存在する 30 顔写真は必要か?

自分証明する必要がある場合写真付きの運転免許証を利用してきました。

健康保険証でもよい場合でも、「顔写真がある」という一点で誰から強制されるわけでもなくこれが一番他の人に「自分であることを確認してもらいやすい」と思っていました。

 

最近は、本当に顔写真がその人を証明できるのだろうかという疑問について考えています。

 

というのも、杖をついてようやく歩けていた母をタクシーに乗せて写真屋さんや市役所をまわりマイナンバーカードを作ったのですが、数年もしないうちに人生の最期を迎えました。

1年半ほどは新型コロナのために面会ができなかったのですが、少し感染の波が落ち着いた時に、施設の方が「他の病院への受診に同行する」という名目で母に会う機会を作ってくださいました。

久しぶりに会った母は一瞬別人かと思うほどの変わり方で、高齢者の時間というのはこんなに顔を変えてしまうものなのですね。

 

顔写真がその人を証明できるのは、人相が変わるほどのことがない限られた期間だと思うようになりました。

 

 

*顔写真を証明に使う意味は?*

 

人相が変わるというのは、生まれた直後からも刻々と変わっていますね。

赤ちゃんたちは、1ヶ月健診ではもう全く別人です。

親戚の子どもたちには1年も会わないと、道ですれ違っても気づかないかもしれないと思う変化です。

 

あるいは30年ほど前には考えられなかったほどの美容整形の広がりや化粧方法の変化で、まったく違う顔になることも普通になっていますから、もはや「写真付きのカード」は本人の証明にもならないかもしれませんね。

 

そして大事なことですが、人によっては顔写真というのはとても辛いこともあると思います。

その辛さを自分の証明にしなければいけない、作ることを義務付けられるというのはどうなのでしょうか。

 

「写真付きのマイナンバーカード」ではなく、個人の識別番号だけで十分ではないかと思うのですが。

 

 

*顔写真もマイナンバーの提示もなかったのに連続した情報になった*

 

ところで、新型コロナワクチンの一回目と二回目は職場での接種だったので住んでいる場所ではありませんでした。

三回目からは自治体での接種になり接種券が送られてきましが、そこには一回目と二回目の接種記録がありました。

 

すごい、「〇〇に住んでいる△△は、いついつどのワクチンを接種した」と把握されて、情報が自治体を越えて共有されているのですね。

未曾有の混乱の時期に、安心感を感じました。

ただ、マイナンバーを記載した記憶もないので行政内ではそれなりに把握するシステムがあるということでしょうか。

 

自分を何で証明するのか、そして何のために証明するのか。

顔写真は必須ではないのではないか。

万人に全ての必要性を網羅したカードは、そもそも存在しないのではないか。

 

ちょっともやもやと考え続けています。

 

 

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マイナンバーとマイナンバーカードについての記事のまとめはこちら

 

 

落ち着いた街 24 路面電車の延伸計画がある

熊本市の地図を眺めていると、路面電車があることがすぐにわかりました。

通常の鉄道とは違い幹線道路の上にあるので、ところどころ直角に曲がるように描かれています。

 

もし雨脚が強くなったら路面電車に乗って往復するだけでもいいかと思っていました。

半世紀以上前の子どもの頃に、池袋のあたりだったと思うのですが路面電車に乗る機会が時々あったのであの雰囲気が今でも好きです。

ですから遠出先で路面電車がある地域ではできるだけ乗るように計画しています。

 

水道町でバスを降り、白川を越えて停留所へと向かいました。

その間にもあのガラガラと独特の走行音をさせながら、市電が走っていきました。

新しい車両と古い車両と、デザインもいろいろです。「子どもの頃に乗ったような車両に当たりますように」と思いながら待っていると、大当たりでした。

黒光した年季の入った木の床で、窓もえいッと思いっきり力入れる必要がありそうなもので、手すりも運転席も吊り革も半世紀前にふと戻った気分です。エアコンではなく天井の扇風機でした。

Wikipediaの説明を見ると1200型のようで、1958年ごろに造られた車体でしょうか。

 

九品寺交差点から水前寺公園前までのわずかの区間でしたが、路面電車からの風景は格別ですね。

 

 

*大正時代に運行が始まる*

 

Wikipediaでは「明治末期より大日本軌道が運行されていたが、蒸気軌道のため評判はよくなかった」と書かれていますが、明治時代には「機関車からの飛び火による沿線火災や小火が多発」していたことを最近になって知りました。

市民から電車化の要望が出てくるようになり、市当局では1917年(大正6年)に「電車期成会」を結成し、翌年には同じ九州で当時既に電車が運行されていた福岡、長崎、久留米、鹿児島の各都市へ視察団を派遣した。こうした結果を踏まえ、熊本市では大日本軌道と電車化についての交渉をすることとなった。

 

その後、不況で計画は中断したものの、1924年大正13年)に開通した歴史があるようです。

電化への社会の熱い雰囲気が動かしたのでしょうか。

 

それにしても江戸時代には考え付かないような蒸気機関車が明治時代にできたことだけでもすごい変化なのに、1882年(明治15年)に「市民がはじめて電灯を目にした」そのわずか35年後には「電車化」を求めるようになるのですから驚異的な変化の時代ですね。

 

そして技術的なことだけでなく、同じ目標に向かって結束して活動するという意識が社会の中にどのように広がったのでしょうか。

 

 

*存続が決議されただけでなく、なお延伸計画がある*

 

戦後はさらに自動車が大きく社会の構造を変え、電化期成同盟によってようやく電化が実現したものの、鉄道自体の存続が難しくなった七尾線のように各地で鉄道の存続が難しい時代になりました。

 

熊本市電も廃止の動きがあったようです。

熊本市電は、2014年(平成26年)時点で5路線2系統が存続しているが、かつては全線を廃止する計画があった。熊本市電は1960年代(昭和35-44年)頃から他都市の路面電車と同じく採算悪化に悩まされ、5路線2系統を残して廃止された。

さらに残る5路線2系統についても1980年(昭和55年)前後をめどに廃止し、代替としてモノレールを建設する構想もあったが、市民から存続を求める声が上がったことや、オイルショックによる車依存の見直し等により、熊本市議会により存続が決議された。

(「全面廃止計画」)

 

40年前の決議のおかげで、私も懐かしい雰囲気の市電を堪能できました。

でもどこも鉄道の存続は厳しい雰囲気の昨今ですから、いつまでこの風景があるのだろうとWikipediaを読み進めていくと、「熊本市は、2016年(平成28年)9月9日までに、市電の延伸を検討しているいくつかの計画路線」と書かれていました。

 

住民の声を聞き、同じ目標に向かって結束していくような社会の雰囲気が作られているのでしょうか。

半世紀とか一世紀とか、時間をかけたものが続いているようなそんな印象を受ける街でした。

 

 

*おまけ*

 

水道町停留場に「なぜ水道町なのか」の答えがありました。

駅名の地名にちなむ。江戸時代は武家屋敷であったため町名はなかったが明治時代に名付けられた。白川(三宮神社横の小磧(おぜき))から坪井川厩橋)まで水道が掘られており、ここでL字型に曲がっていたことにちなむ。

 

 

 

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行間を読む 168 轡塘(くつわども)

引堤を検索していたら、今日のタイトルの言葉に出会いました。

 

読み仮名がなければなんと読むのかも皆目見当がつかないのですが、「塘」については3ヶ月ほど前に弘前市の寺沢川についてミルラさんからいただいたコメントで、「つつみ」とも読み「堤防や土手のこと」と知ったので、治水に関係しそうな漢字だとイメージできました。

 

加藤清正による洪水制御法「轡塘」についてー浜戸川島田地先の轡塘を事例としてー」(大本照憲氏・矢北孝一氏)という、「土木史研究 第21号 2001年5月」の論文が公開されていました。

専門的なことは全くわからないのですが、「はじめに」を読むだけでなんだかまた世界が広がるような気持ちになったので書き留めておこうと思います。

 

 『明治以前日本土木史』によれば、乗越堤を日本で本格的に採用したのは加藤清正が最初であることを示唆しているが、乗越堤にも増して清正独特の洪水制御工法として注目すべきものに轡塘(くつわども)がある。轡塘は、川の一部区間を大きく拡幅させ、異常洪水時にはこの拡幅部に河道内遊水池としての機能を持たせたことが予想されているが、その流水制御機能について実証的研究はなされておらず、不明な点が多い。

 古文書によれば、轡塘は近世における肥後河川に対して一般的に用いられた洪水制御法であることが記されてあり、最も著名な物として緑川と御船川の合流部に築堤された桑鶴の轡塘がある。また、『明治以前日本土木史』には菊池川沿いの高瀬町(現玉名市)大橋より下流8ヶ所に轡塘があったとされているが、現在は全て撤去されており、場所の確認はされていない。

 比較的保存状態が良いものに浜戸川島田地先の轡塘がある。緑川の支流である浜戸川流域は、江戸時代には下流域で湾曲が甚だしく、勾配が緩慢で水位が12尺(3.6m)以上に達すると越水、破堤を繰り返す治水安全度の低い地帯であったことが記されている。そのため、文久2年(1862)に両岸の堤防を堅牢に修築したのであったが、同年の洪水により数十ヶ所において破損を生じた。そのため、当時廻江郷の総庄屋である石坂偵之助および取締役甲斐甚九郎は、治水策を案じ水位10尺(3m)に達すれば越水可能な石造乗越堤を3ヶ所設けたとされている。以上のように、肥後熊本では江戸時代を通じて轡塘を多用していたことは文献等から推察され、現存する桑鶴の轡塘や島田地先の轡塘は貴重な遺構であり、また轡塘内の遊水池は生物の生息環境として良好な場所ともなっている。

 肥後伝統的河川工法である轡塘を、歴史学的考察に加えて河川工学的立場から実証的な機能評価を行うことは、今後の河道計画に活かす上でも、また遺構の価値を将来に伝承する上からも重要な事であると考えられる。

 本論文では、菊池川、緑川および浜戸川における轡塘の歴史的経緯を調査するとともに、浜戸川島田地先の轡塘を事例として、轡塘の治水機能を検証するために縮尺1/150の水理模型実験を実施し、轡塘による流れおよび流砂の制御機能について検討を行った。

 

 

なぜ世界が広がったような気持ちになってこの「はじめに」に引きつけられたのだろうと考えていたのですが、まずあの加瀬川、緑川と浜戸川が流れこむあの複雑な水色の場所の治水の歴史が言及されていたからでした。

 

そして加藤清正というと戦国時代の武将くらいしか思い浮かばなかったのですが、その時代の治水利水とつながると俄然、その人物にも関心が出てきました。

「明治以前日本土木史」という資料があるようで、日本史を土木史から学び直したら見えてくるものが違ってくるかもしれない。知識というのはいろいろな方向があるものですね。

 

さらに、その緑川に御船川が合流する場所には桑塘が遺っているようです。

地図ではなんの変哲もない川合に見えますが、有体に言えば「一つとして同じ川合はない」とでもいうのでしょうか。

そこを歩いてみたくなりました。困りましたねぇ。

 

もう一つ、この文章の中には「失敗」も記録されていたことです。

文久2年(1862)に両岸の堤防を堅牢に修築したのであったが、同年の洪水により数十ヶ所において破堤を生じた。

 

放水路の完成を待たずして狩野川台風の被害が起きたことや二度の大津波の後に強固な堤防が造られたもののそれも飲み込むような津波に襲われた田老など、無念の一言では言い尽くせない災害の歴史があちこちに残っていることを知る機会が増えました。

 

とうてい人の力には及ばないことに立ち向かい、少しでも安全に生きる場所を作る。

「失敗」というのはその試行錯誤の過程とでもいうのでしょうか。

 

数百年前の人には水害はどのように目に映ったのでしょう。

そこから「轡堤」という発想がどのように出てきたのでしょうか。

 

 

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行間を読む 167 茶屋地区の引堤(ひきてい)

テレビからもうひとつ水害関係のニュースがあり、「熊本水害から2年、茶屋地区、子安地蔵、引堤という治水で茶屋地区が沈む」と散歩のメモに記録を残していました。

 

国土交通省の「河川用語集〜川のことば〜」によると、「川の流下能力を大きくするため、川の幅を拡大し既設の堤防を堤内地側に移動させることを引堤といいます」と書かれています。

 

「茶屋地区」で検索すると1年前に放送された「熊本豪雨から1年 ふるさとを失った女性が伝える災害の教訓」(「U-doki」、UMKテレビ宮崎、2021年7月10日放送)がありました。

