世界はひろいな  50 日本の地理はひろいな

今日のタイトル、日本の地理は「ひろいな」というのか、それとも「幅がひろいな」のほうが正解なのでしょうか。

5月に東北の一部を回って車窓から見たり、少し歩いただけですが、感じたのが今日のタイトルでした。

 

関東平野を抜けると、小学生の頃に学んだように日本には背骨のように山々が連なり、わずかの平地に人が集まって暮らしていることを実感しました。

水が地形を作り、そしてその川も背骨の山脈に沿って長い流れを作っているのが東北の川の特徴でしょうか。

山の風景もまた違いました。

標高の低い山々の間に、鳥海山のようにポツンと雪が残っている山が見える風景が、上越新幹線の長いトンネルに入るまで続きました。

 

川や用水路の水量も違うように見えました。

今回、「トンネルを越えるとそこは雪国だった」の反対の方向で上越から関東へと戻ったのですが、「トンネルに入るまでは水田だったが、トンネルを抜けると畑だった」に変化しました。

こんなに違うのかと検索して見たら、「群馬用水の昔・今・未来へ」という記事がありました。

むかしから・・・ 

赤城山・榛名(はるな)山のすそ野は、水の少ない地域でした。このため農家の人々は田んぼの水に苦労しており、はるか下に流れる利根川の豊富な水を使いたいと、長い間願っていました。

この願いをかなえるため昭和39年〜45年に「群馬用水施設」が水資源開発公団により建設され、たくさんの水が使われる米づくりが標高の高いところでもできるようになりました。

車窓の風景からはまだまだ見えない歴史がたくさんあるのですね。

 

 *方向感覚を失う*

日本の地理は幅広いなと感じた今回の小旅行ですが、その中で印象的だったことがあります。

気候も風景もグラデーションを描くように少しずつ変化していく中で、1日目に秋田から酒田へ向かう途中、突然、方向感覚を失いました。

地図が好きなので、だいたいの地図は頭に入っていたはずです。

ところが、日本海へ夕日が傾いていくのを車窓から見ていたら、なんだか東へと日が落ちていくようにしか感じられなくなったのです。

翌朝、鳥海山を眺めながらどの方向から日が昇るのか確かめましたが、今度は西から昇っているように感じるのです。

ネット上でも東北や北陸では「太陽が海の左に沈む」ので、やはり方向感覚がおかしくなる方々がいらっしゃいました。そして反対に太平洋側の「太陽が海の右に沈む」こともまたしかり。

 

東北や北陸だけなのかと思ったら、先日地図を見ながら母の思い出話を聞いていたら、偶然、母も同じような経験をしていたことがわかりました。

戦争中に、海軍に入る叔父を見送りに大分まで行く途中で、汽車の窓から見えた夕日の位置が変だと感じたそうです。

国東半島のあたりでしょうか。

そばにいた若い軍人さんが説明してくれたけれど、よくわからないままだったと。

 

日の出・日の入りの「感覚」さえ、日本各地で一様ではないなんて考えたこともありませんでした。

 

そんなことを考えていたら、「地理」ってなんだろうと。

1. 地球上の海陸・山川の分布、気候・生物・人口・都市・産業・交通などの状態。

2.その土地の事情やようす。

デジタル大辞泉

 

そもそも土地に対する感覚でさえ一様ではないですものね。

 

歩けば歩くほど知らない世界がひろがっていきますが、鶴見良行氏が書かれたもう一度こまかな事実をきちんとだしていくことが重要で、あまり理論化を急がないほうがよいということは社会全般に言えるなあと思い出しました。そしてなににしても感情移入という自分中心主義に陥らないように気をつけながら「世界」のひろさを実感できたらと思ったのでした。

 

 

「世界はひろいな」まとめはこちら

散歩をする 137 信濃川と関屋分水

今回の旅の目的の最後のひとつが、関屋分水でした。

 

二十数年前に村井吉敬さんたちと三面川を見たあとに向かったのが関屋分水で、当時はなぜ村井さんがここを見ようと思ったのか理由を聞いたのかもしれないのですが、全く記憶に残っていません。

また、今のようにすぐに検索できるものもなかったので、ただただ信濃川水系の水を制御するシステムに圧倒されたままになっていました。

もう一度、あのあたりを見に行きたいものだと思っていたら、地図で「関屋分水資料館」があるのを見つけました。

 

*関屋分水とは*

当時は実際に訪ねてみても、信濃川と分水の位置関係などがよくわかっていませんでした。暇さえあれば地図を眺めるようになって、信濃川の流れ方が最近少し頭に入って来ました。

 

河川を思い浮かべる時、上流から下流へと蛇行しながら海岸線へ近づき、そのまま海へと流れるイメージがあります。

ところが信濃川下流は、しばらく日本海と並行に流れながら新潟市内を通って海へと流れています。

Wikipedia関屋分水の「上空から見た新潟市街地」の写真に「信濃川から分流し日本海へバイパスする水路が関屋分水」と説明がある通り、この市内を横切るように流れている信濃川の流量を減らすようになっています。

 

さらに「沿革」には、すでに信濃川の分水があることが書かれています。

信濃川の流水量を調節するための分水路としては江戸中期の享保期の享保年間に大河津分水が企図され、1920年代に開通したが、より下流にさらに分水路を開削する構想は江戸時代後期からあったと言われている。

享保年間は1716年から1736年ですから、200年後に大河津分水が完成したということになります。気が遠くなりますね。

それでも新潟市内は頻繁に洪水が起こり、ようやく1972年にこの関屋分水が開通したようです。

 

Wikipedia信濃川の「新潟県の水害」を見ると、1960年代は一回の水害で床上浸水が2000から5000、床下浸水は1万を超えていますが、1983年以降は被害が2桁まで減少しています。

開削の目的は洪水から新潟市を守ることである。1978年に信濃川下流域が大洪水になった際には早速その威力を発揮した。平成16年7月新潟・福島豪雨(2004年)の際にも洪水の大半を放流して、企図した治水対策機能を実証した。

 

2004年の豪雨の際には、支流では大きな被害はあったようですが、新潟市内は守られたのかもしれません。

村井さんたちと関屋分水を見学に行って10年ぐらい経ってからの水害なのですが、なぜか私の記憶には残らないままでした。

 

*再び関屋分水を見に行く*

 

新潟駅からは時間を節約するためにタクシーを使いました。行き先を告げましたが、私よりひと世代ぐらい若い運転手さんはご存知なかったようで、ナビゲーターで確認されていました。

母が東西用水酒津樋門を知らなかったように、日頃恩恵を受けているインフラというのは知られていないものなのかもしれません。

 

四半世紀ぶりの関屋分水が近づいて来た時、あっと思いました。

帰りは資料館から徒歩で越後線青山駅に行って、そこから新潟駅へ戻るつもりでしたが、分水路の対岸の「青山」はまさに小高い場所でした。

日本海沿岸の自然堤防の端を利用して、ここが選ばれ、開削されたのでしょうか。

四半世紀前は、まったく地形が見えていなかったのでした。

 

関屋分水路が日本海に注ぐところにあるのが新潟大堰で、そこに関屋分水資料館がありました。

こじんまりとした資料館ですが、歴史や写真がわかりやすく展示されていました。

 

90年代にはまだこうした国土交通省建設省)の施設を見学するのには、イデオロギーの相違を意識しなければならないようなちょっとした緊張感があった記憶があります。

ただ、あの時はどんな時にもまずは相手の話を聴く村井さんのおかげで、普段は入ることができないような新潟大堰の内部や指令室まで見せてもらったのでした。

 

あれから四半世紀を過ぎて、今ではあちこちのダムやさまざまな公共事業の場所にこうした資料館が併設されていることが珍しくなくなりました。

 

そして、さらにこの関屋分水でも「自然保全活動」が取り入れられているという展示がありました。

「粗朶沈床(そだちんしょう)」の整備によって湿地を取り戻し、「魚類にとって良いすみか」が計画されているとのことでした。

 

さまざまなことを地道に観察し続けている方々の仕事や学問も、こうして生かされているのかもしれませんね。

生物の生き様にはまだまだわかっていないこと、知られていないことが数多く残っている。 

 

科学の目的が客観的事実を積み重ね、万物の仕組みを法則的に認識することであるとすれば、知られていないことを記載的に明らかにしていく研究は、地味ではあるが間違いなくそれ自体に科学的な価値のある研究分野といえる。(「湿地帯中毒 身近な魚の自然史研究」) 

 四半世紀を振り返ると日本の社会の方向性もまんざらではないと、関屋分水を再び訪ねたことで思いました。

 

新潟駅からは上越新幹線に乗り、越後平野に広がる水田地帯をながめて帰路につきました。

 ただただひたすら川と海を見て、そしてさまざまな水田の美しい風景を眺め続けた2日間が終わりました。

 

 満ち足りた気持ちとともに、もっといろいろな川をじっくり見てみたいという願望が湧き上がって来ました。

困りましたね。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

記録のあれこれ 34 Wikipediaの「奥三面ダム」

2015年に書いた奥三面ダムに沈んだ村を書いた当時は、「奥三面ダムについては、頼みの綱のWikipediaにはまとめられたものが無い」状況でした。

 

4年しか経っていないのでまだ無いだろうと思っていたら、なんと奥三面ダムがありました。

今年1月に書かれたようです。

 

概要

高さ116.0メートルのアーチ式コンクリートダムであり、三面川流域の洪水防止、流水の正常な機能維持ならびに発電を目的として建設した多目的ダムである。

冬期間は積雪によりダムへの道路が閉鎖されるため、月1回、ヘリコプターでのアクセスにより点検が行われる。 

 

遠隔 

三面川では1953年に三面ダムが完成していた。1967年の羽越水害では人的被害はなかったものの沿川は大きな被害を受けたため、これを契機に当ダムの建設計画が始まった。

ダム建設に伴いマタギの里と呼ばれた旧三面集落、さらに縄文時代を中心とした奥三面遺跡群が水没した。旧三面集落跡にはメモリアルパークが作られ、石碑が立っている。なお、三面集落に住んでいた人々は、そのほとんどが村上市松山地区に集団移転したが、移転先で「村上市松山大字三面」として名を残している。

 

また、これらに関する資料は2005年7月にオープンした「縄文の里・朝日奥三面歴史交流館」で公開されている。

 

なんて簡潔に事実をまとめた文章だろうと思えるのも、二十数年間の私自身のものの捉え方の変化があるのかもしれません。

そして、さまざまな当事者の思いや考え方に折り合いがつくには、やはり時間がかかるのかもしれませんね。

 

このWikipediaの記事を書かれたのはどんな方なのだろうと、ちょっと気になっています。

 

 

 

「記録についてのあれこれ」まとめはこちら

散歩をする  136 村上と三面川

東北の川と海をひたすら見る旅の2日目は酒田から羽越本線特急のいなほに乗りました。鳥海山に背中を見守られるように、広い庄内平野の内陸部へと列車が入って行きます。

小学生の頃に学んだ米どころ、「庄内平野」が目の前に広がっています。倉敷の祖父の水田の風景も広い水田地帯だと思っていましたが、規模が違いました。

行けども行けども水田地帯で、くまなく大小さまざまな用水路がはりめぐらされていました。

 

しばらくすると、羽越大山あたりからその名のとおり右手が山になり、その向こう側は日本海が近づき始めました。トンネルが増え、日本海に近づいてはいるけれどなかなか日本海は見えない。

そこに、沿岸に線路を作るには難しい地形の理由があるのでしょうか。

 

小波渡こばと)駅あたりからようやく日本海が見え始めました。

トンネルをくぐるたびに小さな川のそばに集落があるのは、あの房総や南紀を回ったときと同じで、似ているけれど少しずつ違う街の様子を漏らさずに記憶したいと、ひたすら車窓の風景を眺めていました。

 

日本海は荒れているイメージが強かったのですが、目の前に広がる海は遠浅で、むしろ東南アジアのあの難民キャンプの前に広がるエメラルドグリーンの海に似ていたのは意外でした。

 

トンネルを越えるといよいよ2日目の最初の目的地、村上です。

トンネルを出てじきに三面川を渡ります。

今回の旅で目的を3つに絞れと言われれば、八郎潟に続いてこの三面川もそのひとつでした。

 

三面川と奥三面ダム*

 

1990年代半ば、村井吉敬さんたちとダムを見に行っていた頃に、この村上にも来たことがあります。

奥三面ダムの基礎工事が始まっていた時期でした。

 

あの時は車で行ったので、米沢から小国峠をとおり新潟へ入りました。ちょうど低気圧が通過した後だったこともあり、小国峠から新潟へと流れる川が怒涛の流れだったことが記憶にあります。当時はその川の名前を知らなかったのですが、これが荒川で、羽越豪雨では「特に被害が甚大だったのは荒川流域である」と書かれています。

 

すでにあった三面ダム周辺を見て三面川沿いに走り、村上市内で食事をしたのは覚えているのですが、肝心の三面川の記憶が残っていなかったのでした。

 

 

*美しかった!*

 

駅から歩いて10分ほどのところにある中央図書館のあたりから、三面川河岸段丘で下り坂になっていくのがわかりました。

列車の車窓から見えた川は、周囲の山の緑が水面に映えて美しい川でしたが、二十数年ぶりの三面川にどきどきしながら歩きました。

 

駅から20分ほどのところに村上市鮭公園と中州公園があり、公園の入り口にイヨボヤ会館があります。観光の目玉の物産店のようなものなのかと思ったら、鮭や淡水魚についての生活史やこの地域の文化史など、惹き込まれる展示ばかりでした。

予定外に1時間ほどその中で展示を見ていました。もっとじっくり見たかったのですが、列車の時刻もあるので先を急ぎました。

 

イヨボヤ会館の前に三面川の分流があり、これが鮭の養殖のために造られた種川だそうで、さらに中州公園を歩いてようやく三面川が見えました。

 

対岸の森はほとんど建物もなく、静かに三面川が流れています。

太平洋側の川とは違い、河岸いっぱいに滔滔と水が流れているのが、やはり日本海側の川なのでしょうか。

 

ああ、ここまで来て本当に良かった。

川の美しさはそれぞれあるけれど、この風景を毎日見て暮らしたいと思わせる川でした。

 

でも、もうひとつ確認したいことが残っています。

この川の上流に暮らしていた方々は、移転後、どのように暮らしていらっしゃるのだろうということです。

イヨボヤ会館の方に尋ねたら、「縄文の里・朝日奥三面歴史交流館」があって、奥三面出身の方々の話を聞くことができるとのことでした。

市内から12km離れているようなので、また次回の課題ということに。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

散歩をする 135 酒田と最上川

酒田市を選んだ理由は、10代の頃からなんとなく記憶にある地名だったからでした。

最初は「酒田大火」だったかもしれません。わたし自身が隣で火事を経験した数年後のようですから、恐怖とともに印象に残っていたのでしょうか。

酒田大火によると、「1976年(昭和51年)10月29日に山形県酒田市で発生した大火。この火災で酒田市中心部の商店街約22万5000㎡'22.5ha)を消失した」「戦後4番目の大火である」とあります。

 

その後、観光の話題などで山居倉庫周辺や落ち着いた街並みを見ていつか行ってみたいと思っていたところ、昨年9月にブラタモリで酒田について放送がありました。

川沿いの巨大な倉庫の中には膨大な量の米!最上川上流域の米を江戸に送り込む重要な場所だった酒田、その繁栄のシンボルが豪商・本間家。部屋数23の大邸宅と工夫を凝らしたインテリア、庭に集められた全国の名石。ご子孫も登場してタモリさんもびっくり!強風に晒される酒田の港の弱点を克服する秘密は沖合39キロにある「飛島」に。高さ40メートルの垂直で巨大な岩が風よけとなり、まさかの時の避難港になっていた。 

 

番組の詳しい内容は忘れてしまったのですが、この飛島のある地形を見てみたいものだと、一層、酒田市のことが記憶に残りました。

 

秋田を午後4時過ぎに出発すると、午後6時ごろに酒田に着くようです。夕方市内を散歩して、翌朝ももう少し歩いてみようと大まかに計画しました。

 

*秋田から酒田まで*

 

秋田市を出ると、しばらく広大な水田地帯を列車が走ります。このあたりもようやく田植えが始まった田んぼがちらほらあるくらいです。

どの用水路も水が滔々と流れて、これを眺めるだけでも来た甲斐があります。

 

秋田新幹線の大曲のあたりから見えていた雪の残る山が少しずつ近づいて、仁賀保駅では間近に見えるようになりました。

山頂がうっすらと雲に隠れている姿は、まさに秋田富士とか庄内富士と呼ばれるように、まるで6合目ぐらいから上に雲がかかった富士山のようです。

手前の山々だけでなく、この鳥海山の雪解け水もまた米どころを作ってきたのでしょうか。

 

ずっと鳥海山に見守られるかのように列車は走り、どのあたりからだったか沖合にうっすらと飛島が見えました。

想像していたよりは遠くにある島でした。そうですよね、沖合い39kmなのですから。

 

酒田に近づくに連れて、夕日が日本海に傾き始めていました。

まだ日没までには時間があったので、市内を流れ酒田港に続く新井田川沿いを歩き山居倉庫のあたりまで歩いてみました。

ずっと鳥海山が色を変えながら見えていました。

 

日和山公園と最上川河口*

 

翌朝、5時前に目が覚めてカーテンを開けるとそこには朝もやの中に鳥海山がくっきり見えました。

コーヒーを飲みながら、2時間ほど刻々と変化する鳥海山を眺めました。

酒田駅も眼下に見え、始発の電車や回送電車が動き始めていました。静かな朝です。

 

7時半にはホテルを出て、日和山公園を目指しました。

地図で見ると新井田川の河口が酒田港になり、その向こうに並列して最上川の河口があります。

それが一望できたのでした。

 

途中に井上靖氏の石碑が立っていて、ここを訪ねたときに「風が強くて誰もいなかった」ということが書かれていました。

 

八郎潟から新潟を訪ねた2日間はほとんど風がなかったのですが、八郎潟を回るときにも地元の方が「雪よりも風が大変」とおっしゃっていました。八郎潟には植樹されて半世紀をすぎた大木があちこちにあったのですが、ほとんどが風でやられてしまい、残っているのはごく一部だとのこと。

 

日本海も波もなく穏やかでしたが、風との闘いはどんな感じなのだろう。

やはり何度か季節を変えて足を運ばないとわからない暮らしですね。

 

 

最上川の河口は広く、ゆったりと川が流れていました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

境界線のあれこれ 88 秋田新幹線

東北新幹線は宇都宮まで利用したことがあって、たしか1時間ぐらい乗っていた記憶があります。

都内から宇都宮までと秋田までの距離を地図で眺めると、秋田までは新幹線を使っても数時間ぐらいかかるのだろうと思っていました。

計画が現実味をおびてきて時刻表で確認すると、なんと3時間半なので驚きました。

 

初めての秋田新幹線です。

わくわくしてWikipedia秋田新幹線を読み始めたら、「ミニ新幹線」という聞きなれない言葉が出てきたのでした。

「概要」にこんな説明があります。

1977年(平成9年)、全国新幹線鉄道整備法に基づかない新在直通方式のミニ新幹線として開業した。同法では「主たる区間を200km/h以上の高速度で走行できる幹線鉄道」を新幹線と定義しており、法律上は、盛岡駅秋田駅間はあくまで在来線であって新幹線ではない。 

 

新幹線が好きなのですが東海道・山陽新幹線がほとんどだったので、新幹線といえば速度ももちろんですが線路が在来線とは全く分けられていると思っていました。

「あくまで在来線であって新幹線ではない」

一瞬、意味がわかりませんでした。

 

*盛岡〜秋田間を走る*

盛岡駅から東北新幹線と分かれて走り始めました。どんな路線なのだろうと楽しみにしていました。

在来線のしかも単線の線路を走る新幹線なんて、ちょっとシュールです。この場合は、よい意味での超現実的という感じ。

 

家のすぐそばを走り、小さな川や風景までよく見えました。

水田のそばも通ります。

両親が住んでいた地域へ向かう、単線を走る特急列車と似ていました。でも車体は新幹線ですからね。

 

そのうちに、途中駅で「上り列車待ち合わせのため2分間停車」というアナウンスが入り、山の中の駅で停車しました。

こだまがひかりやのぞみに追い越されるのは東海道新幹線でもありますが、反対側の列車の待ち合わせがあるなんて驚きました。

ここはどこなのだろうとGPSで確認しようとしましたが、「圏外」でした。

これが「運行形態」に書かれている、「田沢湖線内はすべて単線なので、新幹線列車が普通列車との行き違いのために待ち合わせをすることもある」ということであるとわかりました。

上り列車は普通列車ではなく新幹線でしたが、新幹線同士が待ち合わせをするのも初めての体験でした。

 

待つ間、奥深い山の新緑を眺め、沢に流れる清流を眺め、ふと線路脇を見るとスミレがあちこちに群生しているではありませんか。

200km/h以上の速度で通過したら絶対に見えない世界でした。

 

駅の近くには雪囲いのような場所もあり、線路沿いの斜面には木や石を積み重ねた山腹工が見えます。

厳しい自然の中で、誰かがこうして保線業務をされているから安全にそして速く秋田まで行けるようになったのですね。

 

秋田新幹線の「年表」を見ると、2006年には大雪で運休が2回あったようですが、それ以外は2011年の東日本大震災で全線開通までに1ヶ月半ほど要した以外は、運行しているようです。

実際に走って見て、すごいことだと思いました。

 

さて、もうひとつ秋田新幹線の特徴に、「大曲駅では、田沢湖線奥羽本線の接続配線の都合によりスイッチバックする」とあります。

「大曲」の字のごとく、地図で見ると線路がぐっと曲がっています。

どんな地形だろうとわくわくしていましたが、一見、線路を曲げなければいけないほどの地形でもなさそうな印象で、その理由がわかりませんでした。

スイッチバックするので、ここから秋田までは進行方向とは逆の向きに座って風景を見ることになりました。

 

新幹線が在来線を走る秋田新幹線、景色も良くてまた乗ってみたいものです。

今度は在来線に乗って、沿道から新幹線を見るのも面白いかもしれません。

 

 

「境界線のあれこれ」まとめはこちら

米のあれこれ 9  水田の風景

4月下旬に母の面会に行った時に、その地域では水田に水が張られ田植えが行われている田んぼもありました。

水田に小さな苗がきれいに並んでいる、春の風景です。

5月中旬であれば、東北は関東近辺とは1ヶ月遅れぐらいの田植えの時期なのかなと想像していました。

 

新幹線の車窓からは、どこも田植えが終わったばかりぐらいの水田の風景が続いていました。

車窓には、山と川が作りだしたわずかの平地が次々と現れます。

小さな谷津あるいは谷戸と呼ばれるわずかに広がった場所から、少し大きな川の周囲に開けた平地まで、似ているようでそれぞれ異なる地形に整然と水田が広がり、小さな谷戸にさえも棚田が造られている風景がずっと続いていました。

地形や水源の違いが大きそうなのに、ここまで水田を造り上げたことに圧倒されます。

こちらの記事で紹介した本に書かれていた、「わが国の水利用の歴史を見る限り水田開発が中心であった」ことが実感できる風景が途切れることなく続くのでした。

 

 

ただ出発直後は案外、東北の田植えも関東とそれほど時期が変わらないような印象でした。

ところが、盛岡を過ぎたあたりから田植え前の水を張った水田が増え始め、中にはまだ代掻きだけの田んぼもありました。

 

さらに角館あたりからは、ほとんどが代掻きが終わったくらいの田んぼに変わりました。

 

30年ほど前に那須方面へ行く機会があった時、ちょうど都内は桜が終わり新緑の季節でしたが、東北道を北上するに連れて周囲の森の緑が薄くなっていくことが印象に残っていました。

これだけ季節の差があるのだと。

 

今回、北上しながら、水田の風景がグラデーションを描いて変化する様子を見ることができて大満足でした。

 

ところがその1週間ほど後に、母の面会に行く途中で見た別の地域では、ようやく田んぼに水を入れ始めるくらいの時期でした。

たしかそのあたりでは、8月の終わりから9月初めには収穫が始まっていたような記憶があります。

 

水田と一口に言っても、日本各地で本当にさまざまな時期や方法があるのですね。

小学生の頃、「東北は寒いので一期作、関西などでは温かい気候を利用して二期作が行われる」と習ったような気がするのですが、それは半世紀前の稲作だったのでした。

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら

散歩をする 134 ひたすら川と海を見に〜東北編〜

40年ほど前に、北海道へ旅行したときに東北を通過しました。

早朝に青森に着き、青函連絡船で北海道へ渡りました。夜行列車で真っ暗な中、文字通り通過しただけで、途中の東北の風景は見ることができませんでした。

 

那須あたりが私が行った本州の北限だったので、八郎潟に行くにあたり、どこを通って行こうか毎日のように地図を眺めてはワクワクしていました。

 

朝一番の秋田新幹線に乗れば、なんと10時半過ぎには秋田に着くようです。

そこから八郎潟を周り、日本海を眺めながら酒田市で一泊。

その後、また日本海沿いに村上市周辺を見て、最後は新潟へ。

新潟からは上越新幹線で帰宅するという大まかな計画ができました。

 

すごいですね。これだけの距離、しかも海岸沿いや山の厳しい地形がたくさんありそうな場所なのに、一泊2日で見てまわることができるのも鉄道網のおかげです。

 

それから最近は各地の長期天気予報を確認できるので、天候を予測しながら予約を入れました。

おかげで2日間とも晴天に恵まれて、空も海も川も真っ青で、新緑が映えた素晴らしい景色になりました。

 

そしてまた川をいくつ通過するのか、行く前に地図を見ながら書き出してみましたが、あまりに水色の線が多くて途中で断念。

一級河川二級河川ぐらいの川だけでも、50以上になりました。

そして東北の場合、たとえば阿武隈川北上川など、同じ川をなんども越えることに驚きました。

東海道・山陽新幹線沿線や 紀伊半島の川とは、流れ方が違うようです。

 

車窓から見る東北各地の風景は、想像をはるかに超え、落ち着いて美しいものでした。 

しばらく旅の思い出話が続きそうです。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

記録のあれこれ  33 八郎潟と戦後賠償

戦後賠償という言葉を間近に感じたのは1980年代で、当時、働いていた東南アジアのある国に「日本との友好道路」という別名があるハイウエイがありました。

「あなたのお父さんやおじいさんはあの太平洋戦争の時代に何をしていたのか」と私に尋ねてきたその国の人たちも、もちろんその道路建設の経緯を知っていました。

 

1990年代初頭に再びその国を行き来するようになったのは、こちらの記事に書いたように、たまたま住んでいた地域に日本の無償援助による漁港建設計画があり、地元の漁師さんたちがその影響を危惧していたことがきっかけでした。

その頃、政府開発援助について調査をしていた村井吉敬氏と出会って、元々は政府開発援助が戦後賠償から始まっていることを知りました。

 

自分の国にあるあの美しい水田風景もまた戦後賠償のひとつであったとは、不意をつかれた感じでした。

日本の戦後賠償というのは、日本側から相手国側へ資金や物資、技術などを供与するものだと思い込んでしたのでした。

Wikipedia日本の戦後賠償と戦後補償に「戦後賠償」の定義が書かれています。

戦後賠償とは、戦争行為が原因で交戦国に生じた損失・損害の賠償として金品、役務、生産物などを提供すること。通常は講和条約において敗戦国が戦勝国に対して支払う賠償金のことを指し、国際戦争法規に違反した行為(戦争犯罪)に対する損害賠償に限らない。

 

 

Wikipedia八郎潟の「歴史」の以下の箇所をなんども読み返しました。

第二次世界大戦後、食糧難および働き口のない農家の次男・三男が増加している問題の解決を目的として、干拓の先進国であるオランダから技術協力を受け、20年の歳月と約852億円の費用を投じて役17,000haの干拓地が造成された。この事業は、サンフランシスコ講和条約にオランダを批准させるため、賠償金の代わりにオランダへ技術協力費を支払いうる大規模事業をアメリカから求められていた吉田茂に対し、建設省の住宅局職員の下川辺淳(後の国土事務次官)が提案したものだった。 

 

最初に読んだ時には、「食糧難および働き口のない農家の・・・」という日本側の問題にまず目が行きました。何度か読み直すうちに、「サンフランシスコ講和条約にオランダを批准させるため」という箇所が八郎潟の歴史の原点なのではないかと思えるようになってきました。

後世でそれを批判するのは簡単だけれど、当時、関わった人たちは国を超えて人智を尽くしたものだったのかもしれませんね。

 

八郎潟ができて半世紀。

そろそろその全体像が研究された一冊が出ないかなと心待ちにしています。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

米のあれこれ  8 八郎潟

八郎潟干拓について、小学生の頃に社会科で習った記憶が強く残っています。

そのころは、祖父の田んぼが干拓によって作られた地域だったとは全く考えたこともなく、日本で初めての干拓地が八郎潟であるかのような理解をしていました。

それぐらい、当時は国をあげての大規模な農業事業だったのかもしれません。

 

昨年、倉敷の干拓の歴史を実際に見てみようと訪れた時から、いつかは八郎潟もこの目で見てみたいと思っていましたが、地図を眺めてはちょっと遠いなあとため息をついていました。

 

で、先日、行ってみました。

 

用水路や干拓地を見て歩くのもそろそろシーズンオフかなあと思っていた時に、ふと東北に行こうと閃いたのでした。春の訪れが少しゆっくりそうですからね。

目の前に広がる広大な水田地帯は、ちょうど田植えが始まったばかりでした。

車で行けども行けども、ずっとまっすぐな道が続いていました。

はるかに見える雪の残った山だけが、唯一位置を確認する手段でした。

 

用水路や排水路もまっすぐ続き滔々と水が流れていて、広い調整湖は倉敷の児島湾と同じく真っ青に水を湛えていました。

 

*周囲からは見えない八郎潟

 

これまでも干拓地を歩いてきたので、八郎潟駅までの奥羽本線の車窓からも八郎潟が見えるだろうと思っていました。たとえば印旛沼利根川流域のように、対岸まで見渡せるような平地を想像していました。

ところが八郎潟は調整池までは車窓からも見えるのですが、その先は土手で遮られていて、イメージしていたような水田が広がる景色ではありません。

 

よくよく「大潟村旬景浪漫」という観光パンフレットを見直すと、大潟村は海抜マイナス4mになっていて、日本海よりもかなり低い場所に造られているようです。

そしてその周囲をぐるりと、日本海よりも高い位置で残存湖の水位が保たれているようでした。

八郎潟干拓地に入ると、途中、「大潟富士」というランドマークがあって、「高さは富士山の標高の千分の一に当たる3.776メートル、頂上がちょうど海抜ゼロメートル」とありました。

 

八郎潟の歴史*

 

観光パンフレットには、「大潟村の誕生」とまとめられています。

 かつての八郎潟は、琵琶湖につぐ日本第2の広さを誇る湖でした。1954年(昭和29年)にオランダのヤンセン教授とフォルカー技師の来日を契機として、同年の世界銀行および翌年の国際連合食料産業機構(FAO)調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められました。

 20年に及ぶ歳月と総事業費852億円の巨費を投じて世紀の干拓事業は、1977年(昭和52年)3月に完了し、八郎潟の湖底は17,239haの新生の大地に生まれ変わりました。                     

 

たしかに明治時代には  リンド技師をはじめ外国からの技術を多く得てきたのですが、干拓に関しては江戸時代から新田干拓も盛んでしたし、終戦直後には私の祖父も技術者として中南米へいく話もあったぐらい干拓技術のある日本なのに、なぜ戦後オランダの技術者を招いたのでしょうか。

 

帰宅してからWikipedia八郎潟を読み直したら、「歴史」に書かれていました。

小規模な干拓は、江戸時代から行われていた。明治時代に入り、大規模な干拓計画がいくつか持ち上がったが、実現には至らなかった。第二次世界大戦後、食糧増産および働き口のない農家の次男・三男が増加している問題の解決を目的として、干拓の先進国であるオランダから技術協力を受け、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。この事業は、サンフランシスコ講和条約にオランダを批准させるため、賠償金の代わりにオランダへ技術協力費を支払い得る大規模事業をアメリカから求められていた吉田茂に対し、建設省住宅局職員の下河辺淳(後の国土事務次官)が提案したものだった。 

 

こういう形の戦争賠償と戦後補償があったのですね。

 

私が生まれた頃に着工し、小学生の頃には日本の農業の希望のように学んだ八郎潟でした。

その後、減反政策などでどうなっているのだろうと気になっていましたが、半世紀を経て目の前に広がる水田地帯は美しい風景でした。

桜と菜の花ロードは、少し前まで観光客で渋滞になるほど賑わっていたそうです。

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら