玉川村独自に畑を整地しようとし、ちょうどそこに馬事公苑ができたおかげで、今も広々とした空が見える広大な空間という遺産を残してもらったことがしみじみと感じられてきました。
この先もどうかそこに住む人が「高級な瀟洒な住宅地」といったイメージで追われることがありませんように。
思えば都内で「瀟洒な住宅地」なんて言葉が使われ始めたのもたかだか半世紀ではないかと、それまでは田畑だったり、斜面だったところがほとんどですからね。
*「馬事公苑付近を源流とする河川」*
Wikipediaの「馬事公苑」の「周辺」にこんな記述がありました。
馬事公苑付近を源流とする河川
・烏山川:目黒川の支流。烏山川の支流の一つが馬事公苑の北を源流とする。
・蛇崩川:こちらも目黒川の支流。蛇崩川本流が馬事公苑の東を源流とする。
・谷沢川:支流が馬事公苑の南を源流とする。
目黒川の上流部分が北沢川緑道と烏山緑道として整備されていて、暗渠の上を清流復活事業によって再生された水が小川になって流れています。その烏山川の支流もこの馬事公苑の下から流れていているようです。
谷沢(やざわ)川は南側から用賀付近を流れ、等々力渓谷の先で六郷用水と交差したのち多摩川へ合流します。2017年にこの川沿いを歩いた時に、モヤさまの撮影に出会うという幸運があった川です。
三方向に川が流れ出る場所ですから、その台地の上は水を得難い場所だったことでしょう。
さらに舌状台地が複雑な地形を作るので、斜面や崖っぷちに家が立つようになったのもたかだか数十年ですから、やはり「瀟洒な住宅地」の歴史は浅いですね。
*蛇崩川(じゃくずれがわ)*
いつの間にかへびが苦手になったのですが、半世紀ほど前にこの川の名前を知りました。たしか交差点の名前にもあった記憶があります。当時、都会の風景になりつつあった地域とこのおどろおどろしい名前がつながりませんでした。
今回の散歩の計画の段階で、馬事公苑の東側の住宅地に不自然な蛇行するような空き地が描かれているのを見て、おそらく蛇崩川だろうと思ったのですが、正解でした。
東京都世田谷区弦巻五丁目の馬事公苑付近より、北へは同じ目黒川系である烏山川への支流が、南へは谷沢川への支流が、東へは蛇崩川本流が源を発する。昔は品川用水の悪水吐からの水も受けていたものと考えられる。
(Wikipedia「蛇崩川」「地理」)
川の名前の由来はなんとなく想像はできるものの、そのままになっていました。
検索すると目黒区の「目黒の地名」がありました。
目黒の地名 蛇崩(じゃくずれ)
今日、「蛇崩(じゃくずれ)」という地名は見当たらない。明治22年の町村制施行によって、目黒区大字上目黒の字名として登場、大正11年の町制を経た後も親しまれていたが、昭和7年の目黒区誕生を機に姿を消した。
目黒区誕生後は、目黒区上目黒四丁目の一部となったが、住居表示制度が施行された昭和40年以降は、祐天寺一丁目1番から21番、上目黒四丁目1番から26番・28番から45番あたりが当時の蛇崩に該当する。
地名「蛇崩(じゃくずれ)」の由来は、江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」によると「昔、大水の際、崩れた崖から大蛇が出たことから、この地名が生まれた」と記している。
また一般には、「砂崩(さくずれ)(土堤崩をいう古語)」が、「じゃくずれ」に転化し、付近を流れる蛇行屈曲した川の状態から、「蛇崩」の文字を当てたのではないか」とも言われている。いずれにしても、蛇崩地域の北側を蛇行する蛇崩川が侵食した地形がもたらした地名といえよう。
この名前を知ったとき「昔、蛇が出そうな場所だったのだろう」ぐらいに思いつつ、なんとなく「危険な場所だったのかもしれない」と感じました。
10年ほど前から都内の川を歩くようになって、舌状台地の間をこうした小さな川が流れていたことを実感するようになりました。
そして現在は暗渠になって存在すら忘れられていても、かつては水害を起こしていた川や地形が少しずつつながってきました。
ただ、やはり水のもたらす恵みもあったようです。
この蛇崩川は、目黒川の支流で、世田谷区弦巻から東流し、上馬、三軒茶屋、下馬を経て、本区に入り、東横線中目黒付近から目黒川に注ぎ、全長5.2キロメートル。現在は、大部分が暗きょ化されたが、かつては湧水に富み、流域は水田地として、豊穣な土地であったという。
(強調は引用者による)
「かつて」はいつ頃だったのでしょう。
1970年代終わり頃はすでに東横線沿線の宅地開発が進んでいて、まさかそこに湧水や田んぼがあったとは想像すらしていませんでした。
見てみたかったものです。
さあ、いよいよ半世紀前の宿題をしに、この川を歩きましょう。
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