球磨村の茶屋地区では約30軒あった住宅がほとんど球磨川の氾濫で流され、昨年、「大規模な治水対策として、かつて住宅が並んでいた茶屋地区周辺まで川幅を広げる計画を示した」ようです。

 

「茶屋地区」はどこだろうと地図で確認すると、人吉市の盆地のような場所から球磨川が狭い山あいに入ってすぐのところでしょうか。JR肥薩線渡駅那良口駅の間あたりのようです。

そこから今回断念した八代(やつしろ)市の干拓地へと急に平野部が広がるあの遥拝堰のあたりまで、地図では球磨川はずっと山あいを流れています。

 

近くにはキャンプ場も河原にあるようなので、ずっと川のすぐそばで暮らしが営まれてきた場所だろうかと想像しました。

あの豪雨がなければ、2年前に肥薩線の車窓からその風景を見る予定でした。

 

 

「引堤」

初めて知る言葉ですが、よくよく考えればいくつもの暴れ川を付け替えてきた関東平野は引堤の歴史の上に成り立っているという感じでしょうか。

時には水の神様もお引っ越しして川幅が広げられ、堤防が作られてきたのですね。

 

川面を眺めてぼっと過ごせる場所がたくさんあるのもそういう歴史の積み重ねでもあり、何かを失い何かを得るための葛藤の跡がそれぞれの場所にある、「引堤」という言葉から今まで歩いたさまざまな場所を思い出しました。

 

 

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水のあれこれ  268 梅雨前線と湿舌

線状降水帯に逆らうようなスケージュールだった三泊四日の九州の散歩の最後の宿泊地は熊本で、ホテルの窓から坪井川の流れが見えました。

あの身の危険を感じた土砂降りが嘘のように雨があがり、青空が映える川面を窓から眺めました。

 

帰宅してからこの坪井川加藤清正時代の治水対策のひとつであったことを知りました。

あの時は雨の中を歩いた後で疲労困憊でしたが、もっと欲張って歩いてみればよかったのにと今になって後悔することがたくさんです。

 

ホテルでテレビを観ていたら、水俣土石流災害から19年というニュースがありました。

水俣市では当時、梅雨前線・湿舌の影響で、1時間雨量72mm(アメダス熊本県設置の深川雨量計では121mm)を記録するなど激しい豪雨であった。大規模な土石流は、市内の深川新屋敷地区と宝川内集地区の2箇所で発生し、19人が死亡、7人が負傷した。避難勧告の発令は遅れ、土石流が起きた後になって発令された。物的被害は県下50市町村で176億円に及んだ。

水俣市は、被害の反省・教訓を後世に伝えようと、「平成15年水俣土石流災害記録誌〜災害の教訓を伝えるために〜」と題する記録誌を作成している。

なお、土石流災害前後の7月18日から20日にかけて、九州では梅雨前線の影響で集中豪雨となっており、熊本県、鹿児島県、福岡県、長崎県の4県で合計23人が死亡している。

 

2003年(平成15年)に19人もの方が亡くなった災害が起きていたようですが、当時のニュースの記憶がありません。

2000年代に入り、ゲリラ豪雨という言葉とともに「こんなことが起こるのか」という水害がぼちぼちと都内でも増えてきた時期ではありましたが、長いこと大きな水害に遭遇することもなかったので私自身の危機感も少なかったのだと思い返しています。

 

今年はたまたま梅雨明けが6月だったので、例年に比べれば雨量の少ない7月中旬に九州を訪ねたのですが、それでもすごい雨に圧倒されたのでした。

 

 

*湿舌(しつぜつ)とは*

 

水俣市土石流災害を読んで、「湿舌」という言葉を初めて目にしました。

 

梅雨前線の場合は前線の南側が広く暖湿流に覆われるが、低気圧の通過などに伴って狭い領域に暖湿流が流れ込み、梅雨前線を刺激して活発化させ、猛烈な集中豪雨をもたらすことがある。梅雨前線付近で発生することが多いが、それ以外のこともある。

 

地上付近から上空約7km付近までの高度では、湿舌が侵入すると水蒸気と対流のエネルギーを供給して、積乱雲の成長を促す。これが狭い領域で起こると、雨が短時間に大量にしかも狭い範囲にできて、それが一気に降り集中豪雨となる。

 

湿舌による集中豪雨は、湿舌だけではなく、対流を促進する地形と風のコンディション、上空の寒気や乾燥の程度なども影響する。

Wikipedia「暖湿流」

 

夏の空に積乱雲が出来始めて変化したり、雷雨になりそうな雲行きを眺めるのがけっこう好きなのですが、その現象をどのように言葉で表現できるのだろうというあたりでいつもつまづいています。

「もくもくと雲が集まり始める」とか「真っ黒い雲が」ぐらいで自分の語彙力の少なさが情けないと思いつつ、気象の基礎知識もないので仕方ないですね。

 

同じように空を眺めても、こんな言語で表現できるのが専門の方々ですね。

 

私にはとてもとても、梅雨空を眺めても「湿舌」が見えそうにはありません。

水がさまざまな状態に変化して起こす現象を、どうやって突き止めたのでしょうか。

すごい世界ですね。

 

 

 

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記録のあれこれ 130 記録魔

ブログの中で「記録魔」という言葉を初めて使ったのは2015年に母のことを書いたこの記事でした。

 

できるだけモノローグにならないようにと手帳にその日の行動や仕事について記録したものと分娩記録ノートを日記代わりにしていましたが、ブログを書くために思いついたことをメモすることが増えました。そのメモが文章になり、地図が好きなのも母譲りですが、なんでも記録するのも母譲りだったのだと認識しました。

 

その後あちこちを散歩するようになり、その途中でiPhoneのメモと写真で記録し、どこに行ったかを全てカレンダーと手帳に記録にするようになりました。

最初はもう少し簡単なメモだったのですが、最近は乗車時間や気温まで記録するようになりました。

いい加減な記憶のままブログに何かを書かないためでもあり、正確に記録する訓練になっています。

 

ただ残念ながら、「記録魔」という言葉をいつどんな機会に覚えたのかの記憶と記録がありません。

人生の全てを記録するのは不可能ですね。

 

「記録魔」という言葉は世間では使われているのだろうかと検索したらありましたが、「メモ魔」としての説明でした。

どんなことでも書き留める習慣のある人 (デジタル大辞泉

思い浮かんだことや見聞きしたことをなんでもメモしておかなければ気が済まない人 (Wiktionary日本語版)

 

あまり突き進みすぎると忘れることへの不安からの脅迫的な行動になりそうですが、やはりある程度は正確に日々の生活を記録しておくことは大事だと思うことが増えました。

社会の動きが辻褄が合っているかどうか、見極めるために役に立つかもしれませんからね。

 

 

 

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水のあれこれ 267 白川流域かんがい用水群

まさか目の前が白く煙るほどの大雨になるとは思わずに念願の水前寺公園に向かって市電に乗った時、車内に貼ってあった「白川流域かんがい用水群」のポスターが目に入りました。

 

さすが水の国熊本ですね。

「かんがい用水群」の言葉に惹かれたのですが、今回は日程的に無理そうです。

 

帰宅して検索したら、「世界かんがい施設遺産 白川流域かんがい用水群[熊本県熊本市菊陽町大津町]」(おおきく土地改良区)がありました。

■約400年前、加藤清正や歴代細川家の手によって「上井出用水」、「下井出用水」、「馬場楠井井出用水」、「渡鹿用水」が築造され、約1,800haの新田が生まれた。

 

■流況が不安定な白川流域において利水(平常時の効率的な用水取水)と治水(洪水流域の排水)を両立させるため、「斜め堰」が設けられた(渡鹿用水に現存する)。

 

■用水群の築造と新田開発により大規模な地下水の流れを伴う地域水循環が形成された。白川中流域の水田で涵養される地下水資源は、熊本地域の約100万人の生活を支えている。

 

■当時の最先端技術によるこれら施設は、地域の自主的な維持管理もあって、度重なる災害にもかかわらず、機能を失うことなく現在も利用されている。

 

その「土砂堆積抑制の機能を持つ「鼻ぐり井出」(馬場楠井手用水)」の写真を見て、ブラタモリ「#35 水の国・熊本」で観た記憶とつながりました。

 

 

*「白川について」より*

 

国土交通省九州地方整備局熊本河川国道事務所のホームページに、「白川の歴史」がありました。

加藤清正〜国づくり川づくりの偉業

豊臣秀吉子飼の武将で数々の武勇伝で知られる加藤清正が、佐々成政のあとを受けて肥後北半国の領主として入国したのは1588年(天正16年)のことです。それまでの肥後は長らく多数の国衆が群雄割拠した状態でまとまりが無く、大規模な国づくりがなされていませんでした。特に、白川、緑川、菊池川といった大河川が多いのに河川整備は手つかずの状況で、大雨による河川の氾濫が頻発し領民は苦しんでいました。

 

清正は入国後大がかりな領地整備に着手します。新しく熊本城を築城し、城下町の防御及び洪水被害から守るため、坪井川と白川を切り離すなど大幅な改修を行いました。また坪井川を城下町と他地域を結ぶ舟運行路として整備するとともに、領内の多くの川で利水堰を設けかんがい用水を確保することで水田を大幅に開発しました。このように清正は、優れた武将であっただけでなく、後々まで「土木の神様」「せいしょこさん」として民衆から慕われました。

 

熊本駅のそばで坪井川と白川が並走したような場所があるのはそういう歴史だったのですね。

 

細川治世の治水利水

1611年、清正の逝去を受け子の忠弘が家督を継ぎ、その後1632年に加藤家に代わり細川家が肥後藩主となってからも清正の川づくりの意思は引き継がれ、瀬田上井手は細川忠利が完成させました。また赤瀬堰、細井手、津久礼井手、保木下井手、琵琶首井手などが整備され、かんがいが行われました。

 

その「近代治水事業の始まり」には現在の治水利水施設が紹介されています。

 

ぐるりと全てを見てみたい。

帰ってからも熊本の妄想の旅が続いているのですが、公共交通機関だけでは無理そうです。

熊本の世界かんがい施設遺産をめぐるツアーとかあったらいいのですけれど。

 

 

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水のあれこれ 266 熊本市の干拓地と水

外を歩き始めると土砂降りになりバスに乗ると雨があがるという熊本市内の散歩で、まだ13時だというのに熊本駅に到着した時には疲労困憊していました。

加瀬川沿いの「鯰地区」をみてみたい、時間があれば坪井川河口と白川河口に挟まれた熊本市西区干拓地のようなところまで足を伸ばしてみようと思っていましたが、時間はあっても気力がなくなりました。

 

まずはご飯だと駅ビル内をひと回りしたら、焼き鯖定食が目に入りました。6月に新潟を訪ねて以来、焼き魚が食べたくてしかたありません。昼間から生ビールを飲み、この日の散歩は終了になりました。

 

美味しい焼き鯖を食べたら少し元気が出て、このまま熊本市内を歩かないのはもったいないと、駅の西側を少しだけ歩きました。平坦なイメージだったのですがすぐに山が迫り、その山の東端に坪井川と白川が近づいている場所があります。その小高いところが切り通しになっていて、鹿児島本線九州新幹線が通っていました。

駅西口は比較的新しい住宅地の印象でしたが、もしかするとこの坪井川と白川が氾濫した時の遊水池的な場所だったのかもしれない、熊本城下と熊本駅が離れている理由かもしれないと思えたのですが事実は如何に。

 

 

*「熊本市南地区の紹介」より*

 

熊本を訪ねる計画が現実味を帯びてきた頃からどこを歩くか地図を眺めて続けましたが、熊本市の沿岸もまた干拓地で水田が広がっていることを知りました。

 

熊本は湧水に恵まれた水の国というイメージでしたが、その水はどこへ行くのだろうとあまり考えていませんでした。

帰宅してから熊本市内の干拓地について検探したら、水土里ネット熊本市みなみの「熊本市南地区の紹介」がありました。

 

熊本市の概要

九州の中央、熊本県の西北部の位置にあります。

地勢は、金峰山を主峰とする複式火山帯、東部は阿蘇山外輪火山群によってできた丘陵地帯、南部は白川の三角州で形成された低平野からなっています。

気候は、内陸盆地的気象条件となり、寒暖の較差が大きく冬から春への移り変わりは早く、比較的夏は長いです。

熊本市は人口74万人、31.6万世帯、面積は390㎢で、平成24年に全国で20番目の政令指定都市になっています。

市民の水道水源の100%を地下水で賄っている日本一の地下水都市です。清れつで豊富な地下水は、社会活動を営む上でいろいろな用途に利用されております。

 

地勢

本地区は、熊本市中央部の西南13kmに位置し、北に金峰山を望み、東を川尻地区・南を緑川を隔てて富合地区及び宇土市に接し、西は有明海に囲まれています。東西約7.8km、南北約6.5km、標高0.5m~4.5mで傾斜は東寄り西へ(川尻から有明海へ)1/4000の勾配です。

殆どが1284年~1868年にかけて干拓された平坦な純水田地帯です。

熊本平野に包含され、北に白川、中央に千間江湖川・天明新川、南に加瀬川・緑川が流れ、かんがい排水に重要な役目を果たしています。

平坦地帯です。緑川及び白川の上流から流れてきた泥砂の永年の堆積によってできた肥沃な土壌で両河川流域に広がる沖積層からなり、土質は砂壌土から埴土です。

 

地域農業

恵まれた自然環境のもと、都市近郊農業としてメロン・トマト・ナスなどの施設園芸を種とした複合経営が行われています。県内でも屈指の農業地帯として飛躍しています。

施設園芸は、昭和45年にプリンスメロンの導入に始まり、ネット系メロン、ナス・トマトを中心に栽培しています。熊本市の生産量は、ナスが九州1位・全国2位、メロン九州1位・全国3位と有力な産地となっており、関東や関西などの市場に出荷しています。米の栽培はヒヨクもちが約50%、森のくまさんが約50%を占めています。

 

歴史・伝統文化

天明町、飽田町は平成3年2月熊本市と合併しました。400年前から伝わる豊作祈願や雨乞いのための「銭太鼓踊り」は無形民族文化財に指定されています。また、開拓農民が歌っていた「潟いない節」も引き継がれています。

歴史と深いかかわりがある「新開大神宮」と「河尻神社」も南地区に存在します。

新開大神宮は、文安元年(1444年)より続く歴史ある神社で内田町(天明地区)にあります。

明治9年に勃発した「神風連の乱」は、当時の宮司大田黒伴雄氏が首領となって繰り広げられました。

八幡町には、加藤清正公・細川家より鬼門守護神として信仰された河尻神宮があり、秋季例大祭では下り馬や流鏑馬(やぶさめ)など大変賑わいます。

 

自然環境

緑川河口にはヨシ原、有明海は干潟がよく発達し、干満差が日本一大きくて5mもあります。

海苔養殖やアサリ貝等盛んに営まれ、全国でも有数の豊な漁場です。

地下水は、白川中流域などの水田や畑地に置いて、かん養された水です。白川中流域は他地域の水田に比べ5~10倍も水が浸透することがわかっており、熊本地域の重要なかん養域となっていて、地下には地下水プールといわれる地下水を蓄える巨大な水がめがあります。

ここで蓄えられた豊富な水は、小さな穴や割れ目の多い砥川溶岩と呼ばれる地層を通り、熊本市の水前寺や江津湖周辺で地表に湧き出しています。そのため、農業用水は大阿蘇の湧き水(江津湖)を水源とするため、少雨年でも水不足はなく、かんがい用水には十分恵まれています。

(強調は引用者による)

 

やはり熊本は「水の国」ですね。

 

「地下水保全下流連携活動事業」という図が載っていて、熊本市内への水の流れがまとめられていました。

 

その図を眺めていたら、「せい烈で豊富な地下水」と干拓地を歩きたくなってきました。

なかなか遠いと思っていた熊本ですが、行ってみたら近いような気がしてきました。困りましたね。

 

 

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水の神様を訪ねる 65 水神さんと鵜渡堰(うとせき)

水の神様だろうと勝手に思い込んだ水前寺成趣園の出水神社でしたが、成趣園を出てその南西を流れる水路に沿って歩いていると橋のたもとに小さな祠があり、「水前寺・出水・江津・札所100ヶ所巡り」という案内がありました。

 

6番札所  水神さんと鵜渡堰記念碑

 

昭和5年、当地は出水村字門前という地名であった。

当時の村長であった久野清蔵さんは有志と共に、豊富な湧水を利用して農業の発展と食料確保を目的として、村と田畑に水を送る為の堰と洗濯場を作り、併せて水の恵みに感謝し水害や水の事故から村民を守るために水神様をお造りになった。

以来、地元の人々は先人の偉業を讃え、子々孫々に伝えるために毎年8月1日に水神様祭を執り行っている。

尚、鵜渡橋(うとばし)を境にして上流を藻器堀(しょうけぼり)川、藻器川を加瀬川の源流とする。

 

説明板がなければ見過ごしていた小さな木造の祠と堰でしたが、92年前につくられた水神様でした。

 

*藻器堀川を地図でたどる*

 

2年以上前からこの水前寺成趣園のあたりを訪ねる計画を立てて、この水路はどこにつながっているのだろうと地図で辿っていました。

 

JR豊肥線水前寺駅の近くで南西から北東へと直角に曲がっているのは、あの車窓から見えた下り坂の地形とつながりましたが、細い流れはずっとずっと続いて途中で白川左岸へ合流する白川の支流と交差する箇所があり、そばに保田窪五丁目公園があります。

さらにまだまだ北東へと水路は描かれて、途中の住宅地で忽然と消えていました。

地図では名前もない水路でしたが川の上に川、川の下に川があるところまで歩いてみたい、水源までたどってみたいと妄想の散歩をしていました。

 

「藻器堀川」というのですね。

とても読めない川の名前ですが、どんな由来があるのでしょうか。

 

そしてちょうどこの立ちどまった場所が加瀬川の境になり、あの下流干拓地へとつながっているようです。

小さな水路でしたが、成趣園の湧水などが流れ込んでじきに川幅が広くなりました。

 

 

「水の恵みに感謝し水害や水の事故から村民を守るために水神様をつくった」

一世紀前の風景はどんな感じだったのでしょう。

 

 

 

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水のあれこれ 265 「土砂降り」ではなかった

水前寺成趣園から江津湖公園まで、危険を感じるような土砂降りの中を歩きましたが、あの日の降水量はどれくらいだろうと検索してみました。

 

「tenki.jp」によると、当日の天気概況は「前線の影響で夜明け前に九州南部で雨脚が強まる。鹿児島県空港で1時間70.0mm。日降水量が200ミリを超える大雨」と書かれていました。

 

熊本県アメダス実況(降水量)」では日積算降水量は25.5mmとなっていて、思ったより少ないことに驚きました。

イメージとしては「100mmぐらいの雨量」の中を歩いた気分ですが、あの歩いた時間帯だけがちょうど激しく降ったのでしょうか。

 

 

*「雨の強さと降り方」*

 

「土砂降り」とはどれくらいの雨かあまり気にしないで使っていたのですが、気象庁の「天気予報等で用いる用語」にその基準が書かれていました。

 

 

「どしゃ降り」というイメージの雨は、具体的には「1時間雨量(mm)」が20以上〜30未満、「予報用語」としては「強い雨」だそうで、「傘をさしていてもぬれる」、屋内だと「寝ている人の半数ぐらいが雨にきづく」、屋外だと「道路が川のようになる」、車に乗っていると「ワイパーを速くしてもみづらい」とされていました。

 

私が経験した「前が見えない」「危険を感じる」ような雨の降り方は、土砂降りよりももっと強い雨の分類のようです。

 

ちなみに「バケツをひっくりかえしたように降る」と感じるのが「強い雨」(30以上〜50未満)で、高速走行時にブレーキが効きにくくなる現象が起きるレベルのようです。

 

「水しぶきであたり一面が白っぽくなり、視界が悪くなる」があの時の状況でしたが、これに相当するのが、「50以上~80未満の非常に激しい雨、滝のように降る(ゴーゴーと降り続く)」と「80以上〜の猛烈な雨、息苦しくなるような圧迫感がある。恐怖を感ずる」のレベルで傘は役に立たなくなり、車の運転は危険となっていました。

 

あの時は息苦しくなるような圧迫感と恐怖を感じ、水しぶきであたり一面が白っぽくなり視界が悪くなったので、「猛烈な雨」だったようです。

時間にすると20分ほどでしたから、日積算降水量には表れない激しい雨もあるのだという経験になりました。

 

さらに雷鳴も轟いていましたから、ちょっと間違えれば本当に危険な状況でした。

これからは雨の予測の中の散歩は、雨宿りができる安全な場所を計画に入れようと思いました。

 

 

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