さて、いよいよ今回の散歩も残すところあと3か所です。
戸畑渡船場で下船したあと、次の目的地の近くを通過する路線のバス停へ向かいました。
ところがGPSがずれているのか、その場所にバス停がありません。25分に1本のバスですから乗り遅れたらと少し焦りましたが、若戸大橋の橋脚の下にバス停が見えたのでダメもとで近づくとそこでした。ふう〜っ、よかった。地球上の隅々まで正確に描かれるマップですが、バス停がずれることがあるようです。
八幡製鐵所のそばを通りましたが、新幹線の車窓から見えたあの教科書の写真で見たそのままの大きな茶色の製鉄所はもっと海側のためか全く見えませんでした。広大な敷地なのですね。
「千防」「三六」といったどんな地名の由来か気になるバス停を過ぎると、ゼンリン本社のビルが見えました。
末長く、創業当時の「善隣友好」の想いが続きますように。
工場地帯との境界線にはお地蔵さんがいらっしゃったり、瓦屋根とトタンの壁の古い家が残っていたり公園があったり、どんな変遷があったのでしょう。
そんなことを思っていたら、広々とした小倉城の前を過ぎ、魚町バス停で下車しました。
いったん小倉駅のコインロッカーに荷物を預け、身軽になって次の目的地を目指します。
*新幹線の車窓から見えた場所を、新幹線を眺めながら歩く*
目指すのは関門海峡の海底トンネルからしばらく長いトンネルを走り、小倉駅手前の住宅地のそばで忽然と新幹線が地上に現れる場所を見てみたい、という酔狂な散歩です。
そこは徳蓮寺というお寺のそばで、小倉駅からは東へ約1.7kmのところです。地図だと平地がもっと東まで続いて須賀地区のあたりで山になるように見えますが、小倉駅の近くからじきに少し高い場所に市街地が広がっているようです。
新幹線だと一瞬で過ぎるので平地のように見えても、実際に歩いてみるとかなり高低差があることに驚かされますからね。あの、なんで豊橋のこんな平地に大きな池のある公園があるのだろうと思った場所が、実は少し高台のため池だったように。
山陽新幹線が岡山まで開業したのが1972年、そして博多まで延伸したのが1975年ですから、いつのまにか半世紀ですね。
半世紀前の小倉の風景はどんな感じだったのでしょう。
海底トンネルから抜けてきた新幹線が忽然と姿を現して、お寺のすぐそばを通りそのまま高架橋で小倉駅に向かう。今よりは住宅も少なくて田畑が多かった場所でしょうか。
当時の風景を見てみたかったですね。
*小倉城の東曲輪*
いよいよその場所に向います。
小倉駅前は魚町と東側に米町があるのですね。駅ビルから出てくるモノレールやビル群で、その地名の由来がわからないほどの近未来都市の風景です。
地図を眺めていると、新幹線沿いに東へと蛇行した道がありました。国道199号線と交差するところに川があり「砂津」という地名もあるので、どんな場所か興味深いものです。ここを歩いてみることにしました。
ビルの合間に新幹線の高架橋が見え、新幹線を眺めながらの幸せな散歩です。
歩き始めると小さな赤い鳥居と赤いお社が交差点にあり、1988年(昭和63)のこのあたりの再開発によってビルの屋上に瘡守(かさもり)稲荷神社が移転せざるを得なくなったが、一般の参詣のために一階に分社を建てたことが書かれていました。
瘡守、もしかすると天然痘と関わりがあるのでしょうか。
その近くに何か案内板があります。
〜小倉城下町の東曲輪(ひがしくるわ)〜
関ヶ原の戦いの後、豊前国に入国した細川忠興は、慶長七年(一六〇二)、交通の要衝である小倉の地に城を普請することとし、それから城下町の形成が始まった。
忠興は、町の縄張りを決めるに当たり、まず古船場の三本松を流れる寒竹川(かんたけがわ、現在の神獄川)から長浜の海に向かって人工の川(現在の砂津川)を掘り、外堀とした。この外堀の内側と紫川の間が東曲輪で、当初、ほとんどが松や雑木、竹藪の立ち並ぶ砂地の荒れた土地であった。
東曲輪は、京都を範として町割りされており、京町を基軸に、一区画が平均して約三〇間(約六〇メートル)四方の基盤目状に区画された。一つの町内は、紫川から砂津川まで伸びる東西の筋(道路)を南北に挟む形で並んでいた。
