記録のあれこれ 187 禎瑞新田の干拓と生活の記録

あまりの暑さに歩くことを断念した禎瑞(ていずい)新田ですが、集落を出る時には必ずいつか歩こうという固い決心になっていました。

 

そういえば堤防の手前に何か大きな水路と施設がありました。

あれがもしかすると嘉母神社内の「客土記念碑」に書かれていた排水設備でしょうか。

もっとこの地域の歴史を知りたいものだと検索したら、「データベース『えひめの記憶』」の「愛媛県史 地域Ⅱ (東予東部)(昭和63年2月29日発行)」(愛媛県生涯学習センター)にありました。

 

干拓の歴史からその生活誌まで書かれています。参考のために書き写しておくことにします。

 

五 禎瑞干拓地の集落

禎瑞新田の成立

 

 周桑・西条平野の前面の燧灘沿岸には干潟の発達が良好である。干潟とは三角州前面の浅海底地形で、干潮時に海底の露出する部分をいう。このような地形は干拓の好適地であり、土木技術の進歩した江戸時代には盛んに干拓丁事がなされた。西条市干拓地としては、中山川と加茂川の両河川の間の河口近くに造成された禎瑞の干拓地が最も著名であるが、他にも多数の干拓地がある。

 禎瑞新田は西条藩松平頼純が本家の紀州徳川家から拝受した巨額の御私金を下に造成した干拓地と言われている。工事の設計監督は群奉行竹内立左衛門によってなされ、安永七年(一七七八)に起工、五年の歳月と約二万両の工費、述べ五八万人の役夫を投じて、天明元年(一七八一)に完成した。工事は海岸から二.七kmの沖合いに、舟で土砂を運んで産山(現灘波の付近)と名付けた小砂堆を築き、そこを根拠に堤防を構築していった。工事の最難事である潮止め工事は、着工後三年目の安永九年(一七八〇)一二月七日に完成した。禎瑞新田御開発覚書には、「其口人足御領分山里共人足都合六千人」と誌されており、当日は領内の各村から百姓を動員して工事が一気に成就したことを物語っている。潮止め工事の完成した翌年には、干拓地内の八幡から黄金水と呼ばれた清水が湧出した。藩では、「天より嘉瑞を降し給うなり」と歓喜し、禎瑞と称するよう公示したという。

 入百姓の募集がいかにしてなされたかは定かではないが、入植者は潮止め工事の完成した翌年の天明元年(一七八一)から享保元年(一八〇一)の間に入植している。入植者の出身地は一部不明なものもあるが、判明するものをあげると、伊予西条藩領内のみならず、讃岐・阿波の両国からも多く入植し、さらに対岸の中国筋からも若干のものが入植している(表3-24)。分家の創設は入植開始後二三年目の文化元年(一八〇四)から弘化二年(一八四五)の間になされているが、当初は土地に余裕のあった禎瑞も、次第に宛付地を分与することが困難となり、分家の創設を制限している。

 入植者への耕地の配分は、畑一反ないし二反歩程度、水田一町歩ないし一町三反歩程度が耕作能力に応じて与えられたが、それは「御宛付」の呼称が示すように、藩主松平家の私有地を小作するものであったという。禎瑞には庄屋一人、組頭二人が任命されていたが、それは藩の行政機構に属するものではなく、藩主松平家の私的機関「禎瑞方」に属するものであった。禎瑞方には下役人が常駐し、宛付地を付与した農民から貢米を徴収し、新田内外の諸普請を行った。

 『西条誌』によると天保年間の禎瑞は、田二一九町五反歩、畑一四町二反歩、宛米総計一五八四石、家数二〇八、人数およし一一七八、東之手在所に相生・加茂、西之手在所に八幡・高丸・産山があったと記載され、堂々たる新田集落の陣容をととのえている。しかし、この村は領内の他の新田村とは異なり、藩の付高帳にもその名はなく、開発以来幕末に至るまで新田検地もなされなかった。藩政時代を通じて藩主の家産として支配・管理されたこの新田は、明治維新には藩主の私費による干拓と認められ、全域が松平家の私有地となった。この私有地が小作人の希望によって、三八万五〇〇〇円で小作人に払い下げられたのは、昭和三年であった。維新以降小作地解放までの禎瑞の管理は、「禎瑞方」を引き継いだ子爵松平家の私的機関「御私邸役所」によってなされていた。

 

「新田開発」とひとくちにいっても、「土地は誰ものか」にはそれぞれ複雑な歴史がありますね。

 

干拓地の土地条件

 

 干満時に海底の露出する干潟を、海中に堤防を築いて造成した干拓地は、低湿な土地条件を宿命とする。禎瑞の水田の標高を見ると一m内外であり、満潮時には海面より低い土地が大部分である。

 この低湿地を河川や海からの水の脅威から守るためには、強固な堤防を構築しなければならない。禎瑞新田造成時の堤防は押平高二間三歩、馬乗一間六歩、根置九間五歩であった。堤防はくり石と土で固めたものであり、海に面した部分が石垣、内側は芝草で固定された土手になっていた。堤防の管理は厳重をきわめ、松平家支配の時代には堤防見廻り人が、農民に堤防の草は肥草一本刈らさなかったといわれている。昭和三年松平家の小作地が解放されて以降は、堤防は禎瑞の住民の管理下におかれ、住民の労力奉仕によって堤防の強化がしばしばなされた。堤防が県営事業によって補強されたのは、昭和二一年の南海地震によって地盤沈下をして以降である。現在の堤防は高さ三〜五m、コンクリートで外側も内側も強固に巻きあげられ、水の脅威は去ったといえる。

 干拓地は既存の灌漑水路の末端に造成されたので、灌漑水の取得には不便を感じるのが通例である。しかしながら、禎瑞の場合は加茂川の伏流水が豊富にあり、それを湧泉平打ち抜きによって得ることができたので、灌漑水は潤沢であった。禎瑞の灌漑水源となった湧泉は、加茂川に沿う蓼原用水と万項寺流水に沿う淵子用水であり、「禎瑞の水が切れたらナガチョウを掘れ」という言葉があるように、湧泉は豊富であった。また地区内の灘波や東禎瑞では打抜きといわれる自噴水が湧出するところがあり、それに頼って灌漑するところもあった。打抜きは特殊な掘削機を使って地下五〜二〇m程度にある地下水を自噴させるものである。昭和三〇年頃に鉄パイプが使用されるまでは、真竹がパイプとして利用されていた。藩政時代には専門の打抜き師がいて、灌漑用の打抜き井戸は五〇本もあった。

 灌漑用水路は蓼原用水と淵子用水から、禎瑞の干拓地を大きく西に迂回し、西禎瑞の水田を潤す大用水が幹線であり、他に東禎瑞に分岐するものもあった。また西禎瑞・東禎瑞の水田の中央部には、昭和三〇年客土工事の際に、新たに幹線水路も新設された。(図3-30)。禎瑞の灌漑水は二つの湧泉の水が水源であり、それを打抜きの水で補うのが従来の方式であったが、昭和九年倉敷レーヨンの進出後、湧泉の湧出量が減少し、現在は地下水の動力揚水に頼るものが多く、その比率は約八〇%にも達しているという。

 低湿な干拓地の上地管理で、最も重要なものは排水をいかに制御するかということである。わが国の多くの水田では、灌漑水路と排水路は兼用となっており、上手の水田で排水した水が、下手の水田の灌漑水に利用されるのが普通である。しかし、干拓地では土地に含まれている塩分を除去する必要からも、また満潮時に湛水している水を、干潮時に一気に排水する必要からも、排水路は幹線水路と別に設定する必要がある。禎瑞の排水路は中央部を流れる妹背川と、干拓地の周囲を走る堤防ぞいに幹線排水路が走り、それが排水樋門近くの遊水地に流入するようになっている。水田内を走る支線の排水路も灌漑水路とは別であり、支線の排水路は支線の灌漑水路と交互に並走している。

 干拓地の排水上困難なことは、上手にある既存の水田の排水路が域内に流入することである。禎瑞の中央を流れる妹背川は西泉新開の排水路の延長であり、西泉新開の排水が流入し、さらに猪狩川をはさんで隣接する新兵衛新田の拝参加がこれに合流するようになっている。洪水のたびにこれらの排水が流入する禎瑞は、排水路沿いに排水不良の水田も多く、反省時代以来沼ひ(湛水)は住民を悩ます最大のものであった。

 干拓地の排水施設として最も重要なものは、樋門である。満潮時に遊水地にためている悪水を、干潮時に一気に排水する樋門の開閉は、十干拓地の稲作の死活を制するものであった。禎瑞の樋門は北西端の灘波にある。干拓地造成時の樋門は当時の最新技術を誇る南蛮樋であり、その責任者は百姓身分ではなく、同心として召し抱えられていた。その下には数人の樋掛がいて、樋門の開閉に従事した。灘波の地は、干拓当初は産山といわれていたが、南蛮樋のある重要な地点であり、南蛮樋掛の居住しているところから、南蛮転じて今日の灘波の地名になったと伝える。

 現在の樋門は全自動化されたものが一〇門あり、その樋番は一人であるが、昭和二三年ころまでは手動式の樋門が四ヶ所で合わせて九門あった。樋門の開閉は潮の干満を見てなされた。大潮の時であれば干潮の二〜三時間前に樋門を開き、干潮から一時間半後に樋門を閉ざさねばならなかった。手動式の時代には、潮の干満の適時を見極めないと、水圧のために樋門の開閉ができなかった。手動式の樋門は石の溝にはめ込まれた戸板をしゅろ縄で二人掛かりで巻き上げるものであり、八人程度の樋番がいた。樋門近くの堤防上には倉庫があり、樋門用の戸板・かます・杭などを入れ、非常時に備えていた。

 計画的に設定された禎瑞新田の耕地は、碁盤目状に走る道路と灌・排水路で囲まれて、区画整然としている。灌漑水路と排水路は一〇〇mごとに交互に走り、一枚の水田は一方を灌漑水路、他方を排水路に面するように区画されている。水田は長さ一〇〇m、幅五〇mのものが基準であり、これを一切れの水田という。また、長さ一〇〇m、幅二五mの水田もあり、これを半切れの水田という。区画整然とした広大な水田は、機械化農業に適し、現在県下随一の大型機械化農業の展開している農村である。

 

干拓地や水路の歴史だけでなくその水を守る生活の歳時記や、産業の変化、災害の記録まで網羅された内容で、あの日の目の前に広がっていた風景を掘り下げて知ることができました。

それにしても、まさかの倉紡とのつながりがこんな形であったとは。

手水にあった「西条抜打音頭」の「人絹」の意味がわかりました。

 

 

集落立地の特色

 

 禎瑞の集落は八幡・高丸・灘波・禎瑞上・禎瑞中・禎瑞下の六集落からなる。うち前者は西方の中山川の堤防ぞいに立地し、西禎瑞といわれ、後三者は東方の加茂川の堤防ぞいに立地し、東禎瑞とよばれる。集落が堤防ぞいに立地するのは、堤防ぞいが微高地であること、そこが水害に際して最も安全な避難場所であることによる(写真3-21)。周囲を海と川に囲まれ、しかも満潮時には海面以下になる干拓地では、水害は最も恐るべき災害である。

 明治以降の禎瑞の水害で最大のものは、明治二六年(一八九三)干拓地東北端の龍神社西方の海岸堤防が約一〇〇mにわたって決潰し、侵入した海水は住宅の軒を没し、耕地が水没すること九〇日に及んだことであった。住民は堤防の応急修理ができるまでの九〇日間を堤防上で過ごすことを余儀なくされたという。また大正初期には加茂川の堤防が決潰し、床上浸水程度は枚挙にいとまがないほどであった。昭和三年禎瑞の小作地が解放されて以降は、住民によって禎瑞水防予防組合が組織され、洪水時の防災体制が確立した。東禎瑞の堤防上には、松平家の小作米などを格納する倉庫が並んでいたが、そこに水防倉庫があり、上嚢用の古俵・縄・杭・松明などが格納されていた。荒天時の夜間は、堤防の決潰に備えて、松明をかざして堤防を巡回し、夜はまんじりともしなかったという。

 堤防ぞいは多少の微高地になっているが、洪水のたびに家屋は浸水したので、家屋は四〇〜五〇cmの盛土の上に建てているものが多かった。盛土用の土砂は加茂川今中山川の川砂利を利用したり、水田の中に「掘り」といわれる凹地をつくり、その土を利用した。運搬用具の貧弱な時代には、川砂利の搬入は大変な重労働であったので、家屋の建てかえ時には、親戚などの手伝いによって盛土がなされたという。しかし、この程度の盛土では堤防が決潰するたびに、床下浸水程度はまぬがれなかった。したがって各農家とも、「しけ台」という高さ一三〇〜一四〇cm程度の高台を用意しており、浸水に際しては、床上に「しけ台」をひろげ、その上に畳から家財道具まで積み上げて浸水をさけたという。また農家によっては、屋根裏や天井裏に家財や穀物を避難させたものもある。天井のない古い家では梁から梁に厚い板をわたし、天井を張っている新しい家では、ふみ天井といわれる厚い板の天井を張り、それぞれその上を洪水時の格納所にした(写真3-22)。

 水害に備える施設には、家屋の床下に排水用の凹地を掘ったり、床下への痛風をよくするために、床下を風すかしという吹き抜けにしている家、柱が湿気を吸収しないために、大きな礎石の上に柱を建てている家などがあった。また避難施設として重要なものに「箱舟」があった。箱舟は長さ二〜三mの箱型の舟で、昭和初期には大部分の農家が所有し、平常時は貝の採取や水田からの収穫物の運搬などに使用した。平常時には加茂川今中山川の堤防に繋がれたり、また水路に繋留されていた箱舟は、洪水時にはすべての軒下にまで集められ、避難用の荷物の搬出などに利用された。

 

訪ねる予定だった龍神社は干拓地の水の神様だと想像していたのですが、災害史が記録された場所かもしれません。

 

