散歩をする 115  南紀の風景をみる

桑名駅からお弁当を持ってワイドビュー南紀5号に乗り込みました。

ここから新宮まではちょうど3時間です。

早朝に出発してずっと川を眺め続けたので、お弁当を食べたら眠くなってしまうのではないかと心配だったのですが、紀伊半島の地形や風景の変化のおもしろさにまたまばたきをするのも惜しいほどのあっという間の3時間でした。

 

3時間の車窓の風景にも、いろいろと確認したいことがありました。

その最初は四日市の風景です。

1960年代、まだ小学生だった頃にも四日市ぜんそくという市名と病名を知っていました。ニュースには、富士市周辺と同じような映像が流れていました。

名駅を出ると、じきに工業地帯が見えました。

空は青空です。たくさんの住宅が工場の近くにありました。

 

いくつもの川を渡り、多気から山の方へと列車は入り始めます。

実はその直前、やはり睡魔に襲われてしばし意識がなくなっていたのですが、多気のあたりから大きな川の蛇行に沿って列車が高度をあげて進むたびに変化する風景に、眠気が飛んだのでした。

濁流で流されたと思われる大きな石が転がる渓谷もあれば、河原が開けて集落がある場所もあります。

その川の水は澄んでいて、どの場所でも川底がはっきり見えています。周囲の家はまるで映画に出てくるかのような、良い意味での旧い家並みで、半世紀以上も前に戻ったかのような錯覚に陥りました。

 

あとで検索したら、これが宮川で、下流伊勢神宮のそばを通って伊勢湾へ流れているようです。

世界的にも多雨で知られる大杉谷を源流とする宮川は毎年のように氾濫し、大水害をたびたび引き起こした。宮川下流周辺に伊勢神宮があるため、神宮を重視した豊臣秀吉と後の江戸幕府の山田奉行により治水工事が行われ、洪水の被害は激減した。しかし増水に耐えられる橋が下流域にかけられたのは明治期になってからである。江戸時代には神宮のある右岸を偏重する治水工事が行われたため、左岸の洪水被害は拡大したという。

1957年に宮川ダム、1966年に三瀬谷ダムが作られてからは宮川下流域で大規模な水害が発生することは永らくなかったが、2004年の台風21号による増水で支流の横輪川が氾濫するなどで、伊勢市において床上浸水203棟、床下浸水97棟の被害となった。この台風21号は上流の旧宮川村においては、土石流などで死者6名他の被害者を出す大災害を引き起こし、大台町との合併による村の消滅を決定的にした。

 

雨の少ない時期の窓から見えた清流からは、想像がつかない災害史です。

機会があれば、この流域の歴史についての資料があるところを訪ねてみたい。また新たな関心が増えました。

 

支流周辺には、ところどころ瀬切れの状態になった川があちこちに見られました。あと1〜2ヶ月もすると雨量が増えて、違った風景になるのでしょうか。

 

息つく暇もないような川の変化が終わると、伊勢長島の手前あたりから海が見え始めます。

あの外房の風景のように、トンネルをくぐるたびにさまざまな海岸線の風景が見えました。

狭い平地に集落ができている場所もあれば、人を寄せ付けない岸壁が続いているところもあり、大きな川の周辺は大きな街がありました。

外房と同じく、ほとんどゴミもない美しい海と海岸線がずっと続いていました。

そして外房よりは川が多く、そのどの川も大げさではなくゴミが全くなくて、車窓からも川底が見える清流ばかりでした。

 

もう一度山あいを抜けて熊野市の手前あたりから、地図では熊野灘に沿ってずっとまっすぐな線路が描かれていましたから壮大な青い海原を見られると思っていました。

ところが、海岸線のすぐそばを走っていることはわかるのですが、防潮林に遮られてほとんど海は見えません。そのうちに、防潮林だけでなく海岸線がその内側よりも高くなっていることがわかりました。

これもまた自然堤防なのでしょうか。

あの銚子電鉄の車窓から見える犬吠埼付近の海岸線に似ています。

 

そしてまた列車は海岸線に並行して流れている川に沿って、山あいに入りました。

ここがあの紀宝町です。

 

 

ああ、来て良かった。

車窓の風景だけで、こんなにも満たされるなんて想像していませんでした。

3時間の列車の旅も終わりに近づき、いよいよ熊野川河口です。

 

 

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