水のあれこれ 372 法隆寺駅から大和川沿いの川合へ「戦後最大の洪水」

今回の行きは東海道新幹線のE席で、1ヶ月前に3日間かけて歩いた場所をわずか2〜3分で通過していきましたが、美しい田んぼや麦畑そして歩いた場所はしっかりと目に入りました。

 

あっという間に新大阪駅に到着し、今回は初めておおさか東線久宝寺駅まで乗ります。

奈良の法隆寺駅へは前回は大和路線を利用しましたが、今回おおさか東線を選んだのは旧大和川が流れ、かつては「潟」だった河内平野を眺めてみたいと思ったからです。

途中、聞いたことがある「はなてん」という地名は「放出」と書き、かつての河内湖から淀川への放出口だったこととつながり、また散歩の始まりから次の計画が出来てしまいました。困りましたね。

 

久宝寺駅大和路線に乗り換え、大和川の堤防が近づいたところで大和川付け替え250年記念の石碑が見えました。

 

大和川沿いに山あいへと入ると懐かしい王寺の町や田んぼが見えて、大和川の土手一面に菜の花が咲き、鯉のぼりが揺れていました。

4月中旬の奈良の風景、美しいですね。

 

 

大和川の右岸を歩く予定を左岸へ*

 

9寺22分に法隆寺駅に到着。法隆寺の北側にある天満池と田んぼも訪ねてみたかったのですが、今回は大和川沿いに歩くのが目的です。

 

法隆寺駅から南へと、4年前に大和川の川合を目指した時に歩いた富雄川沿いを目指しました。

スミレや菜の花の春の景色だというのに、すでに初夏のような暑さです。水面を眺めたくて富雄川の堤防の上を歩いていると大きな蜂が何匹も近づいて威嚇されました。

暑さと蜂と、散歩の出だしから途中で計画をあきらめる必要があるかもしれませんね。

 

大和川との川合に出て、今回はここから右岸の堤防沿いに窪田地区の田んぼを眺め、途中で左岸に渡って吐田地区を歩いて1月に近鉄線の車窓から見えた「白米寺」を目指す予定です。

「田」がつく地名はどんな風景なのだろう、そこに建つ「白米寺」の由来はなんだろう。

楽しみですね。

 

と、右岸の堤防を歩き始めたら工事中で通行止めでした。

これは出だしから計画変更です。

 

 

*1982年、戦後最大の奈良県の浸水被害*

 

2020年に訪ねた廣瀬大社を通って、左岸側を歩くことにしましょう。

 

廣瀬大社のあたりは「川合」の名の通り、大和川に何本も川が合流しています。

曽我川沿いに歩き始め、橋を渡って保田地区に入ると何か工事が行われていました。

大和川保田遊水地掘削築堤工事

大和川は過去に度々浸水被害を伴う災害が発生しており、特に1982年(昭和57年)8月洪水では奈良県域で甚大な浸水被害を受け、浸水家屋数が1万戸を超える戦後最大の洪水被害となりました。今後同規模の洪水が発生した際、氾濫による浸水被害を防止し、内水による浸水被害を軽減するため、保田地区において、洪水時に水をためて下流へ流れる水量や内水を減らす遊水地整備を行っています。

 

このすぐ先に飛鳥川が合流していますが、平坦な土地です。

1982年の奈良県の戦後最大の洪水、全く記憶にありませんでした。

 

検索すると「日本の川ー近畿ー大和川」(国土交通省水管理・国土保全局)に説明がありました。

戦後最大洪水(昭和57年)

近年では、昭和57年(1982年)8月2日に柏原地点において約2,500㎥/secの流量を記録した戦後最大となる洪水が発生した。7月31日から2日明け方にかけて、台風10号通過に伴う降雨が続いたため、柏原上流域の12時間雨量が146mmを記録した。大和川本川では、1日から3日にかけて、藤井付近や支川西除川合流付近では計画高水位を超えたほか、奈良線大阪府内の支川のはん濫や内水浸水の発生により、21,956戸の家屋が浸水する等の被害が生じた。

 

王寺町の浸水被害の写真が載っていて、これがあの王寺駅前にあった「この場所は昭和57年に浸水しました」のことだったとつながりました。

 

右岸の堤防が通行止めになっていなかったら、知ることのなかった歴史でした。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら