十河信二(そごうしんじ)記念館のパネルを読むうちに、私が生まれた頃の新幹線をつくろうという雰囲気が見えてきました。
撮ったパネルの内容を記録しておこうと思います。
十河信二は1955(昭和30)年5月20日、日本国有鉄道(国鉄)総裁に就任、4年の任期を再任されて、1963(昭和38)5月19日に満期退任した。十河の国鉄総裁就任は、十河にとっては約30年ぶりの国有鉄道への復帰であり、このとき71歳であったので、その就任は当初は世間からは意外の感をもって受け止められたが、その仕事ぶりと人柄によって、特に現場の職員から支持され、歴代の国鉄総裁のなかでもっとも国民からも愛された存在であった。勉強熱心は相変わらずで、西条市が所蔵する文書群には、十河の手による書き込みやアンダーラインが多く残されている。十河は総裁に就任すると「国民の国鉄」を構想して利用者へのサービスを強調した。
日本国有鉄道は1949(昭和24)年6月1日、鉄道院、鉄道省以来政府の直営であった国有事業の経営効率化を目的として特別法によって設置された特殊法人である。十河の在任中の国鉄の課題は、増加し続ける客員の輸送需要に常に立ち遅れてしまう輸送力を、絶えざる輸送力増強と近代化、効率化によってマネッジしていくことであった。第二次世界大戦中の戦争遂行体制下で鉄道は十分な資金と資材の供給のないままに酷使されて極度に荒廃し、戦後に急速な復興を達成しつつあったものの、経済の戦後復興とそれに引き続き始動しつつあった経済成長に伴う輸送需要の増加が常に先行し、これに十分にフォローできない状況にあった。政府の経済計画に対応すべき国鉄長期計画が立案され、幹線輸送力の増強、電化、通勤輸送力の増強などが進められたが、恒常的な資金不足に制約された。
それでも、新型車両の開発と運用による輸送サービスの向上は積極的に展開された。新性能の通勤型電車101系で開発された技術を発展させた電車特急「こだま」型は1958(昭和33)年に登場し、国鉄のサービス向上のシンボルであった。電化、電車化とともに、非電化区間にはディーゼルカーが積極的に投入され、全国的に特急、急行、準急からローカル列車に至るまで、国鉄の輸送の姿を大きく変えていった。その頂点ともいうべきダイヤ改正が、1961(昭和36)年10月の「サンロク トオ」であった。新しい車両の登場などわかりやすいサービス改善は利用者に好評をもって受け止められ、国有鉄道のイメージアップに貢献し、また収益の向上につながった。
1960年代前半、私が幼児の頃に東海道本線と山陽本線を乗り継いで、都内から倉敷の祖父母の家までいった記憶があるのですが、ちょうど「国民のための国鉄」を目指した「歴代の国鉄総裁の中でもっとも愛された存在」の十河信二氏が退官された直後の時期だったのですね。
そしてマルスが開発されたのが1960年ですから、これも在任中だったとつながりました。
*「十河総裁と新幹線」*
1964年の新幹線の開業式典を十河氏は千駄ヶ谷のアパートで迎えたことが書かれていた「栄光の陰で」は、「十河総裁と新幹線」というパネルの最後の部分です。
全文を記録しておこうと思います。
▪️夢の超特急▪️
昭和30年、71歳で十河先生が第4代国鉄総裁に就任した頃、日本はひとまず戦後の復興期を脱して、経済成長へ向かおうとする過渡期にありました。
そのためには鉄道の輸送力増強が必要(特に、東海道本線)だとする意見がある一方で、輸送手段としては飛行機と自動車が主力になり、"鉄道は斜陽化する"という見方が一般的でした。
しかし、十河総裁は、就任当時から大きな夢を持っていたようです。
広軌というのはレール間の感覚が143.5cmあり、列車をよりスピードアップさせるためには欠かせない基盤設備です。一方、日本の在来線の多くは狭軌といって、レール間の間隔106.7cmしかなく、経済性の面では広軌より優れています。
”斜陽化する”であろうと予測されていた鉄道に膨大な設備投資をすることは、簡単に理解が得られるものではありません。事実、「広軌の研究をしてみようや」という総裁の提案は、国鉄内部でも”じいさんの夢物語”として軽く扱われます。
しかし、十河総裁にとって、広軌新幹線の実現は人生を賭けてでもやり遂げたい仕事でした。
戦前、中国大陸で活躍していた頃、満州の原野を疾走していた特急「あじあ号」の勇姿、太平洋戦争の戦況悪化で断念せざるを得なかった”弾丸列車計画”、何より、情誼に篤い総裁が愛した”広軌派の人々”の見果てぬ夢。
それらが、明治の男・十河信二の魂を揺さぶったのではないでしょうか。
もちろん、日本の経済成長のために不可欠な産業基盤であるという強い信念を持った上での仕事であったのでしょうが。そこに”男のロマン”を見ることができます。
▪️実現に向けて▪️
国鉄内部でも、広軌新幹線計画に理解が得られないと感じた十河総裁は、技師長を更迭します。”広軌派”の盟友で”車両の神様”とも言われた、島安次郎氏の長男・島秀雄氏を民間から迎え入れて、広軌新幹線の技術面の一切を委ねます。それに応えて、島技師長は「東海道増強調査会」の委員長として、粘り強く広軌新幹線の必要性を説き、国鉄内部を”その気”にさせていきます。
