散歩をする 166 九頭竜湖と九頭竜川

九頭竜川の上流には九頭竜湖ダムがあり、そこまでJR越美北線が通っています。

ところが、九頭竜川の本流はその途中から北西へと流れを変えて、えちぜん鉄道勝山永平寺線に沿って流れています。

計画の最初の段階では、福井駅からJR越美北線でダムのあたりをみて福井駅へ引き返し、次にえちぜん鉄道で終点勝山あたりまでまた一往復して、その本流の全体を見るしかないかと思っていました。そうなると1日がかりになりそうです。

 

何度も地図を眺めているうちに、えちぜん鉄道の終点勝山駅から数キロ上流にたくさんの支流が合流しているように見える場所が気になりだしました。

何とかしてここも見てみたい、でも鉄道だけでは無理でタクシーを使うしかないかと諦めたところ、JR越美北線越前大野駅からえちぜん鉄道勝山駅まで路線バスがあり、ちょうどその合流部の上を通過することを発見しました!

これで同じ路線を往復せずに、4時間ほどでぐるりと九頭竜川に沿ってまわることができそうです。

航空写真で見ると、ちょうどそのあたりは山が途切れて平地が広がっています。

 

もしかしたら、「9頭の竜」のようにたくさんの川が合流する下流域だけでなく、このあたりもまた9頭の竜が暴れまわっていたのかもしれません。

 

さあ、旅の二日目も列車と路線バスの乗り継ぎ時間が少ない分刻みのスケジュールになりそうです。

 

越美北線九頭竜湖へ*

 

朝9時過ぎに出発する九頭竜湖行きの2両編成の列車に乗りました。

駅を出るとじきに水田が広がります。山も近く、本当に美しい風景です。最初に近づいてきた川は九頭竜川支流の足羽川で、越美北線はここからしばらくこの川と何度も交差しながら山の中へと入っていきます。

途中、一条谷駅で数人が降りました。ここがブラタモリで紹介されていたあの一条谷朝倉氏遺跡がある場所のようです。歴史に関心が深い方ならWikipediaを読んだだけでも、その時代を思い浮かべられるのでしょうか。残念ながら私にはよくわからず、ただ、ここもまた美しい水田と用水路、足羽川の豊かな水だけに心を震わせながら通過しました。

 

この辺りから、列車は上り坂で山の中に入ります。

時に地図にも載っていない川や水路があちこちにあり、その多くが石積みの護岸でした。線路脇の防護壁というのでしょうか、それもコンクリートではなく石積みの場所もありました。人の手で積み上げられ、長年、雪や雨に耐えてきたのでしょうか。

 

越前大野駅で列車は切り離され、九頭竜湖までは1両の列車になりました。

平日でしたが数人の乗客がいて、鉄道が好きそうな人の一人旅のようです。

終点九頭竜湖駅からダム本体までは数百mなので見てみたかったのですが、次の列車は4時間後になってしまうので、ほとんどの乗客が私と同じく、いま乗った列車でもどるようでした。

 

越前大野

九頭竜湖駅に到着して9分後に出発する列車で折り返し、越前大野駅で降りてバスに乗りました。

1日に数本しか列車が来ない小さな街を想像していたら、駅周辺も街も整備されて美しい街でした。バスの車窓からはあの掛川に似た印象を受けたのですが、大野市の説明を読むとその理由がわかりました。

市街地はかつての城下町の面影を強く残し、越前の小京都として知られる。

 

ゆっくり歩いてみたいと思う街並みですが、さらに、Wikipediaの以下の部分に引きつけられました。

冬季は市全体が特別豪雪地帯に指定されているほどの降雪量があり、九頭竜ダムなど大規模な人工湖も点在するが、その膨大な水量とは裏腹に名水と謂われる市街地周辺の湧水や河川伏流水は道路などの消雪のためにも汲み上げられ、水不足が懸念されるといった皮肉な状況となるため、河川伏流水を含めた総合的な水利用のあり方を模索している。

雪が多くても水不足になる、虚を突かれるような話です。

 

越前大野から勝山へ*

 

バスは城下町の趣を残す市内を回りながら、いよいよ3kmほど離れた下荒井ダムにさしかかりました。

航空写真ではどれくらいの高さのダムなのかわからなかったのですが、近づいてみてそれほど高くないことがわかりました。そばにある関西電力発電所の取水堰のようです。

下荒井ダムのそばにかかる橋はあっという間に渡ってしまったので、上流から何本もの川が合流している風景も一瞬で過ぎてしまいましたが、地図のあの場所をこの目で確認できました。

 

ここからは九頭竜川を少し離れた水田地帯をバスが走り、再び城下町の雰囲気が感じられる勝山駅が近づいたところで、九頭竜川を渡り、駅に到着しました。

勝山駅昔ながらの風情ある駅で、駅前には恐竜の像があり、遠くの山に銀色に光る建物が見えました。

恐竜博物館がこのあたりにあったことと、初めてつながりました。

 

ここからはえちぜん鉄道で、しばらく九頭竜川本流沿いの風景を見ることができました。

 

九頭竜川をずっと眺めることができたという満ち足りた想いと、一条谷や越前大野、そして勝山といった落ち着いた街に圧倒された旅でした。

あの1970年代ごろの、まだ平日だと人が少なくて鄙びた風情があり静かだった鎌倉から北鎌倉周辺の風景が重なりました。

 

13時過ぎに福井駅に戻り、もうちょっと欲張って見て歩きます。

 

 

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散歩をする 165 鯖江市と 西山公園

九頭竜川河口を見たあと、福井市に近い場所に宿泊しました。

旅の二日目は、九頭竜川の支流と本流を一気にながめる予定です。

 

二日目のスタートは、鯖江です。

鯖江市には、JR鯖江駅福井鉄道の西鯖江駅があって、二つの鉄道が少し離れながら福井まで並走しています。

 

鯖江」という地名も30年ほど前に聞いた記憶があるのですが、もっと京都よりにあったように記憶していたのは、鯖街道と混乱していたようです。

地図で見ると福井市よりも内陸部なのになぜ「鯖」がつくのだろうと興味が湧いたのですが、Wikipediaなどを読んでも答えはわかりませんでした。

現地へ行ってみれば何かわかるかもしれないし、そこには九頭竜川の支流である日野川が西鯖江駅の近くを流れています。

なぜか惹かれるものがあって、ここをスタートに決めました。

 

*予想以上に落ち着いた美しい街だった*

 

Wikipediaの「特産である眼鏡産業」「データーシティ鯖江」といった説明を読むと、最近発展してきた地方都市というイメージですが、歩いて見るともっと歴史が大事に残されている街でした。

 

JR鯖江駅から福井鉄道の西鯖江駅方面へは少しずつ下り坂になっていて、日野川河岸段丘だろうと思われました。

何となく勘を頼りに歩いていると、商店街に「鯖江藩陣屋跡」という説明板があり、その近くに「旧町名 鯖江藩古町、現在 本町2丁目」と表示されていました。

鎌倉時代誠照寺門前町として発展し、江戸時代には間部氏鯖江藩5万石(のち4万石)の鯖江陣屋を中心とした陣屋町となった。(Wikipedia) 

 

商店街の歩道はゆったりとしていて、木で造られたベンチがあちこちにありました。これをみただけで、この街が好きになりそうです。

しばらく歩くと、白壁が続いた大きなお寺がありました。これが誠照寺のようです。

お寺を中心にして、街全体が静かに広がっています。

 

*西山公園*

 

お寺からすぐのところに福井鉄道西鯖江駅が見えてきました。そして想像した通り、その線路の向こう側は小高い場所になっています。

地図で見ると西鯖江駅から福井市方向へは緩やかなS字状の線路が描かれていますから、おそらく丘のような場所の脇を走っているのだろうと思った通りです。

 

そこが西山公園です。

朝8時前でしたが、ゆったりと散歩をする人たちがぼちぼちといました。

 

息が切れるような坂道を登ると展望台があり、鯖江市周辺が一望できます。

日野川の流れは残念ながら堤防に植わった木に遮られて見えませんでしたが、九頭竜川の支流が岐阜県境の山々のあちこちから流れ込む様子がイメージできる場所でした。

四方八方の山の合間から激しい洪水がこの平地に流れ込み、西山公園のように小高い場所の真下でその水がぶつかり合っているようすを想像すると、昔の人には「9頭の竜が荒れ狂う」ように見えたかもしれないと妄想したのでした。

 

西山公園の説明書きがありました。

領民のために大名が庭園を築いたのは、鯖江の「嚮陽渓」、水戸の「偕楽園」、白河の「南湖」などの他にはほとんど例がないと言われています。

鯖江藩7代藩主の間部詮勝が長泉寺山周辺を息の場として造営し、1856年(安政3年)に嚮陽渓(きょうようけい)と命名した」(Wikipedia)と書かれているのは、「領民のための庭園」だったようです。

