散歩をする 593 お茶の水から上野動物園へ節約の散歩

昨年7月に2回だけ出かけた散歩のもう一つは、7月中旬でした。上野動物園の年間パスポートの期限が間近だったので、久しぶりに行こうと思い立ちました。ただ交通費を節約するという課題があります。

お茶の水駅から上野動物園まで歩くのが、最安になりました。

 

中央線や総武線に乗ると車窓の向こうに、いつも順天堂大学病院と東京医科歯科大学の建物を眺めていたのですが、いつの間にか「東京科学大学病院」に変わり現代の要塞のような建物になりました。

お茶の水駅から湯島のあたりは、1980年代の終わり頃に出かけることが多かったのですが、いつも同じ場所ですから案外と街を知らないものです。今回はここをまっすぐ北上して歩いてみましょう。

 

お茶の水駅に降りました。ここもずっと工事中ですね。神田川右岸の狭い場所を利用して駅を整備するので大変そうです。

 

*聖橋と近代教育発祥の地*

 

お茶の水駅周辺も風景がだいぶ変わっているようで、なんだか40年ほど前と変わらないような、不思議な錯覚に陥る場所です。

 

おそらくその一つの理由が聖橋(ひじりばし)のような神田川にかかる古い橋の存在でしょうか。

橋を渡ったところに「土木学会選奨土木遺産」の碑がありました。

 聖橋は、関東大震災の復興事業として、大正13年に着工し、昭和2年7月に完成しました。

101年間、その同じ橋を多くの人が渡り、眺めてきたのですね。

 

その先に東京科学大学病院の柵のそばに「近代教育発祥の地 湯島一丁目4と5(湯島聖堂東京医科歯科大学)」の案内板がありました。

東側には鬱蒼とした湯島聖堂の森があり、この森も子どもの頃から変わらないような気がします。

 

*湯島の坂を上ったり下ったり*

 

湯島聖堂神田明神はまだたずねたことがなかったと思いながら本郷通りの交差点を渡ると、そこから先はぐんと下り坂になり、その先にまた上り坂が見えました。

「湯島」、こんなにアップダウンが激しい街だったとは驚きました。

 

40年ほど前もすでにこの辺りは、数階建てのビルがぎっしり並ぶ「都会の街」の記憶です。

湯島天満宮までの600mほどの道は、ただビルの間を歩くだけと思っていましたが、この起伏に俄然楽しさが出てきました。

 

条里のように道があるのですが、一本西側の道が下り坂になって見えています。そこを繋ぐ道がぐいっと上りになっているのも見えます。

1960年代とか70年代頃は斜面をそのまま道にしてビルを建てていたのでしょうか、あの少し前までの渋谷のようです。

 それぞれの時代の風景の記憶というのは、案外と体に染み込んでいるものだと感じました。

そして子どもの頃の記憶が歴史や文化財への関心になり、それぞれの時代の葛藤を思い出す。そんな感じですね。

 

清水坂の由来が書かれていました。

 江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超(だいちょう)和尚の開いた霊山寺(りょうぜんじ)があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も消失し、浅草へ移転した。

 この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正(だんじょう)という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水精米機会社の所有となった。

 大正時代に入って、湯島天満宮お茶の水の間の行き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。

 そこで、町の人たちが、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。

   文京区教育委員会

(強調は引用者による)

 

「道に歴史あり」そして道の名前にも歴史あり、ですね。

 

「明暦3年の大火」どこかで書いたようなと思ったら、「下連雀の歴史」の説明文でした。

 

地図では平面に見える湯島ですが、清水坂をぐいぐいとのぼっていきます。両側の路地には、ビルの間に普通の民家もあります。

何より、そのビルも現代の要塞のようなものではなくこじんまりしているので何だか安心感があります。

小さな更地にまた新たに住宅が建つようなので、大規模な再開発計画で風景が変わることは当分なさそうでしょうか。

 

今度は「旧町名案内」がありました。文京区ではよく見かける案内ですね。

 旧湯島三組町(みくみちょう) (昭和40年までの町名)

 元和(げんな)2年(1616)徳川家康駿府で亡くなったので、江戸へ召し返された家康付の中間(ちゅうげん)、小人(こびと)、駕籠方(かごがた)3組の者の大縄地(おおなわち、一括して広い土地を賜る)となった。

 駿河から帰ったので俗に駿河町(するがちょう)と呼んだ。

その後、元禄9年(1696)町屋を開き、3組の御家人が拝領した土地なので三組町と名づけられた。

 五千円札の肖像の新渡戸稲造は、明治4年数えの9歳で叔父の養子となり上京した。翌年旧南部藩の脇慣義塾(きょうかんぎじゅく、三組町105番地)に寄宿した。近くの湯島天神に兄の病気の全快を祈って水ごりをとった。けなげな稲造を見て神官が声をかけ、説教会に読んだ。自分自身が光明で自分の信ずる道を進めという教えは、一生の指針になった。

町名にも歴史あり、ですね。

 

 

*本郷台地の東の縁を歩いていたらしい*

 

この案内板を写真に収めたのは、「三組坂上」交差点のあたりだったでしょうか。

そこからまたすごい下り坂になり、湯島はこんな起伏があったのかと驚いていたら、コミュニティバスのバス停がありました。20分おきに通るようで、100円です。この坂道を重い買い物の荷物を持って歩かなくてすみそうですね。

40年前にはこんな便利な交通手段が広がるとは、考えたこともありませんでした。

 

今度は東側への急な下り坂があり、石段になっています。これが地図にあった「実盛坂」のようです。

また、案内板がありました。どこを歩いても歴史民俗博物館のようですね。

 実盛坂(さねもりさか)

 「江戸誌」によれば「・・・湯島より池の端の辺りをすべて長井庄といへり、むかし斉藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸誌」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。    (以下、略)

 

そうでした。この東に「池の端」があり不忍池がありますからね。

10年ほど前に出会って散歩にはまるきっかけの一つになった「水系と3Dイラストでたどる東京地形散歩」を引っ張り出して確認すると、この道は本郷台地の最東端を繋いでいたようです。

 

暑さの中、坂を上ったり降りたり、また上ったところで湯島天神に到着。

湯島天神の東側から不忍池の方へ行くのに、膝がガクガクしながら坂道を下りました。まさに断崖の上にある湯島天神です。

 

下りたところには鮮魚屋さんやふつうの家々が並んでいて、40年ほど前の街と変わらないことに何だかしんみりとしたのでした。

 

交通費節約のために選んだ道でしたが、あちこちの案内板の前で止まり、たくさんの歴史を行ったり来たりすることができました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら