父は1925(大正14)年生まれで、スペインかぜの流行後まだおそらく世の中が混乱していた時期ではないかと思います。
そしてまた1920年のコレラの流行の数年後であり、かかれば死を覚悟した結核も蔓延していた時代でした。
私が子どもの頃の父は食中毒や風邪を引くことなどに神経質のような面があって、家には健康法やら代替療法のたぐいの本がたくさんありました。当時はまだまだ医療にかかることの敷居が高かった時代だったにしても子どもごころに「そこまでしなくても」と思っていましたし、自分が看護学校に入ると健康法にはまって、病気も因縁で起こると信じているように見えてとても古臭い世代に感じていました。
3年前の未曾有の感染症拡大から年表を行きつ戻りつ考えているうちに、父もまたその時代の感染症への社会の葛藤から影響を受けていたのかもしれないと思うようになりました。
さらにさかのぼって、父が生まれる半世紀ほど前は「瘴気論」の時代だったのですから、感染症に対して驚異的に変化した時代だったことを公園の歴史から知りました。
病原体を確認できるようになったのも、たかだか一世紀半前ですから。
*「新しい生活」が定着するまで*
Wikipediaの「スペインかぜ」の「影響」に、「日本では、スペインかぜをきっかけにマスクが一般人にも普及するようになった」と書かれています。
1960年代、私の子どもの頃にも風邪を引くとガーゼマスクをさせられましたし、学校給食の配膳時にマスクを必ずするというのも「新しい生活」の一つだったのですね。
ただ、その給食時にマスクをつけなければいけなかった時の気持ちの反動か、私自身は白衣と帽子、マスクをした給食施設などの食事が苦手というこだわりがありました。
今はむしろ、帽子やマスクもないまま調理や配膳をされたら嫌ですね。
その気持ちの変化のきっかけになったのが、「保存料を使用しなくても工業的に無菌的な環境で製造されたパンは、数日ぐらいの日持ちは当然です」というあの「ヤマザキパンはなぜカビないか」の議論でした。
日頃、院内感染予防のための「清潔・不潔」を意識している医療従事者でも、やはり自分の気持ちの問題は整理しにくいものですね。
一世紀前のマスクをするという「新しい生活様式」も、いつするかとかしたくないとかさまざまな気持ちが反動のように混ざり合いながら、花粉症が広がり出してディスポのマスクが購入できるようになった1990年代あたりで本当に社会に定着したのかもしれないと思い返しています。
花粉症のためにマスクをつけるという「新しい生活」の変化がなければ、今回の未曾有の感染症では日本ももっと犠牲が大きかったかもしれませんね。
*こんな「新しい生活様式」もあった*
Wikipediaの「軍隊と結核」に、こんなことが書かれていました。
集団生活が基本なため集団感染の危険が高い軍隊では流行で兵力が急激に減ることから、結核には非常に気を使っており、軍の防疫部や軍病院では独自に予防研究も行われていた。
徴兵検査では特に厳重な胸部検査をし、さらに陸軍士官学校などでは、度々ツベルクリン反応検査をしたり、寝台は頭と足の向きを交互にしたりするなどして対応していた。
(強調は引用者による)
当時はまだ治療法もない結核で、誰もが死を身近に感じていた時代に隣の人と頭と足の向きを交互にしたりする対応しかなかったのですね。
父がまだ生きているうちにこの時代の雰囲気を聞いてみたかったですね。
今回の新型コロナウイルス感染拡大で「新しい生活様式」という言葉を初めて耳にした時に、その内容は感染症対策で大事だと理解できたものの、「新しい生活」という言葉が唐突に感じました。
ところがここ3年ほど感染症を常に意識する生活の中で、感染症との戦いの歴史の中では大きな犠牲から少しずつ次の時代へと「新しい生活」を試行錯誤してきたように思えてきました。
そういう歴史的な背景があった言葉だったのだろうかと。
あの政争と動乱、飢饉と災厄の真っ只中に生きた行基さんは天然痘を抑えるために火葬を勧めたらしいことも書かれていました。土葬から火葬へ、当時では受け入れるのには相当な葛藤があったことでしょう。
これもまた「新しい生活」の一つだったのかもしれませんね。
世の中は変化を納得するにはなかなか時間がかかるので葛藤をぶつけ合いながら、それでも合理性のあることは時間をかけながら残って定着してくのでしょうか。
できれば、その気持ちの反動の中での犠牲は少なくしたいものですけれど。
今の時代の葛藤から、次の時代へとどんな「新しい生活」を残していけるでしょうか。
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