無人駅の岩室駅の前はひっそりとしていましたが、消雪パイプが通る茶色い道が続き、駅前の小さな公園も夏草がきれいに刈られて整備されています。
公園の一角に「良寛歌碑」と案内板がありました。
良寛は、和納の医師楽斎と友人であった。この為、鳴琴堂(楽斎邸)へと足を運んだ。足が福成寺へと向くこともあった。
和納は良寛の托鉢のルートだった。
子どもの頃に知った名前は忘れないものですが、どんな人だったっけとWikipediaの良寛を読むと、18世紀に「全国各地で米騒動が頻発し、越後でも天災・悪疫・凶作によって餓死者を出しており、村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった」時代のことが書かれていました。そして後年、71歳の時には死者1000名を出した三条地震もあったようです。
混迷の世の中をいつの時代にも繰り返してきたのですね。
そこから良寛さんも歩いたであろう道を、まっすぐ西川の方へと歩きました。
どっしりした瓦屋根と木の香りのする静かな住宅地が続いていますが、どこも街の中がよく手入れされているのを感じます。
西川の手前からまた川へ向かって緩やかに上りになり、そばに八幡太神宮の立派な社殿がありました。脇に水路があります。排水路だろうかと思って近づくと「八幡揚水機場」で、西川の水を汲み上げているようです。
*「岩室民俗史料館の歩み」*
西川沿いの蛇行した道の住宅地をしばらく歩くと、目指す岩室民俗史料館の案内がありました。
想像以上に立派な大きな建物です。よくよく見ると、かつては保育園だったようです。
中に入ると、地元の女性が私一人のために全ての部屋の電気をつけてくださいました。
最初の方の展示に鍛冶屋さんの道具がたくさん並べられていて、神社を建てる腕の良い棟梁が使っていたような話をしてくださいました。「ここに来るまでに立派な八幡様がありました」と言うと、どうやらあの近所の神社は岩室地区とは違うようです。
生活用具やら農機具などたくさんの展示があり、途中、「岩室民俗資料館の歩み」が額に入っていました。
岩室民俗史料館には、昭和四十年代から集められた生活用用具や農作業用の道具等、千五百点以上の民具が展示、保管されています。
日本は昭和二十年の敗戦により、農地解放、財閥の解体、義務教育の普及が進み、努力すれば報われる社会へと大きく変換を遂げました。
今日まで、どん底の生活を強いられた人々の懸命な努力により、二十年代の後半には経済も復興し、三十年代の前半には経済の高度成長期を迎えました。
昭和三十年代の半ばからは、蒲原地方の岩村も人々の生活が安定し潤いも生じてきました。
道路の整備、水道の普及、ガス事業の導入、農地の基盤整備などが進められ、生活の変化が大きくなってきたのです。
家の建て替えが進み、電化製品の普及、農作業にも機械が導入され、今まで使われてきた生活用具、着物、手作業の道具などが不要になりました。
当時の岩室村の文化財保護審議委員会委員を務めていた斉藤 嘉吉氏の提唱により、使われなくなった生活用具や道具を集め展示する施設を作ろうという機運が生まれました。
この冒頭の文章に惹きつけられました。
「敗戦により農地解放、財閥の解体、そして教育の普及が進み、努力すれば報われる社会へと大きく変換を遂げました」
まさに、自分が生まれる前の30〜40年ぐらいは、歴史として学ぶには浅すぎて現実感を伴わないままだったので、その時代を知りたくて散歩をしているとも言えるこの頃です。
そして1970年代に全国に公立や施設の博物館が急増した背景には、経済的余裕だけでなくこうした生活の記録を残すことの大切さを実践された方達が各地にいらっしゃったからだと知りました。
地図では信濃川左岸に細長く続く微高地にある小さな村に見え、そこに独自で民俗史料館があることで関心が出て訪ねてみましたが、圧倒されるような展示でした。
ああ、やはり史料館を訪ねるのなら2~3時間は滞在できるように余裕を持った計画にするべきでした。
先を急がないといけないので出ようとしたところ、70代以上でしょうか、地元の数人の女性が来館されました。
毎年何回か展示を入れ替えているそうで、地図で見つけた民俗史料館はそこで生活する人の手によって歴史を記録し続ける作業が行われているようでした。
「生活のあれこれ」まとめはこちら。