水のあれこれ 427 いよいよ筑後川水系へ

一車両独占だったゆふ号が 、由布院駅からインバウンド客に囲まれて満席になりました。楽しい旅ですから、みなさんよくしゃべりよく食べています。

これも集中力を切らさない修行だと車窓を眺めているうちに、大分川との分水嶺の手前からトンネルが増え、圏外になることが増えました。にぎやかだった車内がいつの間にかみなさん眠ってしまいました。

 

長いトンネルを抜けると、筑後川水系の野上川のさらに支流が現れるはずです。全国の用水路名までマップに表示されるようになった今年の6月以降も、まだこの小さな川の名前はわかりません。

目を凝らしていましたが、森の中にわずかに湿った場所が見えたのが沢でしょうか。

 

野矢駅のあたりからそれまで沢だった流れが渓流の趣になり、しばらくトンネル区間を過ぎると、豊後中村駅のあたりでは川になっていました。しばらく野上川と並走し、一旦野上川を渡るとすぐに筑後川本流の玖珠川(くすがわ)を渡りました。

この辺りで「堤防の跡?」とメモをしたのですが、今になるとどんな風景だったか記憶がありません。

治水の歴史を感じてメモしたのだと思いますが、ランドマークを記憶するのはほんと、大変です。

 

しばらく玖珠川左岸を走ると、引治(ひきじ)駅の先で、野上川・玖珠川・町田川が合流して玖珠川になる手前で玖珠川右岸へと渡りました。

しだいに沿線に水鏡の田んぼがみえ、恵良(えら)駅の手前からは広い水田地帯が続き、玖珠川の浅い流れが見えます。

「羽」のような場所でしょうか。ゆったりとした蛇行に沿って、南西へと向きを変えるとまた広々とした場所が続き、見覚えのある風景を過ぎました。

豊後森駅の操車場です。

たしか「にっぽん縦断こころ旅」で見たのですが、あの時は「豊後森」はどのあたりかもよくわかずすぐにマップを開いたのでした。

 

北山田駅を過ぎるとまた山あいに入り、列車は左岸から右岸へそしてまた左岸へと線路が変わりながら玖珠川に沿って走ります。

滝や岩場が見えたり、ポツンと道の駅があったり、不整形の田んぼが見えたり、次々と風景が変化していきます。車内は眠って静寂のままですが、こんな美しい日本の風景を見逃すのはもったいないですね。

 

トンネル区間を抜ける最後のあたりで、また車窓に集中しました。

玖珠川の右岸から取水された水路が日田市内まで通っているようです。何か見えるかと思ったのですが、あっという間に過ぎて最後のトンネルに入り、ゆふ号玖珠川から離れて山に近い場所を通って15時9分日田駅に到着しました。

 

 

筑後川の名前の変遷*

 

佐賀のクリークを歩いた頃に、筑後川の上流・中流下流は、だいたいですが覚えました。

・上流:水源の瀬の本高原熊本県阿蘇郡南小国町)から夜明けダム(大分県日田市・福岡県うきは市境)まで

中流:夜明けダムから筑後大堰(福岡県久留米市佐賀県三養基郡(みやきぐん)みやき町境)まで

下流筑後大堰から有明海河口まで

Wikipedia筑後川」)

 

その後、何度も福岡県側の筑後川から地図で遡って見ていたら、県境を越えると「筑後川」から「三隅川」になることを知りました。

信濃川が千曲川になるのと同じだと思っていたら、なんとこの日田のあたりで県境でもないのに「三隅川」から今度は「玖珠川」に名前が変わっています。

 

ゆふ号がトンネルを抜けて豊後三芳駅を通るのですが、そのあたりで南から流れてくる大山川と玖珠川が合流すると三隅川になるようで、この大山川のほうがどうやら筑後川の本流になるようです。

 

筑後川の名前は難しいなあと思っていたら、Wikipediaにその名前がついた背景が書かれていました。

地域による変遷

筑後川本流及び最終的に筑後川へと合流する河川を全て包括した水系である筑後川水系は、1964年(昭和39年)の河川法改定に伴い一級水系に指定された。水系の本流である筑後川は名称こそ1936年には中流下流・において統一されていたが、上流部では様々な河川名で呼ばれていた。そこで流域面積が最も広い大山川流域が筑後川本流とされ、長さで大山川を上回っていた玖珠川は支流とされた。現在、河川法の上で一級河川として指定されている筑後川の本流は、

 上流端:熊本県阿蘇郡南小国町大字満願寺字中園台8894番地(田ノ原橋)

 下流端:有明海の河口

までとされている。

Wikipedia筑後川」「名称の変遷」、強調は引用者による)

 

私が幼児の頃に「筑後川水系」として統一されたようですが、あの利根川のように遡行調査が行われたのでしょうか。

「本流」と「支流」にされたその地域は、当時どんな雰囲気があったのでしょう。それとも名前は変わっても、同じ生活だったのでしょうか。

川の歴史、知らないことばかりです。

 

そして1990年代にダムや大きな堰を訪ねた頃から耳にした河川法ですが、いまだに何も知らないままで、これまたやり残した宿題です。

 

そしておそらく、近代的な測量の方法で川が調査される以前からそこには川や山を知り尽くしたような人たちがたくさん生活をして守ってきたのだろうな、と思うことも増えました。

 

 

 

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