その一方で、十河総裁は自分で作ったガリ版印刷のパンフレットを常に持ち歩き、会う人毎に広軌新幹線の必要性を説いて回っていたといわれます。鳩山一郎、岸信介、河野一郎、佐藤栄作…まさに「夜討ち、朝駆け」で計画の必要性を説いて回った政府要人たちです。
さらに、鉄道技術研究所が開催した「超特急列車、東京ー大阪間三時間への可能性」という講演会で、世論を味方につけることに成功します。
そして、ついに、昭和33年12月12日の交通関係閣僚協議会が「東海道新幹線の早期着工」を決定、同月19日の閣議に報告されたことで、東海道新幹線は政府の正式決定事項となったのです。
その交通関係閣僚協議会が開かれた12日の夕方、総裁は青山墓地に広軌派の領袖(=後藤新平、仙石貢ら)を訪ねたといわれています。
昭和34年4月20日午前10時、新丹那トンネル熱海口で、東海道新幹線の起工式が執り行われます、「鍬入れの儀」。十河総裁は、気合もろとも力強く鍬を振るいます。「えいっ、えいっ、えいっ」3回目には、うず高く積まれていた砂山は崩れ、鍬の先が抜けて参列者席の前へ転がりました。
”気魂の人・十河信二”です。
▪️立ちはだかる困難▪️
昭和33年12月の閣議決定で、「東海道新幹線計画」は現実のものとなります。しかし、その成功に向けて乗り越えなければならない困難は山積みしていました。
その一番大きいものは、なんといっても財政計画。閣議決定を受けた資料そのものからして、実際に必要とされる経費(島技師長はその額を約3000億円と試算したといわれています)を、半分近くに圧縮した上でのものでした(1,725億円に圧縮した資料を提出しました)。「3,000億円では閣議決定を受けられない。半分ほどにしてくれ、決まれば何とかなる…」総裁の要請を受けた技師長は驚いたといいます。
「政治家というものはえらいことをする」”有法子”(何とかなる)、まさに十河先生の面目躍如です。
次に、新幹線計画自体を快く思っていない政治家からの十河総裁任期切れによる辞任要求(昭和34年5月)がありました。老齢、健康上の問題…辞めさせられる理由はいくつもありました。これは、マスコミや財界、吉田茂元総理大臣が留任支持を打ち出したことで、老総裁の再任が決定されます。また、国鉄内部の技術者や現場長からの「十河のオヤジを辞めさせるな」という陳情があったといわれています。
2期目を迎えたといっても、資金問題が片付いたわけではありません。かつての広軌推進論が政争の具にされたように、政権が変わると方向転換されるという危険性もあります。
ここに一つの打開対策が見つかります。国際復興開発銀行(IBRD、通称「世界銀行」)からの借款です。時の大蔵大臣・佐藤栄作氏(国鉄出身、後に総理大臣)の献策であったといいます。
調査に訪れた世界銀行副総裁・ローゼン氏に、総裁自らその必要性を熱く訴え、昭和36年5月、8000万ドル(=当時のレートで288億円)の借款調印式にこぎつけます。
これは、288億円の資産調達が可能になったというだけではなく、「政府がこの計画の実現を世界銀行に約束した」という面での価値が大きいといわれています。政権交代による”計画の立ち消え”という呪縛からは開放されたのです。
歴史に「もし」はないとはいえ、「もし十河信二氏が国鉄総裁になっていなければ新幹線はなかったのかもしれない」と思う内容でした。
そして1964年、新幹線の試験走行を見学したジェイ・ウォーリー・ヒギンス氏が戦争が起きていなければ、新幹線は10年、15年早く実現していたかもしれないと書いたように、戦前からの技術や現場での仕事の積み重ねがあったからこそ実現できたと言えるのかもしれません。
*丸鼻と爆撃機*
もう一枚、四国鉄道文化会館で撮った写真があります。
香川県高松市生まれの三木忠直(1909~2005年)は、旧制高松中学から六高、帝大へと進み、戦前は海軍技術廠にて、航空機の開発に携わりました。特に、高速爆撃機「銀河」や特攻機「桜花」の形状研究に、遺憾なくその才能を発揮しました。しかし戦後は、培った技術の平和利用を行いたいと、高速鉄道車両の開発を行う研究員へと転身しました。航空技術のプロフェッショナルとして、昭和30年頃からは、小田急のSE車3000形の形状研究、そして世界初の高速鉄道「新幹線」の車体形状研究に邁進しました。
「三木忠直」が研究設計した航空機「銀河」の前頭形状が、「0系新幹線」電車へのデザインに受け継がれ、世界初の高速鉄道の成功に結びついているのです。
1960年代の「丸鼻」から最近はもっと流線型の長細い形になりましたが、私が生まれる頃はまだ「空気抵抗を少なくするためにあの形」にすることはありそうでなかったのだと知りました。
そして、ちょうど最近タモリさんの新幹線の特集番組があって、三木忠直氏が爆撃機のデザインをすることは「若者をそのまま死なせるための技術」であることに葛藤していたことが紹介されていました。
当時の爆撃機というのは帰還することは想定していなかった、と。
「新幹線」から少しずつ、私が生まれる前後の時代の雰囲気を知る機会が増えました。
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