ここ2年半ほど、求めている国のあり方はこれじゃあないということが続きすぎて、光も見えない混沌とした日々ですね。
20代の頃に読んでも理解できなかったヨハネの黙示録ですが、いつの時代にもこういうことが繰り返されてきたからだと最近は漠然と感じるようになりました。漠然とですけれど。
さて、仕事がらケアとは何かと悩み続けているのですが、こんな場合にも世間ではこの言葉を使うのかと驚きました。「仰天した」に近い驚きです。
傷つけたことは事実。(一部略)事実関係は確認するが、いま弁護士も含めて連絡をしている状況。最大限のケアをしていきたいと思っている。その旨を伝えている。
えっ?
*「ケア」とは何か*
改めて検索してみました。
1 注意。用心。
2 心づかい。配慮。「アフターケア」
3 世話すること。また、介護や看護。「患者をケアする」「ケアワーカー」
(「デジタル大辞泉」)
「2」の意味で使われたのでしょうか。
90年代ごろから「心のケア」といった表現が広がりましたが、いまだに私には違和感が強い言葉です。
なぜなのだろうと考えているのですが、こんな記事もありました。
「ケア」って何?誰でもできる「ケア」と専門的な「ケア」
誰もがケアとともに生きている
「ケア」は看護や介護、福祉の専門家が病気の人や生活に困っている人に対して行うものだと思うかもしれません。しかし、ケアは「人の成長を信じ、関心を持って関わること」です。誰のケアも受けずに成長する人はいませんし、日々の生活の中でまわりの人に手を差し伸べることは何かしらあるものです。私たちはケアしたりされたりしながら、人間関係を築いています。
(強調は引用者による)
引用元は伏せておきますが、人間科学部の教授という方が高校生に向けて書いた記事の冒頭の部分です。
「人の成長を信じ、関心を持って関わること」、なんだか自己啓発っぽい表現だなと思ったら、最後の方に「"自分らしさ"を伸ばし 人間性豊かな先生になる」とありました。
本当にそれは「ケア」なのだろうか、ともう少し検索してみると「国立国語研究所」の説明がありました。
ケア
言い換え語
・手当て
・介護
(中略)
意味説明
放っておくことができないものへの手当て
手引き
・かなり定着が進んでいる語で、そのまま使って大きな問題はないと思われる。ただし、60歳以上では、分かりにくいと感じる向きもあるので、読み手の中に高齢者が想定される場合や、不特定多数の人を相手にする場合には特に、言い換えや説明付与が必要になる。
・「ケア」の言い換え語は、最も基本的な意味を表すものとして、「手当て」が有効だが、文脈により言い換え語を変える工夫も効果的である。言い換え語に示した「介護」のほか、医療の分野では「看護」、身だしなみや品物の場合には「手入れ」などが考えられる。
・「ケア」が使用される範囲は広く、便利な言葉ではあるが、意味が広がりすぎることで、軽くあいまいな言葉に感じられることもある。正確な伝え合いを求める場合は、特に、注意が必要である。
(強調は引用者による)
えっ?
私が60代だから言葉の意味がつかめないのではなく、その使い方の広がり方が「他人へではなく自分へ」と内向きに使われるようになった変化に戸惑っているのですけれど。
世の中では違うのでしょうか。
*基本に戻って、ケアの当事者主権とは*
今回、先手を打って家族や社会に謝罪し、その後に「ケアされることが必要」とされた人の立場はどうなのだろう。
その人は「そのケアを必要と思うのだろうか」、それも気になっていました。
結論が出るような問題ではないのですが、10年前に引用した「当事者主権」の考え方でまた頭の整理をすることになるとは思いませんでした。
再掲しておきます。
ケアはニーズのあるところに発生し、順番はその逆ではない。ニーズは社会構築的なものであり、ケアの受け手もしくは与え手、あるいはその双方が認知しないかぎり、成立しない。そしてニーズの帰属先を当事者と呼び、そのニーズへの主体化が成り立つことを当事者主権と呼ぶ。
ケアは自然現象とは違う。ニーズー「必要」と訳されるーが認知されないかぎり、自ずから満たされることはない。赤ん坊でさえ、泣いたり身体の徴候によってニーズを表出し、それを養育者が認知することを通じて相互行為が成立する。「母性愛」が自然でも本能でもないことがあきらかになった今日、赤ん坊のいかなるニーズに応え、いかなるニーズに応えないかもまた、文化と歴史によって変化する社会構築的なものである。
ケアの受け手と与え手の関係は非対称である。なぜなら相互行為としてのケアの関係性から、ケアの与え手は退出することができるが、ケアの受け手はそうでないからである。この非対称な関係は、容易に権力関係に転化する。うらがえしにケアに先立って存在する権力関係を、ケア関係に重ねることもできる。家族の支配・従属関係、ジェンダー、階級、人権など、ありとあらゆる社会的属性が、ケア関係の文脈に関与する。このなかで搾取や強制、抑圧や差別が生じる。ケアの非対称性とは、このような社会的文脈におけるケアの抑圧性を、ケアする側・ケアされる側の双方から、問題化することを要請する。
強調した引用部分は、10年前と変えてあります。
今回の件でもう一人の当事者を「ケアの受け手」とするその感覚と、社会もまたそれに寛容な風潮があるからこそ、日本の社会では「扶養される」という従属関係が容認されてきたのだろうなとつながりました。
まあ、一人の人として経済的そして社会的に自立することが叶い始めたこの半世紀は驚異的な変化の時代でしたから、ゆっくりと変わるしかないのですけれど。
さて、もうひとりの当事者はその一方的な「ケア」を拒むことも、それは「ケア」でもなんでもないと突き放すこともできるはず。
それが自立した人間関係ではないかと、ちょっと厳しめですが感じました。
*おまけ*
あとで何に対しての話かわからなくなりそうなので、「某政治家の不貞行為についての報道」とだけ記しておきます。
「シュールな光景」まとめはこちら。
失敗とかリスクについてのまとめはこちら。
聖書についての記事のまとめはこちら。
合わせて「ケアとは何か」もどうぞ。