工業化への時代の葛藤からしだいに解き放たれて工業地帯まで見て歩くようになったこの頃ですが、造船所とか港湾地帯は昔からちょっと好きでした。
海とは無縁で育ったのにどこからその関心は始まったのだろうかと思い返しているのですが、10代終わり頃から20代前半の多感な時期に仲が良かった友人の影響かもしれません。
昨年9月に丸亀市内を歩いたのも彼女が育った街であり、そのお父様が船に関する仕事をされていたことが記憶に残っていたことも理由の一つでした。
先代池の向こうに夕日が瀬戸内海に落ちていく風景とともに、沿岸のドッグの明かりがしだいに存在を増していくのを眺めていました。
あの時に丸亀市の沿岸部を列車で通過した際、「今治造船」と大きく鉄の柱に描かれているのが見えました。
それで、今回の散歩では造船所のそばを通る路線バスに乗ったのでした。
子どものように「かっこいい!」と心を震わせながら眺めたのですが、あの場所にはどのような仕事や専門性があり、どのような生活があるのでしょう。
巨大な港湾の施設に圧倒されただけでなく、私が生きてきた世界とは全く違う雰囲気に惹きつけられた、そんな感じでした。
*「今治造船」*
今治造船という名前もいつ頃からか知っていましたが、何がきっかけだったのかはもうわかりません。
相生(あいおい)の造船所とか瀬戸内海の水夫(かこ)とか、いつの間にか瀬戸内海について記憶に残るものが子どもの頃から増えていました。
瀬戸内海は私の海の原点ですからね。
さて、その今治の造船業もきっと昔から、昔というのは平家だの源氏だのの頃からの生業が発展したのだろうと思っていましたがどんな歴史があるのでしょう。
Wikipediaを読むと、明治の終わり頃に会社となったようです。
1901年に檜垣為治が檜垣造船所を創業したのが始まりである。1933年には為治の息子である檜垣正一らが「檜垣造船有限会社」を設立。1940年暮れには、檜垣造船、村上(実)造船、渡辺造船、村上造船、吉岡造船、黒川造船の6社が合併して「今治造船有限会社」が誕生した。当時は木造船であっても厳しい資材統制があったため、業界での生き残りを賭けての会社併合であった。その後、1943年に今治造船有限会社は今治船渠株式会社と合併し「今治造船株式会社」が誕生した。今治船渠は1940年、「国策に沿って今治にも設備の充実した造船所を作ろう」というねらいで、今治市内の無尽会社、鉄工会社、建築、電業会社、呉服屋など、今治でも上位にランクされる商工業者の出資によって生まれた造船所であった。
あの遠洋漁業に出かけていたような大きな木造船を造っていたのでしょうか。
戦後の工業化の流れで、大きく発展したのかと思ったら少し違いました。
戦後、今治造船は仕事が無く、従業員の多くが離散。1943年8月には檜垣一族も退社し、今治造船で現場総監督を務めていた檜垣正一は檜垣造船所を設立した。時代が木船から鋼船へ移行する中、檜垣正一は檜垣造船所を吸収合併し、今治造船の再建を図った。愛媛汽船社長の赤尾柳吉を社長に迎え、今治造船は1955年4月に再出発することとなった。1959年には檜垣正一が社長に就任した。
船舶が大型化する中で、波止浜地区では湾の大きさや深さなどから大型船建造が困難であるため、1970年には香川県丸亀市に進出。1971年には三菱重工業と業務提携を締結。この提携は三菱重工業から設計技術供与を受ける見返りに、丸亀事業本部の売上げの一部を「指導料」をして支払う片務的な業務提携であった。
1970年代後半と1980年代後半の2度の「造船不況」で造船業が不況に陥る中、幸陽船渠や岩城造船、西造船など経営不振に陥った中小の造船所を買収して傘下に収めて規模を拡大、200年3月には約140億円を投じて愛媛県西条市に国内最大級の新造船用ドックを完成させた。国内では日立造船有明工場以来、25年ぶりとなるドッグの新設であった。
丸亀市の今治造船は、大型船造船のために進出したものだったのですね。
そして私が友人と出会った頃は、「造船不況」という時代だったとは。
あれから半世紀近く経って、波止浜(はとはま)のドッグの向こうにしまなみ海道の大きな橋が見えたのは奇跡のように思えてきました。
香川の大久保甚之丞のように「郷土の先覚者」の一人だったのでしょうか、今治城の入り口に今治造船のどなたかの大きな銅像が建っていたのを思い出しました。
あまりの暑さのために写真を撮り忘れたのは痛恨のミスでした。
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