馬事公苑弦巻門から出て、馬の蹄鉄がはめ込まれたおしゃれな歩道を100mほど南東へ歩くと、駐車場の側から下り坂になっています。
この辺りが蛇崩川(じゃくずれがわ)の源流かもしれないと見当をつけて歩き始めました。
かつての雑木林の斜面を思わせる下り坂を道なりに歩くと、少し高い場所にぶつかり、北東へと向きを変えて下り坂が続きます。
その先が二手に分かれて、間には「JRA弦巻公園」が道より少し高い場所にありました。
この間の道がかつての川なのだろうかと思いながら歩くと、角に小さな広場があり、そちら側に誘われるように歩くとその先に暗渠が見えてきました。
ああ、やはりこれが蛇崩川だったのだろうと満足したのですが、残念ながら暗渠沿いには歩けませんでした。
ところが先ほどのJRA弦巻公園の前の道に戻り、坂道を下っていると電柱に手書きで何か貼られています。
ここは蛇崩川水路跡
なんと、普通の道だと思ったこちらの方がかつての蛇崩川だったようです。
北側は河岸段丘だったのでしょうか、住宅地が一段高い場所に続いています。
下り坂を50mほど歩くと、二手に分かれる場所に世田谷区立桜丘公園があり、右手の道がぐいと蛇行しながら坂道になっているのでそちらへと歩いてみました。
ここもまた公園からずっと北側が一段高い住宅になって続いています。
100mほど歩くとつきあたりになり、また小高い場所に小さな公園があり、その右手から暗渠になっていました。
そしてまた手書きの案内がありました。
蛇崩川跡
この手書きの案内のおかげで、かつての蛇崩川の流れを見ることができました。
どの地域でも正確に記録を残そうとしてくださる市井の方がいらっしゃるものです。
ビニール袋に紙を入れただけのものが貼り付けられていので、雨や風でなくなりませんように。あるいは撤去されませんように。
できれば公的機関が、こうしたかつての水の流れの表示をしてくださるといいですね。
*蛇崩川のそばに大山道が通っていた*
地図ではこの小さな公園に「蛇崩川洗い場」と表示されていたので、今回の散歩はここを目指しましたが、小さな石碑のみで由来はわかりませんでした。
そばに「大山詣(おおやまもうで)」の説明と旅人姿の銅像がありました。
江戸時代中期、関東一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から、青山、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道(おおやまどう)と呼ばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋、世田谷通り、ボロ市通り、そして弦巻を通って、用賀、二子玉川に行っていました。
しかし、大山詣ではしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってきました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に設置したものです。
昭和六十年九月 世田谷区
雨乞いのための過酷な大山詣だったのが、いつの間にか物見遊山へ。
「信仰は口実となり」、ちょうどこの説明板ができた1985年(昭和60)ごろ、観光ブームに気恥ずかしさと戸惑いを感じていた方々もいらっしゃったのかもしれないですね。
いつの間にか観光立国や観光資源なんて言葉が出て、どこも似たような「和のテイスト一色」になっていくのはこれもまた何かコンサルとかあるのでしょうか。
そして急に大挙して人が押し寄せ観光で生活が脅かされることがあっても、儲けるとか稼ぐことが至上命題の嫌な雰囲気の時代になってしまいました。
大山詣から現代の観光を考えて気持ちが暗澹としていたのですが、ふと顔をあげると、そこには松の木に囲まれた家があり一角に地蔵堂がありました。
よく見ると三方から下り坂になっている場所が、一旦、ここで合流しているようです。
雨乞いに行く途中で、蛇崩川のほとりで一休みしていた頃の空気がふと流れました。
その地蔵堂の横から坂道を上り、途中かつての小さな商店街だったような場所を抜けてまた下ると、都道3号と駒留通りのあたりの複雑な交差点を過ぎ、また郵便局あたりから下って世田谷線上町駅に到着しました。
このあたりの舌状台地の斜面は、おそらく半世紀ほど前までは雑木林やら畑がそこかしこに残っていたのだろうなと思う複雑さでした。
そんなかつての記憶がある方が、あの蛇崩川の案内を書かれたのだろうかと思いながら、世田谷線に乗って帰路につきました。
*おまけ*
当日の写真とメモを見直しながら、上町駅に向かって下り坂だったのになぜ「上町」なのだろうという疑問がふつふつと湧いてきました。
また確認してみなければ。
「落ち着いた街」まとめはこちら。