いよいよ1月下旬の4泊5日の土佐から伊予への遠出も最終日です。
テレビから「JR四国には800人の運転士と車掌が働いているが退職者が多い」と聞こえてきました。
四国ではJRをはじめ鉄道関係で働いている方々はどれくらいいらっしゃるのでしょう。おかげさまで無事に一周することができました。
待遇の改善も大事ですが、最近の将来人が足りないからと言いながら、今働く人を削減したり違う分野に配置転換させる雰囲気の方が辛いのではないかと想像しています。
一生かけてその仕事で働いてみたいというのは贅沢な時代になってしまいました。
さあ、今回の散歩の最後の目的地へと出かけます。1950年代、これからは自動車や航空機の時代で鉄道は斜陽産業だと思われていた時代に新幹線整備を推し進めた十河信二氏とその生まれ故郷西条の干拓地はどんなつながりがあるのだろう、今の時代を見たらどう思うだろうと考えながら水路沿いを駅に向いました。
ほんと、西条はいたるところに美しい水路が残る街です。
*「新幹線の源流は西条にあり」*
駅前にある四国鉄道文化会館にまず入りました、惹きつけられるように「丸鼻」の新幹線の展示へ。
懐かしい車体がぴかぴかに磨かれて目の前にあります。
【0系新幹線電車】
昭和39年10月1日に、東京〜新大阪間に東海道新幹線が開業したときに登場した新幹線車両の形式が、この「0系」です。
当時の国鉄技術者たちが、総力をあげて開発した0系新幹線電車は、時速200キロメートル以上の高速運転を実現し、「夢の超特急」と呼ばれました。この0系新幹線が登場したことにより、東京〜新大阪間は、4時間で結ばれることとなりました。
(路盤が安定した翌年からは3時間10分)
1999年(平成11)まで現役で走っていたのですね。新幹線によく乗るようになったのはここ数年なので、それまでの記憶がほとんどないことが悲しいものです。
この四国鉄道文化会館と十河信二記念館を知ったのは、地図を眺めていた時でした。
「なぜ伊予西条駅に新幹線に関しての建物が関係があるのだろう」への答えも展示されていました。
新幹線と四国・西条市
四国には新幹線電車は走っていません。もちろん、伊予西条駅にその車両が停車したことも、通過したこともありません。なぜ、その新幹線電車がここ西条市に展示されているのか?
そこには、郷土の偉人・十河信二先生の存在があります。
明治17年、新居郡中萩村に生まれた先生は、旧制西条中学、東京帝国大学を経て、鉄道院に任官、その生涯の大半を日本の鉄道に捧げられました。特に、昭和30年、71歳の高齢で第4代国鉄総裁に就任されるや、強靭な信念と卓越した行動力で、「夢の超特急・東海道新幹線計画」を軌道に乗せます。総裁辞任後の昭和39年10月1日、東海道新幹線は華やかに開業し、日本の経済発展の礎となって行きます。先生が"新幹線の生みの親"と呼ばれる所以です。
その新幹線の第1次車両で、”団子鼻"も愛くるしい「0系新幹線電車」が、財団法人日本ナショナルトラストや四国旅客鉄道株式会社(JR四国)のご尽力により、ここ西条の地に"帰郷"しました。
”新幹線の源流は西条にあり"
私たちは、日本、あるいは世界の鉄道史を塗り替えた、この名車を保存展示し、先生の功績を末長く後世に伝えていきたいと考えています。
*「名言でたどる十河の生き様」*
2018年に岡山の干拓地を訪ねて以来、車窓の風景を集中して眺めるのも楽しみになりさらに新幹線の車窓から見えた場所を歩くまでになりました。
その干拓地の一つとして訪ねた場所が新幹線とこんなに深く結びつくとは思ってもいませんでした。
十河信二記念館には、その人となりがたくさん展示されていました。
戦前の鉄道畑を歩き、満州鉄道理事として中国へも渡ったようです。満州鉄道と聞くだけで身構えてしまうのですが、「名言でたどる十河の生き様」の中にこんな言葉が残されていました。
