数日前、ニュースで経鼻酸素カニューラをつけた男性の写真が放送されていて、そのインパクトに気を取られてニュースの内容を聞き逃してしまいました。
「何のニュースだったのだろう」と気になって検索したら、「人生会議」とか「ACP、アドバンス・ケア・プランニング」と初めて耳にする言葉が出てきました。
保険会社の宣伝だろうかと思ったら、厚労省のポスターでした。
周産期看護では実態のわからない言葉がどんどんと増え、バースプランのように「それは計画できるものではない」矛盾した言葉が広がったものの、最近は無事に生まれればそれでいいですと本質的なところへと戻ってきた印象です。
他の看護領域のケアはそこまで現実離れしていないことに安心しきっていたので、ちょっと不意打ちでした。しかも世界中でこの「アドバンス・ケア・プランニング」という言葉が広がっていることに。
自らが希望する医療やケアを受けるために大切にしていることや望んでいること、どこでどのような医療やケアを望むかを自分自身で前もって考え、周囲の信頼する人たちと話し合い、共有することが重要です。
もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて、前もって考え、繰り返し話し合い、共有する取り組みを「人生会議(ACP:アドバンス・ケア・プランニング)と呼びます。
あなたの心身の状態に応じて、かかりつけ医などからあなたや家族などへ適切な情報の提供と説明がなされることが重要です。
厚労省の「人生会議学習サイト」を開いてみました。
ステップ3まであって、色々と「考え」「書き込む」方法のようです。
その内容は、まるで「バースプラン」に「へその緒を自分(夫)の手で切りたい」と出産の場をイメージして書くような現実感のなさを感じました。
多くの人が「血を見るのは怖い。気分が悪くなるかもしれない」と出産の場面をイメージしている中、血管の通っている臍帯を切りたいと思うのですからね。
「こうしたい」「こうして欲しくない」、そういうことを言葉で表現できる方が「考えている」「主体的」ということになってしまったようです。
むしろ、イメージから想像しているだけだから、書けてしまうとも言えるかもしれませんね。
そして、自分自身あるいは「信頼している人」も、1時間後には何が起きているかわからない。
だから人生の理不尽さに立ちすくむのではないかと。
この10年ほど両親の入退院や父の最期を看取って、延命についてはクールなほど自分の中で結論をつけていたつもりが、考えていたこととは違う状況なんていくらでも起きましたし、家族間の気持ちの折り合いのつけ方も時間が必要でした。
悩んで答えを出せない状況を、「考えていない家族」と受け止められるのだろうなと思いながら。
50歳になったら書こうと思っていた私自身のエンデイングノートも、今だに書けないままです。
いつ、何をどう書くのか。
書いた直後に、状況が大きく変わる可能性だってありますからね。
簡単に言葉にならない。
「アドバンス・ケア・プランニング」
死んだあと、「計画通りにいった」と思うのは誰だろう。
生老病死という葛藤しかない深淵を見つめるのに、「人生会議」なんて名前をつけるのはシュールな世界だなと思いました。
「シュールな光景」まとめはこちら。