 

それにしても、今年1月に偕楽園、8月に白河を歩いたことが、ノブレス・オブリージュという点で偶然ですがつながりました。

領民のための庭園が、一世紀後、2世紀後に近代の公園へと発展し、私たちが恩恵を受けている。

 

何となく決めた鯖江でしたが、過去の散歩とつながって満ち足りた時間でした。

 

西鯖江駅から福井駅へ向かう電車は、黄色く色づいた水田の中をまっすぐまっすぐ走り、九頭竜川とその支流が作り出した風景に見入ったのでした。

 

さあ、いよいよ九頭竜湖九頭竜川本流へ向かいます。

 

 

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散歩をする  164 九頭竜川河口へ

永平寺周辺も数日ぐらいかけて見てまわりたいところですが、ここからただひたすら川と海を見る〜北陸編〜の1日目は、分刻みのスケジュールです。

永平寺ライナーで福井駅に戻り、10分後に発車予定のえちぜん鉄道三国芦原線に乗る予定です。バスなので途中少しでも遅れたらとドキドキしましたが、2〜3分の遅れで到着。慣れない駅構内を移動して、なんとか乗ることができました。

 

九頭竜川下流に沿って走っている鉄道ですが、少し川とは離れているので本流は見えず、ただ河口と海を見るのが目的です。

それでも、九頭竜川が作り出した平野に水田地帯が広がっているのを見るだけでも楽しい車窓の風景です。

途中のあわら湯のまち駅の手前ぐらいから、線路はぐいと西側へと曲がります。地図で見ていた時にはどんな場所なのだろうと思っていましたが、次第に右手は小高い場所へと変化し、三国港(みなと)駅のあたりまで続いています。これもまた九頭竜川の作り出した地形でしょうか。

 

九頭竜川河口と三国港突堤

 

三国港駅に降りると、目の前に九頭竜川が滔々と流れています。

三国港があり、その日は風もない穏やかな河口に漁船が何艘も停泊していました。

そこから300mほど歩くと日本海です。夕方になって来たとはいえ、暑い日差しの中、河口まで行くとそこに記念碑が立っていました。

 

二人の石像が埋め込まれた記念碑には、「ヨハニス・デ・レイケ(1842~1913)」「ジョージ・アーノルド・エッセル(1843~1939)」とあります。

ああ、なんとあの木曽三川分流工事で知った、ヨハネス・デ・レーケ氏の名前をこの九頭竜川河口で見るとは。

 

福井県建設技術協会の「三国港突堤(通称:エッセル堤)の紹介」に詳細がありました。

「明治三大築港」として今なお機能しつづける三国港突堤

 

川のはん濫を防いだオランダ人技師G.A.エッセルの偉業

 古くから北前船の交易と九頭竜川の舟運で栄えた三国港は、江戸末期、上流から流れる土砂で毎年のように河口が塞がれ、川のはん濫による洪水と、土砂による船の出入りの阻害に悩まされていました。地元の有力者たちは、県や政府に改修を強く求め、その強い思いに応えた政府は、内務省土木局のオランダ人技師G.A.エッセルを現地に派遣しました。

 エッセルは、オランダでの経験を生かし改修の作成に着手。河口右岸に防波堤と導流堤を兼ねた延長511mの突堤を、左岸には河口のかなり上流までT字型の粗朶水制を設け、河口へ向かって低水路幅を徐々に狭めることにより、洪水の力で土砂を海の深いところへ流すという「阪井港近傍九頭竜川改修計画」を作成しました。

 工事は同じくオランダ人技師のデ・レイケのもとで行われ、明治11年(1878)に着手しました。突堤に使用する岩石は東尋坊一帯から採取し、船で運ばれました。しかし、工事は日本海特有の冬季の荒天と当時流行した伝染病の「コレラ」の蔓延で難航し、また工事費も高騰してしまいました。

 さまざまな困難を乗り越え、明治15年(1882)、突堤と粗朶水制が完成しました。

 

それ以降一世紀半近く、この九頭竜川河口を守って来たのですね。

ほんとうに当時遠く祖国を離れて日本に技術や知識を伝えようとした方々の動機は何だろう、行く先々で出会う名前に、土木技術の歴史をあまりに知らないでいたことを痛感しました。

 

