落ち着いた街 30 「えどさき街並みの歴史」

霞ヶ浦周辺の地図を眺めていてふと目に入った江戸崎でしたが、畳敷のバス待合所五百羅漢から水辺の公園のあたり、そして稲波のあたりの干拓地と昔からの集落とが混じり合った風景はなにかひかれるものがありました。

もう少しこの街の歴史がどこかにないかと検索していたら、「えどさき笑遊館」というサイトに「えどさき街並みの歴史」がありました。

 

「えどさき街並みの歴史 その1 江戸崎形成期」に、江戸崎の地名の由来や街ができた頃の説明があります。

「江戸崎」という地名の由来について

諸説ありますが、例えば「江戸」(現在の東京)の地名の由来は、「江」は川あるいは入江とすると「戸」は入口を意味することから「江の入り口」に由来したと考える説が有力とのこと。同じような地形を有する江戸崎も同じような由来により呼ばれたという説。

しかし、「江戸崎」と「江戸」とは、霞ヶ浦利根川の水運を通じてつながっていたものの、名称の由来における関係の確証はありませんが、1590年に江戸崎城の新城主・芦名盛重から江戸崎不動院に迎え入れられた「天海上人」が、不動院の住職として在職中に徳川家康と出会い有力ブレーンとなり、後に江戸の街を起こす際に江戸崎の街を基にしたと伝えられていることから「江戸」よりも「江戸崎」の名前の方が歴史が古いのかもしれません。

そしてもう一説は、霞ヶ浦からの江戸崎への入り口には、昔「榎が浦(えのきがうら)」という地名の浦があり、そこへ突き出ている「崎」、つまり「榎の崎(えのさき)」がなまって「江戸崎」となった説等があります。

(強調は引用者による)

 

 

地図で江戸崎が目に入った時、「江」や「崎」がつく地名から水を連想するのに内陸部にあるのはなぜだろうと気になっていた答えが少しずつ見えてきました。

江戸崎城の開城

嘉慶1年(1387)、美濃(岐阜県)出身の武士で清和源氏土岐一族である土岐原氏が、室町幕府関東管領上杉氏の求めにより、江戸崎の地に入り江戸崎城を築きました。土岐原氏は、稲敷地方一帯を約200年間にわたり統治し、江戸崎まちなか地区の原型を作った人物です。

土岐原氏が、海夫の力を利用し、霞ヶ浦における海賊取締りの任務を任されていたことは、行方市の鳥名木文書によって明らかとなっています。これらのことなどから、琵琶湖〜吉野〜熊野灘、美濃〜長良川〜伊勢湾といった水のネットワークの存在が浮かび上がり、それは、江戸崎の最も華やかな近世の時代にもつながっていきます。

(強調は引用者による)

 

「琵琶湖〜吉野〜熊野灘、美濃〜長良川〜伊勢湾といった水のネットワーク」、つい最近まで、つい最近というのはほんの一世紀ほど前までの日本も、こうした海や川を自由に行き来する人によって人や物が移動して文化が混じり合っていたことを考えると、なんだかそのダイナミックさに感動します。

 

*「水辺に栄えた江戸崎」*

 

「歴史2〜江戸崎発展期」に水運で栄えた頃の様子がまとめられていました。

 

水辺に栄えた江戸崎

江戸崎まちなか地区が栄えるようになり、豪商・豪農など広い意味での町民による独特な文化が花開いたのは、近世のことでした。水辺には、川船を用いて米や醤油など物資が集積し、運び出される港と、周辺の都市的機能を合わせもった「河岸(かし)」が多くできました。

江戸崎の人口は、このころ「戸数100戸を超える」という説から類推すると約3,000人程度だったと思われます。水運は、江戸時代初期に利根川の流れが銚子口に瀬替え(東遷事業)されたことから、江戸崎入り〜霞ヶ浦利根川〜江戸川〜江戸という内陸運河ができあがり、このルートで大量の物資運搬を安定して行うことが可能となったのです。

 

「まちなか地区」は、あのバス待合所やお菓子屋さんがあったあたりのようです。

そして稲敷市リーバーサイド公園のあたりが「河岸」で、絵図を見るとあの桜並木のあった支流はもっと太く描かれています。

小野川も干拓前はおそらく川幅が広く、霞ヶ浦へと流れていたのでしょうか。

 

 

*「交通機関の移り変わりと街なかの進化」*

 

