正しさより正確性を 27 それはいつの時代のどういう背景だったか

「掻爬法」という専門用語がかまびすしく聞こえてくる最近ですが、それに対するイメージというのは一様ではないのだろうと、最近の動きを見ています。

 

「"戦後まもなくから変わらない"日本の中絶」(NHK NEWS WEB、2021年10月14)という特集が時々出てくるのですが、本当に「戦後まもなくから変わらない」のでしょうか。

 

色々な世代の産婦人科の先生方と働いてきたのですが、20世紀半ばまでは子宮内は暗黒な完全に閉ざされた世界であり、方法論がなく自然に委ねられた自然淘汰の多い診療科であった時代から急激に変化している時代の葛藤から、 現在はなんだか掻爬法が悪の大権現にされてしまっているのではないかと思えてきました。

 

*掻爬法の看護の私の個人的な経験談ですが*

 

医学的議論の詳細はわからないのですが、掻爬法(キュレッテージ)の際の看護には携わってきましたから、今考えると90年代の掻爬法もすごい時代だったなと思い出しました。

 

人工妊娠中絶も流産手術も処置は基本的に同じですが、流産の場合自然流産を待っている間に進行してきて、出血が多いと夜間でも来院してもらい、対応することもありました。

そのまま子宮内に残っている組織をかき出します。

当時はまだ経腹エコーも画像がそれほど鮮明でなく、まさに手探りで医師の勘が頼りの処置という印象でした。

無麻酔でしたから、絶叫が病棟に響くことがありました。

 

中にはこう言いう体験をされた女性が、「遅れた掻爬法」のイメージとして思い出していることもあるかもしれませんね。

あるいは医療システムが異なる国では、まだまだこういう方法が「掻爬法」なのかもしれません。

 

なぜ無麻酔だったのだろうと思い返しているのですが、決して産科医が何か「女性に対して懲罰的な感情」があったわけでもなく、当時は静脈投与自体が一般的になり始めた時代で、まだ安全性とか潤沢に薬剤や物品を使える時代でもなかったのかもしれません。

このあたりの記憶は曖昧なので、またひとつひとつの歴史を確認しなければと思います。

 

そんな今から考えると怖ろしい方法でしたが、当時でもすでに血液型がRh(-)の方を見逃さずに抗Dヒト免疫グロブリンを打ち忘れない対応がされていました。

その歴史を読むと、1940年に「ヒト赤血球にRhD抗原が存在」することがわかり、1972年には日本で始まっているようですから、子宮も胎児もブラックボックスだった時代になんとすごいことだろうと改めて思います。

 

この後、子宮内のさまざまなことがわかり、医療機器も医薬品も進歩しました。

2000年代に入ると私が勤務していた診療所では、流産の処置でも吸入麻酔か静脈麻酔を使用し、必ず経腹エコーで子宮内を確認しながら金属製の細い管で吸引したあと、残った組織をキュレットで掻爬していました。

掻爬だけでなく「吸引法」という技術ができ、また麻酔が日常的に行われ、その麻酔も喘息既往がある方には別の薬品を使用するようになりました。

 

2000年代以降、処置そのものは「眠っている間にもう終わったのですか」という感想をおっしゃる方がほとんどです。

麻酔からの覚醒時も、以前は吐いたり下腹部の痛みで苦しむ方も多かったのですが、最近はほとんどいらっしゃいません。

 

中絶にしても流産にしても、失ったことに対してさまざまな思いがあり、表情に出さずにじっとこらえて帰宅する方もあれば、涙が止まらなくなる方もいらっしゃいます。

言葉にならないものを受け止め、その後の生活を整える対応が看護でしょうか。

 

わずか30年ほどでも、隔世の感ありですね。

 

 

*理不尽さを表現するためのスケープゴート

 

「日本は遅れた掻爬法」と批判している人たちは、どんなことをイメージしているのだろう。

そんなことが気になっています。

 

きっと文字で表現するときには険しい表現でも、外来でお会いして直接お話しすれば、ああそういうことなのですねとその歴史は理解してくださる方も多いかもしれません。

 

 

ただ、妊娠・出産に間することは言葉にならないさまざまな思いがあるので、納得とは違う話なのだろうと思います。

あの、分娩台がスケープゴートにされた時代と、今回の掻爬法への反応は似ているかもれないと感じているのですが、どうなのでしょうか。

 

妊娠・出産に関すること、あるいは「女性の身体」といったことについて運動という手法で世の中を変えようとすると、築いたてきたものが簡単に壊され世の中が求めているものとは違う方向へ変わってしまう可能性がありそうです。

 

 

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