突堤の途中まで歩いて見たかったのですが、次第に海風が強くなりあきらめました。

近くにあった温泉に海を一望できるレストランがあったので、ビールを飲みながら日本海へと少し日が傾きかけていのを眺めました。ここでもまた、方向感覚がおかしくなりながら。

 

夕日を見ながら、東尋坊などの海岸線を回る路線バスでJR芦原(あわら)温泉駅に行き、そこから福井駅へ戻り、1日目の旅が無事に終わりました。

30年前にふと耳にした九頭竜川でしたが、こんなにも満ち足りた旅へといざなってくれたのでした。 

 

*おまけ*

ブラタモリ東尋坊の回でも、さすがにこの突堤までは放送していなかったように思ったので、まとめサイトを読んで見たら、何と「東尋坊から柱状節理を切り崩して運んで来た」ことが放送されていたのに私が見逃していたようです。

次回から、もっと真剣にみようと思いました。

 

 

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境界線のあれこれ 90 泳ぎの境界線

9月5日から15日までロンドンで開催されていた「パラ競泳世界選手権2019」を、NHKが放送していました。

録画したものは全部で数時間以上あるので、今、ぼちぼちと観ているのですが、一旦見始めるとその泳ぎに引き込まれていきそうです。

 

画面右上にある「パラ競泳」の文字がなかったら、水中映像がなかったら、あるいは多様なスタート方法や介助者の姿の映像がなかったら、泳いでいる途中だけの映像を観ていると「世界水泳」の録画かと勘違いしてしまいそうです。

 

水の映像の技術はどんどん進んでいるので、水しぶきの中でもけっこう泳ぎの技術がわかるぐらい鮮明に映ります。

ところが、何がどう障害なのか一瞬わからないほどの抵抗のない泳ぎで、水中映像や解説で初めてわかることもしばしばありました。

独創性のある泳ぎが、泳ぎの究極の目標に近くに書いたように、自分の体の動きと水の抵抗を記憶しながら無駄なことを削ぎ落としていけば自ずとスピードも出て美しいフォームになるのだろうと思いました。

 

記録を見ても、日本選手権の予選、準決勝ぐらいに出場できるのではないかと思う速さでした。

「自分は速い」と思っている「普通」に泳ぎが上手な人たちにそれこそ水をあける記録で、私が通っているプールだったら、もうぶっちぎりの速さです。

 

「抵抗のない泳ぎ」を極めるためには、いかに自分の泳ぎを客観的にイメージできるかが大事なのではないかと思うのですが、心身に障害がなくて自分のことが見えているつもりの思い込みの方が、むしろ泳ぎの障害になるかもしれませんね。

あるいは追い詰められることで精神的に病んだ選手たちは、「障害」ではないのだろうか。

 

そうなると泳ぐための「障害」の境界線って何だろう。

 

今はパラという境界線が必要な、障害者スポーツのあけぼのの時代なのかもしれませんが、何十年かすると同じ競技会で競う時代がくるかもしれないとちょっと妄想してしまいました。

最近、競泳では男女混合リレーとかあって、男女の境界線も変わりましたし。

 

ただひとつ、中には持病の悪化と闘っていらっしゃる選手もいるようですから、記録やメダルのためだけとか、感動のためにパラ競泳に期待しすぎないようにしなければと思いました。

 

水泳が「水」を媒介するが故に、「技術の自由度」が非常に高い種目でもある

その点がパラ競泳ではさらに奥が深くなる。

だからこそ引きこまれていくのだと思います。

 

 

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水のあれこれ 112 永平寺と永平寺川

福井駅に到着したら、その10分後に出発する特急永平寺ライナーというバスに乗りました。

これに乗り遅れたら、九頭竜川流域を2日間で見て歩く計画が全て変更になりますからちょっと焦りましたが、1分の遅れもなく特急は福井駅に到着しました。

このバスを利用すると30分ほどで、永平寺に到着します。

 

父もまたこれを利用したのだろうか、それとも鉄道の勝山永平寺線を利用して永平寺口からバスに乗ったのだろうか。

父が永平寺で修行をした当時のことは母の記憶にあまり残っていなくて、何年だったのか、季節はいつだったのかさえ聞き出せませんでした。

ただわかっていることは、当時、修行していた関東の曹洞宗のお寺から永平寺の修行への話があったことだけです。

定年過ぎて60代頃だったのではないかと思いますが、若いお坊さんたちに混ざって、何を思っていたのだろう。永平寺までの車窓の風景を見て、何を感じていたのだろう。

 

*湧水があちこちからあった*

 

正門から永平寺までの道は石畳で整備されていて、その横を小さな川が流れていました。

修学旅行の時の記憶には全くない川です。

永平寺川だそうで、寺の敷地内の流れは堤防が石造りで、川のすぐそばまで遊歩道があり、周囲の山の風景ともあって、それはそれは美しいものでした。

近くにあった案内図には少し上流に永平寺ダムが書かれていて、そばまで遊歩道があるようです。

 

永平寺の寺内に川があってその上流にダムがあるなんて考えたこともなかったので、先にそちらを見たいと思いました。

平日でも結構な人が参拝していて、ほとんどの人が本堂へと入っていく中、永平寺川に沿って上流へと歩いてみました。

 

山道のあちこちから湧水が滲み出ていて、場所によっては小さな滝になり、山の静寂の中、あちこちから水音が聴こえてきます。

 

案内図ではダムまでそれほど遠くなさそうでしたが、その日は福井県も34℃近い暑さで少し歩いただけで汗が吹き出てきたことと、「熊出没しました」の警告を見て引き返すことにしました。

 

帰宅してからWikipediaの写真を見て驚きました。小さな貯水池ぐらいかと想像していたので。

高さ57メートルの重力式コンクリートダム永平寺および合流先である九頭龍川の治水、永平寺町福井市などへの利水を目的としたダムである。当初永平寺川ダムだったが、管理に移行する際に改名された。同じくダムによって形成された人造湖は水源の大佛寺山より大佛湖と命名された。

「着手年/着工年 1991年/2001年」とありますが、おそらく父が修行をしていた頃です。その時の雰囲気はどんなものだったのだろう、今となっては話を聞くこともできません。

 

永平寺周囲の水の音に来て良かったと思いながら、本堂に入って見ました。

見学者にお坊さんが説明をして、これから本堂の内部の見学に入ることろでした。

時間はあったのですが、ふと、ためらう気持ちが出て来てそのまま私は外へと出ました。

 

「中を見るにはまだまだ準備不足」という声が聞こえて来たような、何か畏れに近い気持ちに突然なったのでした。

厳かな雰囲気に圧倒されたところもありましたが、むしろ白を黒に、黒を白に変えさせられた父世代の世俗の葛藤という点で、生ぬるい自分を突き詰められたような気がしたのでした。

 父は若い頃から自ら進んで座禅を始めたのではなく、終戦直後の精神的に不安定だった状態を家族が見かねてお寺に頼んだことがきっかけだったのですから。

 

 

さて、入り口でいただいたパンフレットの最後に「瓦志納」についてのお願いが書かれていました。

永平寺は非常に雪の深いところです。そのため毎年多くの屋根瓦を取り替えなければなりません。そこで、永平寺では参拝の方々に、瓦修復の御志納をお願いいたしております。 

 

冬に積もった雪が湧き水になり、九頭竜川へ流れ込む。

いつか、雪深い時期にもう一度、永平寺を訪ねてみようかと思いました。

 

 

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散歩をする  163 金沢から福井へ

ただひたすら川と海をみる計画段階で思いついて立ち寄った河北潟でしたが、そこだけでも数日ぐらいかけてじっくり歩いて見たいと思う歴史でした。

残念ですが先を急ぎ、金沢医科大学前から金沢駅行きの特急バスに乗りました。

金沢市街の周辺は、いつの時代かわからないのですが少しずつ河北潟干拓されて人が住むようになった土地のようです。縦横無尽に用水路が張りめぐらされていました。

 

修学旅行で訪ねた40年前は、このあたりはどれくらい人が住んでいたのだろう。

バスの車窓からは新しく建設されている石川県立中央病院やまだ新しい県庁の建物が見え、周辺のお店やビルそして住宅は、富山の黒と白の屋根と壁とはまた違い、このあたりは茶色を基調にして格子が取り入れられているデザインでまとまっていて、それもまた美しい街でした。

余計なものがなく、すっきりとした街並みは、きっと雪にも映えるのだろうなと想像しました。

 

金沢駅からは特急しらさぎ号に乗り、54分で福井に到着です。

地図で見ると、海岸沿いに汽水湖らしき場所がいくつかあるので遠目に見えないかなと期待していましたが、わずかの高低差で見えませんでした。

福井県から石川県のあのなだらかにまっすぐ続く海岸線はどんな地形なのだろうと、地図を眺めているだけでも興味がつきません。

修学旅行では千里浜ドライブウェイを通ったのですが、その少し南側に河北潟砂丘があるなんて考えたこともありませんでした。

 

ああ、また是非行きたい場所の計画が増えていきます。

 

しらさぎ号の車窓には、一瞬たりとも目を離したくない水田地帯の風景が続きます。

途中の小松市では茶色い道路がいくつかあり、消雪パイプが設置されていることがわかりましたが、同じ雪国でも富山や金沢ではあまり茶色い道路が見えなかったので、雪への対応方法も地域ごとにいろいろとあるのでしょうか。

 

あと二駅で福井というあたりから、車窓に顔をつけて今回の目的のひとつ、九頭竜川本流を見逃さないように待っていました。

 

おどろおどろしい名前とは全く印象が異なり、穏やかに水が流れている川でした。

 

いよいよ九頭竜川周辺をまわります。

 

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記憶についてのあれこれ 147 高校の修学旅行

金沢駅に降りた時、あちこちに修学旅行生と思われるグループがいました。

40年前に、私もあんな感じで金沢の街を歩きました。

10月だったので、もっと寒い北陸の記憶でしたが。

 

小学生の時は、修学旅行だか遠足かで上野動物園や国会議事堂などを回る日帰りのバス旅行でした。

中学では一泊二日の奈良・京都で、この時には団体貸切の新幹線に乗りました。同級生と泊りがけの旅行ということで興奮した2日間の記憶が残っているのですが、よくよく考えると、まだ東海道新幹線が開業して10年ぐらいの時期だったので、あの修学旅行で初めて新幹線に乗ったという同級生もけっこういたのかもしれません。

 

高校の修学旅行は二泊三日で、3コースの中から行きたい方面を選択し、そしてさらにグループで事前に計画を立てて現地で自由に行動するという時間もありました。

今も、数人の高校生が地図や資料を片手に行動しているのをみると、懐かしく思い出しています。

高校生にもなると、ちょっと大人の気分ですね。

 

私は部活動の仲間と一緒でしたが、なかなかどのグループにも入れそうにない同級生をどうするかという、「自由」を考え行動する機会も目的の一つだったのかもしれません。

幸いにして、グループ分けが問題になったような話は聞くこともなく、無事出発しました。

ただ、経済的な理由で修学旅行に参加できなかったらしいという同級生がいたことは、記憶に残っています。

 

*どうやって計画を立てたか*

 

国内のガイドブックもあまりない時代でしたし、地図も授業で使うような都道府県と市町村が大まかにわかるくらいのものしかなかったはずですし、今のように電車やバス路線図や時刻表を簡単に検索できるわけではなかったので、あの頃、どうやって自由時間の行動計画をたてたのだろうと、不思議な気持ちになります。

行き当たりばったりで行動したら、集合時間に間に合わなくて大変なことになりますからね。

 

先輩たちが行ったコースの記録や、旅行会社から提供された資料などを参考にしていたのでしょうか。

 

今とは比較にならない情報源で、天気予報も今のように正確に長期予報がわかる時代ではなかったのに、よく無事に旅行をしたものだと、最近遠出をするようになって改めて思います。

 

あの高校生だった私は、北陸を回って何を見たかったのだろう。

その辺りが一番、記憶にないものです。

 

そして、先日金沢駅で見かけた高校生たちは、40年前の私とは違うのだろうか、それともあまり変わらないのだろうか。

高校生の頃の旅行とは何をどれくらい理解できる旅だったのだろうと、おぼつかなさのようなものを感じる反面、あの頃、同級生たちと計画をたてた経験が今どこかに生かされているのかもしれないと、そんなことを常に意識しながらの北陸の旅になりました。

 

 

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数字のあれこれ 54 河童が泳がなくなる温度

秋雨前線で「ひと雨ごとに涼しくなって」のはずが、暑いですね。最近は、10月に入っても30℃以上の日が増えたような印象なので、まだまだ暑い日がありそうですね。

 

昨年の災害と認識する暑さを体験したら、週間天気予報に35℃の日がないと物足りなく感じて、33℃とか34℃なんて平気(なわけないのですが)と思えてきそうなので怖いですね。

 

40年ほど前に住んでいた少し標高の高い地域で28℃で夏バテしていたことを思うと、耐暑性が鍛えられました。まあクーラー無しには無理ですけれど。

 