住民生活の特色

 

 低湿地の禎瑞は洪水に悩まされたが、一方では、飲料水の取得に苦労した集落も多かった。禎瑞の飲料水は、被圧地下水を打抜きによって利用するものと、灌漑水路の流水を飲料するものがあった。打抜きの清冽な水が得られるのは、東禎瑞の三集落と西禎瑞の灘波である。このうち東禎瑞下の集落は満潮時にのみ打抜きの水が自噴したので、それを水槽に汲み上げて置いて、使用せざるを得なかった。これに対して、八幡と高丸の集落は流水飲用を主とした。八幡には集落の上手に禎瑞の地名のいわれとなった黄金水が湧出していたが、集落内には一本の打抜き井戸もなかった。高丸では打抜き井戸のある家と流水に頼っていた家があったが、その打抜き井戸は鉄分を含んだ赤茶けた水で、砂・消炭・しゅろ皮を入れた「こし瓶」で濾過して使用しても、炊いた米は黒くなり、それで沸かした茶も黒ずんで飲用には適さなかったという。したがってこの集落も灌漑水路の流水が最も重要な飲料水源であった。八幡・高丸の両集落が堤防に隣接していると共に、灌漑水路に沿って立地しているのは、流水飲用の便を考えてのものと思われる。水路に沿っては、水汲み場である「くみじょ」があり、流水の澄んでいる早朝三時から五時ころに飲み水を組むのは、婦女子の重要な日課であった。

 八幡では、明治年間には、黄金水の水も一部利用されたが、明治末期にはもっぱら流水飲用がなされた。集落内には三か所の「くみじょ」があり、その利用区分はおのずと決まっていた。「くみじょ」のある灌漑水路は厳重に管理され、そこで洗ってもよいものは、野菜・食器・洗濯物のすすぎなどであり、汚水は堤防ぞいの排水路に流すことが義務づけられていた。洗濯場は堤防外の中山川に三か所あり、汚物はここで洗うことになっていた(図3-31)。昭和二七年に簡易水道が普及してからは、「くみじょ」の利用は低下したが、「分家は水上に出すな」といわれるほど灌漑水路は重視された。

 昭和二五年ころまで禎瑞の住民を悩ませたのは、薪の採取であった。干拓地であった禎瑞には薪炭備林はなく、五〜八kmも離れた現在の黒瀬ダム付近の山まで枯れ枝を採取しに行った。平野に臨む前山は付近の住民の薪炭採取の権限が強かったので、このような奥山まで薪炭採取に行かざるを得なかったのである。薪炭の採取は住民の冬季の重要な仕事であったが、往復に三〜四時間も要したので、一日に一荷(薪の束二つ)を担って帰るのが限度であったという。禎瑞の住民には天恵の薪を与えてくれたのは、加茂川と中山川の洪水であった。洪水の去った両河川の河口には、上流から流れてきた木切れが山のように堆積していたので、住民はわれ先にとそれを拾って薪として利用した。川底に沈んでいる流木は箱舟を利用して採取したりもした。薪材に不足した禎瑞では、すくも(もみがら)や麦畑らなども重要な天領であった。すくもを燃料とする「すくもくど」などがあったのは、薪不足に悩むこの地方を特色づけるものであった。

 薪材に不足する禎瑞では、第二次世界大戦前には、燃料の節約の面から、風呂を備えている農家は少なく、五〜六戸に一つ程度しか風呂はなかった。風呂のない家は、たらいで行水をするか、もらい風呂をするのが普通であったという。

 

 

水のあふれる美しい西条は楽園のように見えたのですが、こんなにも厳しい生活がほんの少し前の時代まであったとは。

 

そして都内でさえわずか60~80年ほど前まで一本の川が上水道と下水道の機能を担っていた時代があったのに、いつの間にか清潔で低廉でいつでもどこでも水道の蛇口から水が出るようになり、そして下水道の施設が整備されただけでなく、洪水にも対応し、下水がまた循環して美しい景観を作るという魔法のような時代になりました。

そして1960年代でもまだお風呂の燃料の確保は大変な時代だった記憶があります。

 

ましてや海との境界線上に造られた干拓地の生活は、どうやって水や燃料を確保し、そして水害と闘ってきたのだろうと漠然とした疑問がありましたが、散歩をすることで少しずつそういう資料と出会えるようになってきました。

 

記録を正しく残す能力を持った方々がいて、生活の歴史の資料を科学的な手法で残すための施設があちこちにあるというのは、将来への大きな遺産だと感じました。

 

 

*おまけ*

水路や田んぼを訪ね歩いていると、軒先にシュロの木を植えている家を見かけます。

南国風の流行だったのかと思っていたのですが、「水を濾過する」ために使われていたのでしょうか。

 

 

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