中国大陸の経済開発と日中関係の修復を目的に設立した、「興中公司」という会社の社長として、社員に訓示した一節
あえて仕事しようという観念を捨て、中国に親しい友人をできるだけ持て・・・
私はいずれ各地を歴訪する。その時、中国人の友人を紹介してほしい・・・
もし一年たち、二年たっても中国に友人ができぬようなものは、本社に必要のない人であるから退職してもらうだろう。
「友人」については、その前に復興局疑獄事件で冤罪となった時の言葉がありました。
(冤罪で東京地裁検事局に召還され、検事に「・・・友人というのは、結局利害によって結ばれるものではないのかね」と言われたことに対して
友人というものは神様から恵まれるもので、作ろうとしてできるものではない。
あなたの言うように単に利害で結ばれるのを私達は友人とは考えていない。
そして終戦直前の1945年(昭和20)7月から1946年4月まで西条市長を務めたようです。
西条市長に就任した時に出した条件の一つ
報酬をくれるようだったらやめる。
(郷土のために働くのに金がもらえるか!)
まっすぐな人だったのでしょうか。
ビデオ上映がありました。列車にはまだ十分間に合いそうなので、座ってゆっくり見ることにしました。
西条の昭和30年代ごろの干拓地が映っていて、「美味しい米ができる」という十河信二氏の声が残っていました。
干拓と新幹線の父がつながりました。
*「四国循環鉄道の夢」*
ビデオには国鉄総裁時代の十河信二氏のインタビューが残っていました。要点だけのメモですがこんな感じの内容でした。
観光客、海外から20万、それを1000万にする。
海底トンネルのための調査。瀬戸内海は断層があるから慎重に捜査。鳴門の方は橋が良いのではないか。
東大の鉄橋のモデル。こういうもので四国や九州をつなぐ。鉄道の近代化が大事。
宇野まで特急が通る。高松まで特急が通る。
四国循環鉄道の夢。
素朴な話し方ですが、熱がこもっていました。
1988年の瀬戸大橋線の開通を見届けることなく、1981年に亡くなられたようです。
*「栄光の陰で」*
ああ、すごい方がいらっしゃったおかげで、以前は1日がかりだったところへも気軽にそして確実に訪ねることができるのだと思いながら館内を巡ると、驚くことが書かれていました。
▪️栄光の陰で▪️
昭和39年10月1日、東海道新幹線はその営業運転を開始します。十河総裁の後を受けた、石田礼助第5代国鉄総裁がテープカットに臨みます。その華やかな式典の日を、十河先生は千駄ヶ谷のアパートで迎えたといわれています。
(中略)ただ、任期が切れる間際に、唐突に建設予算の不足が明るみに出ることになります。
幾度も国会に補正予算を計上していたにもかかわらず、さらに800億円不足するという事態が新聞にすっぱ抜かれたのです。もともと、昭和33年12月の閣議決定を得るために、無理に圧縮した建設費を基に進められていた計画でした。どこかで"ほころび”がでるはずです。
一説には、退任を決意していた十河総裁が、自らその"ほころび"を外に出し、その責を負おうとしたのではないかとも言われています。
後に郷土の先覚者となるということは、「将来、歴史の審判に堪えられるように」という覚悟があるかどうかとも言えるのかもしれませんね。
*おまけ*
「栄光の陰に」の最後に、「昭和48年になって、東京駅19番ホームに東海道新幹線建設に力を尽くした功績を称える」として十河信二氏のレリーフが作られたと書かれていました。
2年ほど前に、たまたま東京駅で見かけたので写真に撮った記憶があります。その時には誰だか全く知らなかったのでした。
「行間を読む」まとめはこちら。
新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録も合わせてどうぞ。