富士の裾野を下りながら田んぼを眺めて歩いた時にはゆったりした下り坂に感じたのですが、県道394号線を裾野市民文化センターへ向かって100mほど北へ戻るときには息が切れそうに感じました。
雄大な富士山の麓ですね。
2022年2月に水仙が咲き、雪を抱いた富士山とすぐそばを流れる美しい黄瀬川を眺めながらベンチに座っておにぎりを食べたあの場所が見えてきました。
そのすぐそばに深良用水特別展があることを知らなかったのでした。
*深良用水特別展*
いよいよその展示室へとむかいました。
圧巻は深良用水のジオラマです。
芦ノ湖側と深良村側の高低差9.8mを、箱根の山の地下深くに全長1280.3mの深良用水が通っているのがわかります。
小学生の時に学んだ17世紀に人力だけで芦ノ湖側と深良側から掘り進め、その合流点はわずか1mの差であったことが印象深く残っているのですが、それがよくわかる模型です。
寛文10年(1670)大庭源之丞(おおばげんのじょう)・友野与右衛門(とものよえもん)らによって3年8ヶ月の歳月をかけ全長約1280Mのトンネルが完成しました。これによって箱根芦ノ湖の湖水は、箱根外輪山をくりぬき深良村(現在の裾野市深良)の水田を潤すことになりました。
ああ、「箱根外輪山をくりぬき」水を通しているのだ、と今更ながら江戸時代のその発想におどろきます。
「どうして深良用水が必要だったの?」がまとめられていました。
深良用水を通すには、箱根の山を掘りぬくという大工事が必要でした。そんな大変な思いをしてまで深良用水を通す理由とは何だったのでしょうか。
理由① 歴史背景
戦国時代から江戸時代になり平和が訪れると、各地で人口が増加します。人口が増えた分、食料を増産する必要がありました。
また、江戸時代の経済の中心はお米でした。現代の税金の代わりに納めた年貢もお米です。お米の収穫が多くなることは、財源の強化につながります。
そのため、江戸時代には新しく田んぼを作ろうという「新田開発」が全国的に行われたのです。
理由② 自然条件
裾野市は富士山の溶岩の上にある街です。そのことは、この文化センターの横を流れる黄瀬川の川底を見てもわかります。
富士山は私たちの暮らしにさまざまな恵みをもたらしますが、同時にさまざまな制限も与えてきました。地表を流れる水が少ないこともその一つです。
溶岩には隙間が多く、地表に降った雨は地下にしみこんでしまいます。裾野市は水が少なく、田んぼを作ろうにも作りづらい土地なのです。
深良村名主(なぬし)である大庭源之丞も新田開発を考えました。田んぼでお米を育てるには大量の水が必要です。そこで、箱根山の向こうに満々と水をたたえる芦ノ湖から水を引く隧道(トンネル)を掘ることを思いつきます。
長さ1,280mもの隧道を掘る工事は、当時の人々の苦しい生活を改善するために必要な工事だったのです。
「箱根山の向こうに満々と水をたたえる芦ノ湖から水を引く隧道を掘ることを思いつく」
壮大な妄想に受け止められそうなことを実現させたのですから、私が小学生の頃の「江戸時代のイメージ」とは違う技術や知識があったのですね。
もう一つ圧巻だったのが、「深良用水水系図」と57の堰の表でした。
掘って終わりじゃない!深良用水開通のその後 ①
箱根の山を通ってきた水を農地のすみずみまで行きわたらせるためには、水路や堰の整備も必要でした。また、用水の開通後にも、渇水による争いが起きることがありました。
新たな水路・堰の建設
トンネルを通った水は深良川に入り、下流の田んぼに使われました。しかし、当時の深良川は平野部を南に流れていたため、深良村の西側の田んぼには水が行きわたりませんでした。そのため、黄瀬川に向かって新たな水路「新川」が掘られました。久根から伊豆島田にかけて流れ、村々に水を送っている「三間堀川(さんげんぼりがわ)」も深良用水の開通後に新しく掘られた川です。
また、そうした水路からさらにこまかく水を分けるために、多くの堰が設置されました。
トンネル開通と水路・堰の整備により多くの畑を田んぼにすることができました。江戸時代後期の資料によると、芦ノ湖の水を利用している田んぼは約530ha(小学校グラウンドの200mトラック1,325個分)、お米の収穫量は900t以上にのぼります。
維持・管理の移り変わりと水をめぐる争い
トンネル開通から約20年後、用水の管理は、友野与右衛門ら元締めの衆から沼津代官に移り、用水の水を使う村々は井組(用水組合)を結成しました。井組は上流から上郷・中郷・下郷に分かれています。
しかし、日照りが続くと田んぼに引く水量をめぐって争いが起きることもありました。宝永4年(1707)には、下郷の5か村が上郷の10か村を相手に訴えを起こします。その結果、不公平の無いように水を引くこと、上郷・中郷・下郷から2人ずつ水配人(みずはいにん)を任命することなどが決定しました。
現代も続く水配人制度ですね。
そして、深良用水がどのあたりを潤していたのだろうとずっと気になっていたのですが、その上郷・中郷そして下郷まで黄瀬川左岸と箱根に挟まれた細長い地域をくまなく潤す深良用水の水路と堰の詳細な地図がありました。
*「深良用水隧道はどのように掘られたのか?」*
半世紀ほど前、私が小学生だった頃にはすでに1.2kmほどのトンネルは珍しくもないのですが、「手で掘った」ことと「両側から掘り進めてその差がわずか1mほどの高低差だった」ことがとても印象に残っていました。
その説明もありました。
深良用水隧道はどのように掘られたのか?
現代のような機械のない時代に、人の力だけで1,280mという長さを掘りぬいた深良用水の隧道(トンネル)。いったいどのような技術で掘られたのでしょうか。
どのように掘ったの?
深良用水の工事は寛文6年(1666)にスタートしました。やわらかいところはツルハシのような道具で掘り、かたい岩石はタガネやクサビを打ち込んで割ったと考えられています。実はトンネルの内部はくねくねと曲がっています。これは、あまりにも硬い岩盤を掘らずに避けた結果です。
かねほりの技術
トンネル堀には地元の人たちが参加しましたが、金山の鉱夫(こうふ、かねほり)の力も借りたと考えられています。岩山を掘る専門家ともいえるかねほりは様々な技術を持っていたと考えられますが、残念ながら具体的な技術は伝わっていません。
しかし、かねほりが工事に参加したことは間違いなく、中には御宿村の水門番「かねほり甚左衛門」のように、トンネル工事後、裾野に住み着いた人もいました。
息抜き穴
トンネルの中には息抜き穴と呼ばれる穴が掘られています。トンネルの天井裏に伸びる横穴と、横穴から地上に向かって伸びる縦穴があります。
この息抜き穴は、トンネル内部の空気の入れ換えの役割を果たしました。
大きさは大人一人がやっと入れるほどです。
トンネルの完成
掘り始めから3年半が経った寛文10年(1670)2月、深良用水トンネルは開通しました。工事にかかった費用は7300両(1両を10万円とすると7.3億円)、工事にあたった人数は延べ83万人と言われています。
どうやってその両側の場所を見極めて、高低差をつけながら水路を掘り進んだのでしょう。
すごいとしか感想が出てきませんね。
「江戸時代をことさら遅れた時代だったとイメージ化させようとする日本史教育」という考え方を思い起こしました。
水路や川の土木遺産を切り口に日本史を教わっていたらもっと違う歴史が見えて、社会に必要なものごとをもっと早く私も気づいていたかもしれません。
「水のあれこれ」まとめはこちら。
深良用水のまとめはこちら。