自然の回復をテーマに、水路はコンクリートの利用を極力避け、河床は荒木田土、護岸も土羽や木矢板、石積とし、水辺にはセリ、ガマ、セキショウなどの水生生物が植えられました。
・水源は近くを流れる水質汚濁の進んだ綾瀬川から、裏門堰親水水路への取水後、五反野親水緑道に使用しています。汚れた河川を浄化して水路に流し、再び河川に戻して河川浄化の一助とすることとしました。浄化施設は微生物の働きを利用した「接触ばっ気法」を採用し、緑道の地下に設置しました。その上部は土で覆い、悪臭や泡の飛散防止を図るとともに、植栽地や散策路として整備しました。
拘置所の周りの水路は、裏門堰親水水路だとわかりました。
記憶ではたしか北側から拘置所に向かって流れていたはずですが、この説明を読んで驚きました。
伊藤谷橋を渡ってすぐのところで綾瀬川から取水した水を浄化しながら循環して、北側からの流れに変えていたようです。あの美しい散策路の下に、その浄化装置があったとは。
魔法のような水の利用の時代ですね。
利根川東遷事業から新田開発へ、そして近代化と工業化で農地から住宅地や工場地帯へ、そして川がきれいになった時代へ。
散歩をするようになって、少しだけこの行間が読めるようになってきました。
「水のあれこれ」まとめはこちら。