記録のあれこれ 141 「興国寺城跡」

1月下旬、4度と凍てつく寒さですが快晴に恵まれました。ふだんの遠出よりはゆっくりと8時4分品川発のこだま707号に乗りました。これから新幹線がすぐ背後を通過する興国寺城を見に行くためか、いつもに増して新幹線の切り通しが気になります。

 

私がまだ幼児だった頃に開通した東海道新幹線の当時の写真を見ると、言葉は悪いのですが丘陵をぶったぎり、沼のような場所に高架橋を造り、大きな川に橋を掛け、とてもその半世紀後の街は想像できないような場所です。

そして60年経ったというのに、1日に三百数十本もの列車があの速度で大きな事故もなく正確に通過していくのですから、当時の工事現場を見てみたいものです。

 

感慨にふけっているとあっという間に三島駅に到着。ここから沼津駅に向かいバスに乗りました。

 

2021年11月に訪ねた沼津市立明治史料館の前を通る県道22号線が、緩やかに蛇行しながら浮島ヶ原の山沿いに西へと通っています。

新幹線がすぐ近くを通っているそばをずっと道なりに岳南鉄道の岳南江尾駅まで歩くという無謀な計画はあきらめきれず、今回は根古屋バス停までバスに乗り、興国寺城跡から岳南江尾駅まで歩くことにしました。

 

*興国寺城跡*

 

沼津駅から満員の乗客を乗せたバスは途中の市民病院やショッピングモールでほとんど下車し、根古屋バス停までは私一人のまま落ち着いた石垣や家並みの狭い道を上ったり下ったりしながら走りました。青空に蝋梅が美しく映えていました。海が近いからか、駿河の国は日差しが明るく感じますね。

 

下車すると、目の前が興国寺城跡です。

興国寺城を復元する会の活動を教えていただいて、いつか訪ねたいと思っていました。

 

北側へと緩やかな斜面を登っていく間にも、何人かとすれ違いました。山側の方から静かに東海道新幹線の通過する音が聞こえてきます。

つきあたりの広場に神社がありそこがかつての本丸だったようで、その後ろが高い土塁で囲まれていました。

 

沼津市教育委員会の立派なパンフレットがあって、それによると土塁の後ろに空堀があり、その北側が「北曲輪(くるわ)」という人工的に造り出した平坦地があって、そこが新幹線の切り通しになっているようです。

本丸大土塁の高いところまで歩けるようですが、見上げるような高さだったのでやめました。まだまだ1日目の散歩の序盤ですからね。

 

城の歴史

 興国寺城は、長享元年(1487)伊勢新九郎盛時(北条早雲)が今川氏親より興国寺城と富士郡下方十二郷を与えられ、伊豆韮山へ攻めこむ足がかりとした場所として伝わります。伊豆を平定した彼はその後約100年間続く戦国大名、北条氏の祖となりました。

 それから約半世紀、天文18年(1549)に城地は今川氏のものになり、興国寺を移転させて、その跡地に本格的な城を築きました。さらに今川氏衰退後も興国寺城は東駿河の要地として、武田氏、徳川氏、中村氏、天野氏と引き継がれていきました。

 

城の特徴

 興国寺城は愛鷹(あしたか)山麓の裾を通る根方(ねがた)街道に接し、南方に浮島沼が広がる天然の要地に築かれた戦国時代から江戸時代初期にかけての城郭です。

 戦国時代の興国寺城は、尾根を巧みに活かし、さらにそこから土を盛ったり、堀を掘ったりするいわゆる「土盛り」の城でした。また城かくはいつの段階でも今と同じ広さがあったわけではなく、戦時・平時など、その時の情勢にあわせて、広かったり狭まったりしていたことが発掘調査から判明しています。

 しかし、戦国時代末から江戸時代初期のころには、堀に石垣が施され、さらに城内に石の基礎を持つ建物が建てられるようになり、石を用いた城へと変化していきました。今残っている城の姿は基本的には戦国時代の姿を引き継ぎながらも、戦国時代末から江戸時代諸島にかけて整えられたものと考えられます。

 

沼津市教育委員会「興国寺城跡」)

 

 

水への関心から浮島ヶ原を知り、そして興国寺城跡の歴史や記録、保存を知る機会になるのですから思えば遠くに来たものですね。

 

海側を振り返ると、高台からかつての浮島沼と千本松原のあたりが見えます。

先ほどの斜面を降りて西側へと歩くと、城跡の敷地のはずれに小さな水の流れがありました。

かつては浮島沼へと流れていた水でしょうか。

 

 

 

 

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