町名には、京町、大坂町、堺町といった近畿の都市名を取り入れたもののほか、米町、鍛冶町、紺屋(染物屋)町など、職業に関連するものもあった。
小倉の町は、現在でも、各区画の位置や大きさが概ね当時のままで、京町、堺町等多くの地名が現在に引き継がれている。
なお、かつて、この場所は博労町(ばくろうまち、寛永年間は「馬喰町」、正徳年間は「馬口労町」)といい、東曲輪の最北に位置して、北側が海に面していた。博労町は、昭和に入り、北側の海の埋め立てが進んで周囲が様変わりした上、住居表示の実施(昭和四十六年)で博労町の町名は京町となった。現在では、小倉の玄関口、商業の集積地として大いに賑わいを見せている。
平成二十六年には、道路に「博労町筋」、「京町筋」等の旧筋名を活かした通り名(道路の愛称)が命名されるなど、小倉城下町を今に伝える新たな取り組みが行われている。
小倉北区役所
なんと、目指していた場所までの歴史がわかる案内板でした。
このあたりまでがかつての小倉城の外堀だったとは。ほんと、城下町というのは広いものですね。
そして2022年に神嶽川の始まりをみてみたいと歩いた風景と小倉の歴史が少しずつつながってきました。
道路沿いに「博労町筋」の表示がありました。
何気ない風景でも、こうした土地の歴史と記憶がつながるというのは大事なことですね。
*小高い場所にあるトンネル口へ*
新幹線の走行音が静かに聞こえだすと左手に集中し、そしてまた蛇行した道を東へと歩くと、なんとこんな街中に観覧車が見えてきました。のぞみの車窓から見落としていた風景です。
その手前の砂津川を渡るときに、新幹線の上下と在来線の貨物列車が橋の上を通過して行きました。
川を渡ると少し風景が変わり、山が近づいてきます。
砂津の交差点を少し過ぎたところで新幹線の高架橋と少し離れ、南東へと曲り小さな商店街から中学校の南側の蛇行した道へと進みました。
平地を歩いていたと思ったのに、すでに「海抜8m」になっています。
道の両側が少し高く歩道は暗渠になっているので、蛇行した道はかつては小さな川で小倉城の外堀へ、あるいは直接海へと流れていたのでしょうか。
ケーキ屋さんが健在でした。
その先に地図では「天疫神社」があり、やはり天然痘に関係しているのでしょうか。ここから少しずつ上り坂になり、立ち寄る体力が残っていなかったので先を急ぎましょう。
左へぐいぐいと上る道の周囲は、おそらく1970年代ごろに開発された住宅地の雰囲気で、その先が開けて目指す徳蓮寺の横にきました。真言宗大谷派のようです。
門のそばにこんな言葉が書かれていました。
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつのこせなかった
このお寺の北側の地下を新幹線が通っています。
トンネル口に出入りする新幹線を眺められるだろうかと、うきうきしながら近づくと、高い壁に隔てられていて見えませんでした。
東京駅から「1011k700m」の表示がありました。
それでもその先からぐいっと下り坂になり、小倉駅までの高架橋に新幹線が通過するのを見ることができました。
念願の海底トンネルの出入り口がどんな地域にあるのかを見て満足するとともに、十河信二氏や爆撃機という「若者をそのまま死なせる技術」から新幹線へと力を尽くした方々もまた、「こわれた銃とゆがんだ地球」を平和へと変えようとした方たちだったのだと、そして「平和な時でなければ地図づくりはできない」というゼンリン社の社名にこめられた意味、人類の為にとか、一世紀二世紀後の社会へ豊さをつなぐとか、そういう先人の思いが実現しているのだとしんみりとしたのでした。
新幹線のトンネル口のそばにあるお寺は、偶然にも「蓮は平和の象徴なり」を思い起こさせるものでした。
20代の頃からの宿題である一世紀という歴史の意味が少し見えてきました。
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