西条市を流れる加茂川はほんとうに美しい川です。いえ、全国どの川も甲乙付け難いのですが、湧水が豊かということで贔屓目になるのかもしれません。
加茂川右岸の武丈公園から、山の間から流れてくる加茂川をしばらく眺めました。
ちょうどそのあたりに右岸側水路の取水口があるのではと検索していたら、昨年「うちぬき」を調べた時に見つけた西条市の「水の歴史館」というサイトに加茂川の歴史がまとめられていました。
それによると、おそらくあの大きく蛇行する武丈公園のあたりからかつては取水していたようですが、現在はもう少し上流にあることが書かれていました。
大町土地改良区の用水取入口は、慶長時代加茂川大改修当時のままと考えられる福武堰と、万治年間に田中善兵衛が身命を挺して移築した大町堰の二つがありました。
河床が荒廃した近代には、毎年大堀開をしなければならない状態でした。そこで、はじめ予定計画された大久保堰の案は下流水利関係者の反対により実現不能となりました。
昭和31年協定の基本計画では、旧福武堰の上流の八堂山の麓の深淵(通称:おちきり)を選定し、深く山の下を貫通する358メートルの隧道(トンネル)によって、旧福武釜之口の内方に水を引き、ここで元大町堰により導水した水路の方向と二つに分岐させることになりました。工事は昭和31年1月12日に起工し、昭和32年5月1日に完成しています。
私が生まれる数年前に、加茂川右岸の取水口、隧道、そして分水工が造られていたようです。
現在はその分水の左側の先にある大町は住宅地にぽつりぽつりと田んぼが残るくらいでしたが、その東側の福武地区は航空写真で確認するとまだ広大な水田があるようです。
「加茂川水利権等 概要図」も市民向けに公開されていて、発電や工業用水・農業用水に取水されている場所がわかるのもすごいですね。
*「川の歴史ー加茂川」より*
2024年7月に西条市を訪ねたときに西条市総合文化会館のそばで見つけた「観音水や新町泉は、加茂川乱流時代のなごりであり、現在泉となっている」という案内板の「加茂川乱流時代」が気になっていたのですが、冒頭の歴史に書かれていました。
加茂川改修(参考:「西條誌」)
加茂川は、古くは八堂山あたりから御舟川方面へ乱流し、たびたび洪水による災害をもたらしていました。加茂川の改修前は八堂山から神拝方向に流れる筋と、御舟川へ流れる筋があったと思われます。八堂山から北へ向かった地域の地名が釜の口、川原、前川原、西之川原、岸影、小川、清水、慈恵川など、大町から西には川原町、喜多川、上川原、古川などの川にちなんだ地名が残されており、昔の川の流れを想像することができます。
「釜の口」は「鉱山において坑道の入り口」(Weblio国語辞典)とという意味と「仏教における表現で、地獄の釜の蓋が開く、つまり、不幸や災難が起こることを意味します」(Google)という意味があるのですね。
「河道が定まらない」という表現もごく最近まで日本各地にあったというのに、私自身はそれを知らずに生きてこれたので、「川原」「岸影」といった地名に川の流れの意味があったとは考えもしませんでした。
17世紀に入る頃には加茂川の改修が始まっていたようです。
慶長5年(1600)加藤嘉明(賤ヶ岳の七本やりの一人)は関ヶ原参陣の後、6万石から20万石に加増されて、伊予松前城から松山へ移り、西条地方を領有することになりました。
この頃、加茂川は足立重信(加藤嘉明の家老)・常眞(じょうしん(?~1624)=光明寺住職)らによって、現在の流れに改修されたと伝えられています。
加茂川改修工事の着手、完成とともに正確な年代は明らかではありませんが、足立重信による石手川の大改修が慶長5年(1600)に始まっており、寛永2年(1625)11月に足立重信が没し、常眞もその前年に没しています。また、加藤嘉明も寛永4年(1627)に会津若松へ領地替えとなっていることなどから、1600年から1627年の頃に加茂川の改修工事が行われたと大略の年代を推定することができます。
かつて、加茂川の改修は常眞が完成させたと言い伝えられてきました。「大町常心」という地名はその功を讃えて名づけられたと言われています。しかし、その後「久門文書」などから加藤嘉明が足立重信を改修奉行に命じ、設計を行い、常眞がこの工事の完成に協力し、その攻防によって寺地拝領となったと思われます。
万治4年(1661)の「久門文書」によると、寛永元年(1624)頃洪水のために、砂岩中野村の部分で堤防が大決潰し、中野村の低地部、洲之内付近の田が被害を受けています。加茂川大改修によって右岸が強化されたこともあり、反面左岸が比較的に頑固でなかったことに原因するようにも考えられます。
「加茂川乱流時代」から「大改修」へわずか十数行ですが、加茂川と一本の流れを思い浮かべられる時代になるまでにどれだけの歴史がその行間にあることでしょう。
そして水路を築き、田畑を守ってきた。
それが先祖伝来の地という意味なのだと、少しずつ見えてきました。
*おまけ*
全国にはたくさんの加茂川がありますね。そして天竜川左岸の加茂川のようにWikipediaの一覧にもないものもあります。
どんな思いで「加茂川」と名づけ、その名を聞くと何を思うのでしょうか。
「水のあれこれ」まとめはこちら。