さて、またいい加減な法則を発見しました。

河童(私)は、33℃以上の日が続くと泳がなくなるようです。

 

一昨年までは真夏の日も、嬉々として泳ぎに行っていました。

一年を通して週に2〜3回は泳いでいるのに、昨年と今年は夏になってむしろ泳がない日が増えました。

歩いているだけで体力を費やしそうで、体力温存という感じです。

 

8月下旬になって32℃以下の日が増えてきたら、また泳ごうという気持ちになってきました。

 

33℃以上になると、生きているだけで大変な温度だと感じます。

けっこういい加減な気温に対する感覚ですが、ヤブツカツクリのように孵化の適切な温度を知っている動物のことを考えると、案外、正確かもしれません。

室内プールは空調が効いているし、水温も上がらないように維持されているのですが、外気温が高いときには無理はしないほうが良さそうです。

 

まあ、河童族もいろいろなので過度の一般化はできないですけれどね。

 

 

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正しさより正確性を 18 「日常ではなかなかやらない動きが特徴」

先日、NHK NEWS WEBで「"危険”なとび箱 どう防ぐ」(2019年9月9日)というニュースがありました。

「年間2万件」。学校の体育の授業の「とび箱」で起きた事故の件数です。 

 

ああ、「もしバランスをくずしたら、手の骨を折るのではないか」という不安は私の精神的弱さではなく、現実に起こりうる不安だったのだと、長年の心に沈んでいた澱が流されていくような気持ちです。

 

「データーで見えてきた実態は」では以下のように書かれています。

先月24日に横浜市で開かれたシンポジウム。「繰り返されるとび箱事故から子どもを守る」がテーマになりました。ここで注目すべき事故の実態が紹介されました。

 

2016年までの3年間で日本スポーツ振興センターが事故で給付した医療費のデータをもとに産業技術総合研究所が分析しました。それによると全国の小中高(高専含む)では体育の授業中に年間21万件以上の事故が発生。

 

運動別では「バスケットボール」が5万1000件で最も多く、次いで「とび箱」が2万600件、そして「サッカー・フットサル」が1万9000件と続きました。

 

 「さらに見ると」に事故発生件数が載っていて、「ここで医療費が7万5000円以上の骨折などの大けがをした運動に限って分類すると小中学校ではとび箱が最も多くを占めたのです」とあり、小学校では事件発生件数の27.39%、中学校では15.77%がとび箱による事故のようです。

小中学生は手首や指を痛めることが最も多く、けがの40%以上が骨折となっています。

 

また2016年度までの10年間でみると骨折で関節が曲がりづらくなるなどの障害が残った事故が27件あったこともわかりました。 

 

私の周囲ではとび箱でケガをしたという話は聞かなかったけれど、広い社会の中ではけっこう事故につながっていることがようやくデーターになってきたようです。

 

*とび箱の動きとは何か*

 

長年、「なぜ私はとび箱が怖いのだろう」と考えつつ言葉にならなかったものが、このニュースで表現されていました。

なぜ事故が多いのでしょうか。とび箱運動に詳しい桐蔭横浜大学スポーツ健康政策学部の松本格之祐 教授は「とび箱は、”両手を前につき、体を前に投げ出す”という日常ではなかなかやらない動作が特徴。体の使い方に慣れていない状態で飛ぶと恐怖心を感じてブレーキをかけ、手に体重がかかる形になったりバランスを崩したりして事故につながることが多いです」と指摘しています。

 

そうなのだ!

身体能力の問題というより、日常ではなかなかやならい動作を求められていることに対し、事故(リスク)をどれだけ考えるかという差なのだと、すっきりしました。

 

プールでの飛び込みもそうですが、日常では求められていない身体能力を発達させるスポーツを子どもに教えることに対しては、上達段階に合わせた指導ができる人がいることが大前提になるのではないかと思います。

そして、その前に、子ども自身がそれに挑みたいか選択できることが必要な運動種目があるのだと。

 

スポーツにも運動(movement)があり、現代はどんどんと子どもたちに常人離れしたパフォーマンスを求める時代のように見えるので、一つ一つの運動種目について安全性が見直されていくことは大事だと思うニュースでした。

 

 

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運動のあれこれ  30 内灘闘争

Wikipedia河北潟の「埋め立てと干拓」に以下のように書かれています。

第二次世界大戦後、内灘射撃場問題で内灘村(現在の内灘町)は見返りとして河北潟干拓事業を要求。1963年から農林水産省による国営事業として行われ、約1100 haの農地が1985年に完成した。

 

この「内灘射撃場問題」が風と砂の資料館の入り口に書かれていた「内灘闘争」のことだと、資料館の展示を見て知りました。

 

内灘闘争*

「砂丘に生きる町」のp.24から、内灘闘争について書かれています。

「米軍の砲弾試射場に」と政府 

内灘闘争は第二次世界大戦後の日本国内で最初に起きた基地反対闘争と言われています。「金は一年、土地は万年」をスローガンに繰り広げられた激しい反対闘争は、その後、全国で行われた数々の基地反対闘争に大きな影響を与えた大事件として知られています。内灘闘争は1952(昭和27)年9月20日、日本政府が「内灘砂丘地を日本に駐留するアメリカ軍の砲弾試射場に使用したい」と石川県に伝えたのが発端です。

試射場が必要とされた時代背景が続いて説明されています。

 国有地があった内灘砂丘に白羽の矢

1952(昭和27)年4月28日に「日米安全保障条約」を結んだアメリカは、その年の8月、日本に兵器を大量発注し、翌年2月には当時の小松製作所神戸製鋼に大量の155ミリ榴弾を発注しました。そのころ、アメリカは「朝鮮戦争」の最中で、大量の兵器や砲弾を消費していました。これに伴い、日本政府には砲弾をアメリカ軍に納入する前に試射する場所がどうしても必要でした。

その候補地には、愛知県の伊良湖岬静岡県御前崎青森県の八戸、石川県の内灘砂丘があげられていましたが、日本政府が内灘に白羽の矢を立てたのは、内灘

砂丘に第二次大戦以前、旧日本陸軍が実弾射撃演習場として使用した国有地があること、砂丘地であり住民への補償額が少なくてすむと考えられたことが、理由とされています。

 

これに対して内灘村は「4ヶ月の期限付きでの砂丘使用、砂丘地における国有地を4ヶ月以内にすべて村へ払い下げること、期限後のアメリカ軍駐留は認めないこと、村への補償金を即時現金払いすること」の条件を提示して、試射場として使われることが決まったのに対し、建設などが遅いペースで行われて行くことに「地元では約束に反して永久使用を目指そうとする政府への反感が高まった」ことと、近隣の町村にまで響く爆弾の炸裂音が問題になり反対運動が始まったようです。

 

国会前でのデモや130日間にわたる座り込みなどで、ようやく政府との妥協案が認められ、1957(昭和32)年に内灘試射場は地元に返還された経緯が書かれています。

 

*「反対闘争の主役は住民であるべし」*

 

印象的だったのは、「愛村同志会」というコラムでした。

1953(昭和28)年夏、内灘村には、全国から闘争支援に駆けつける共産党系などの労働者運動や学生運動が続々と集結しました。反対デモや村民が座り込んだ鉄板道路、漁具小屋などでも、争議運動に手慣れた外部の運動家が目につき、「反対闘争は住民が主役でなければ意味がない」とする声が出始めていました。

内灘村では、外部の応援部隊にあおられる形で警察の警告を無視した抵抗運動も目に余っていました。同年八月二日、内灘村議会は外部団体との絶縁を決定しますが、それでも規律を乱す行動はやまず、大根布農協や大根布の若者たちが八月十六日に「外部団体は去れ」と旗印とする愛村同志会を結成したのです。

メンバーは他の地区に出向いて、「外部団体との絶縁」を訴えましたが、血気盛んな若者が中心だったこともあり、集会でのたけだけしい言動が批判されることも少なくありませんでした。しかし、地道な運動を続けるうちに、「村がかき乱されるのは許せない」「住民の純粋な行動が運動家の主義主張に利用されているだけ」と、趣旨に賛同する住民も増え、旗揚げの大義が立った愛村同志会は「任務は完了した」として解散したのです。同年九月のことでした。

 

あの高井戸清掃工場の反対期成同盟の、「どこからも闘争支援は受けない」という考え方に通じるものがあるのでしょうか。

 

反対運動の歴史をここまで書きとどめている内灘町史は、読みごたえのあるものでした。

 

住民運動や反対運動と一口に言っても、やはり実際に歩いて見ないと、それぞれの違いは見えてこないものかもしれませんね。

そして運動が目的になると、方向を見誤ることはいつの時代にもあるのだろうと。

 

 

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