気持ちの問題  56 自分であることの支えが必要な人

先日、母と一緒に地図をながめていると、地図に書き込まれた場所以外にも、「ここも行った」「そこも通った」と驚くほどあちこちに行っていることがわかりました。

そして「あなたも行けるときに行けばいい」と。

よし!その一言もらった、と母の人生を見守りつつ私も私の人生を過ごすからねと背中を押されたのでした。

 

というのもその面会の直前、母から「私は生きている意味がない」といった内容の手紙が来たので、慌てて面会に行ったのでした。

年をとるというのは、ひとつまたひとつとさまざまなものを失っていくことなのですが、それに直面すると時々、母はこういう行動をとってきました。

ときには、自殺未遂にちかいことまで。

昔から 感情の波が大きい人で、自分の感情を理解してもらうために実力行使のようなことをする激しさがありました。

以前も、とるものもとりあえず駈けつけると「〇〇さんが冷たかったから」と、それからはケロッとしているのでした。

 

こころの内側にため込んだ何かが膨らみ、爆発させないと感情を落ち着かせられない何かがあるのでしょうか。

正直なところ私には、「それぞれの事情があるのだからそんなことで思いつめなくても」と理解できないようなことが、母には自身の存在をないがしろにされたと映るようです。

 

そんな母が50代から70代にかけて、ツアー旅行に参加してあちこちを見てまわった記憶が、自分であることを支えているかのように良いものになっているようです。

たくさん、そういうものがあって本当に良かったと思います。

 

ただ、やはり私とは何かを考えることを避けてきたのではないか、そこが父との違いではないかとみえるのですが、やはり母には母にもわからない何かに突き動かされているのでしょう。

 

 

母といえども、いえ、母だからこそ理解しがたい距離があるのかもしれませんね。

 

 

 

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