水運から陸運へ、江戸崎の変化が「歴史3〜江戸崎の拡散・再興期」にまとめられていました。

 明治初期に開通した常磐線は、東京都茨城県を結ぶ交通手段の主流となり、江戸崎の公共交通も常磐線土浦駅、荒川駅へのバス路線が主となっていきました。明治23年には利根川水運で蒸気船「通運丸」が就航しましたが、徐々に陸上交通機関へ転換していきます。

 江戸崎まちなか地区に設けられた江戸崎駅には、最盛時、トレーラーバスに満員の客を乗せ、土浦〜佐原間を往復しました。小野川を渡る橋梁として大正初年に「大正橋」が完成したり、「通運丸」の寄港地だった「鍋屋回漕店」が陸運業に転じ、「江戸崎自動車商会(現在の江戸崎合同ハイヤー)」を開いたりしたことは、交通機関の転換点の象徴事象ともいえます。

 鉄道がないのに「駅」の名称が掲げられているJRバスターミナル。当時は切符売り場などがある駅舎が隣接し駅員が常駐していたが、現在は待合室となっている。旧国鉄の自動車路線の「自動車駅」を継承している。土浦、荒川沖、佐原などの近隣地方都市の交通結節点(ハブ)機能を持つ「旧稲敷郡」の中心バスターミナルである。

 

利根運河の歴史にも重なりますね。

 

あの畳敷のバス待合所はひっそりしていたのですが、各地へのコミュニテバス路線が何本もあるらしく、その時刻表が置かれていました。

今も「駅」のようなものかもしれません。

 

 

素通りしてしまえばどこも同じような街の一つでしかなかったかもしれませんが、実際に歩いてみるとそれぞれの歴史の違いを感じ、こうした記録を読む機会につながっていくのが散歩の醍醐味ですね。

そしてこんなに歴史がしっかりとまとめられていたおかげで、あの日に見た風景がまた違って見えてきました。

 

 

「落ち着いた街」まとめはこちら

「城と水」まとめはこちら

 

散歩をする 413 江戸崎から古渡バス停まで歩く

江戸崎から利根川の対岸の佐原まで直通のバスがあり、途中で稲敷市立歴史民俗館のあたりを通るようです。

地図で見ると、江戸崎を出て少し弧を描くように道路が通っていて、内側に小野川と挟まれた場所が「稲波」という地名で水田地帯のようです。

ここが気になってぜひ見てみたいと思っていましたが、江戸崎の街を歩いてからでは時間が足りなさそうなので、当初の計画ではバスの車窓から眺めることにしていました。

 

ところが、土浦から乗ったバスから見えた崖線の下に広がる水田地帯に、やはり実際に歩いてみたいと思い計画を変更しました。

 

バス停から街の方へと歩くとお菓子屋さんがありました。散歩の出だしからふらりと立ち寄って、カボチャあんの入ったお菓子を購入しました。またお昼ご飯を食べそびれるかもしれないので、非常食です。

ところが商店街を歩くとこのあともお饅頭やさんやお菓子屋さんがあって、どのお店も地元のお客さんらしき姿で賑わっていました。お菓子屋さんが元気な街は落ち着きますね。

 

まず大念寺を目指したのですが見上げる高さだったので断念し、五百羅漢を訪ねました。

瑞祥院の裏手に小高い場所があって竹藪の中の石段を登ると、目の前が開けて江戸崎の街が見えて、そこにたくさんの石像がありました。

五百羅漢(江戸崎町根宿)

 通称を羅漢山ともいい、羅漢山の夕照として江戸崎八景の一つに数えられる景勝の地である。

 この石像群は、豊島和七(としまわしち)が、盲目の兄の開眼祈祷を願い、日本国中六〇余州の神社、仏閣を巡拝し、大乗妙典(法華経)を奉納して宿願を果たし、仏恩に報じ一切衆生(いっさいしゅじょう)の功徳を発願して、当時の瑞祥院住職竜峰禅師と大黒屋庄兵衛など八名の世話人の協力により完成させたものである。

 安永九年(一七八〇)の発願から文化元年(一八〇四)の完成まで二四年の歳月を要している。寄進者は、信太、河内両郡はもちろん、下総、上総、江戸と広範囲に及び、五五二名が確認できる。

 現存する羅漢像は、四九三基で、その内に尊者名の刻まれているものが八〇基ある。また江戸の伊豆屋藤七と石工の名前が刻まれているものが一基ある。なお、願主の豊島和七は、文化八年(一八一一)に没している。

 平成二年三月 江戸崎町教育委員会

 

Wikipedia江戸崎町に書かれている以前の歴史ですが、以来たくさんの人がここに登り、石像と眼下の風景をどんな思いで眺めてきたのでしょうか。

 

苦悩の表情の石像もありましたが、どの顔もなんだか新生児と重なって見えました。

 

 

*小野川*

 

地図で見ると、小野川が一部広くなってそこに稲敷市リバーサイド公園があります。そこから先が霞ヶ浦まで水田地帯のようです。そこから目指す稲波へと向かうことにしました。

 

リバーサイド公園の手前に小さな川が合流していて「小野川桜づつみ」という石碑がありました。桜並木が整備されているようです。

ところが小野川本流は数百メートルほど東側を流れているので、こちらは支流のようです。

Wikipediaの「小野川」を読むと、「つくば市小野崎に源を発し」とあり、地図で辿るとたしかにはるばるつくばエクスプレスつくば駅の南あたりに水源があるようです。

1979年、小野川を稲荷川につなぐ人工河川が完成し通水が始まった。これは筑波研究学園都市の建設に伴い都市排水を考慮してのことであった。

Wikipedia、「小野川」「歴史」)

 

そこから入江のようになった水色の場所には、ボートが停泊していて水鳥がゆったりと泳いでいました。公園にはその水面をのんびりと眺められるようなベンチがありました。

 

近くにお蕎麦屋さんがあって、ふらりと立ち寄ってしまいました。やはり親子丼と天ざるのセットです。さすが霞ヶ浦だけあって、蓮根のフライがついていました。

美味しいお昼ご飯に元気が出ました。

 

*稲波を歩く*

 

先ほどバスで通過した道が高台を通っているのが見えます。

低地の方には稲波地区をぐるりと囲むように水路があるようで、そこを目指しました。

幹線水路のようで滔々と水が流れています。その水路に沿って家が並び、その東側には小野川との間に広い水田地帯が広がっています。

 

電柱に「想定浸水深 2.9m (赤いテープの高さ) この場所は霞ヶ浦がはん濫すると最大2.9m浸水する可能性があります 稲敷市」の表示がありました。

赤いテープは見上げる高さで、水路よりも少し低い所にある2階建ての家々の屋根ぐらいの高さでした。

 

霞ヶ浦がはん濫」というイメージが全く湧かなかったのですが、Wikipediaの「霞ヶ浦」の「近代」昭和13年の洪水が「霞ヶ浦の近代治水史上最大の大洪水が発生」とあり、さらにさかのぼると中条堤と同じく、1783年の浅間山の大噴火により利根川の流れが大きく変化したあたりも関係があるようです。

 

途中、幹線水路沿いに「江戸崎入土地改良区」とありました。

防火用水 地域を守る水

この用水路は小野川から導かれ江戸崎入干拓域の水面を潤す為、江戸崎入土地改良区により管理されている施設ですが、地域の防火機能も担っており本地域には欠かせない水となっております。〔この地域を守る水〕を汚すことなく大切に使いましょう。

 

やはり干拓地だったようです。いつ頃から開発されたのでしょう。

ぐっと東へと弧を描きながら水路沿いに歩くと、左手の高台を通っていた道路が同じ高さまで下がってきたところに水門がありました。

 

ここは江戸崎入第1排水機場です。

私たちの食生活を支えると共に地域の水を受け入れ、洪水を防止するほか酸性になった水を中和し、霞ヶ浦の生きものを守ります。

また、ここ江戸崎入地区には四季折々の美しい田園風景が広がっており、豊かな自然環境を守っていく上でも、重要な役割を果たしています。

本地区では、オオヒシクイの他、たくさんの生物を育んでいます。

これらの自然や景観は、農業が営まれることで維持保全されています。

地域の財産、自然景観を守りましょう。

 

最近では水路や水門のそばにもこうした説明板があるおかげで、その地域の地理や歴史や生活を知ることができるようになりました。

 

 

国道125号線を渡ると、霞ヶ浦が見えてきました。

小野川にかかる橋を渡るとそこからは霞ヶ浦です。ふと海の雰囲気を感じました。

 

橋の名前は「ふっとばし」で、ここで初めて目指すバス停の読み方は「古渡(ふっと)」バス停であることがわかりました。

古渡、どんな歴史があるのでしょう。

 

 

地図で見つけて気になっていた場所でしたが、実際に歩くことができました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

散歩をする 412 霞ヶ浦沿岸から江戸崎へ

ぼーっと車窓の風景を見る散歩から、最近は真剣に考えることが増えてあっという間に東京駅に到着しました。

連休のためか構内は大きな荷物を持った人が多く、3年前までのような混雑した日常が戻った感じです。

 

7時32分発のJR上野東京ライン常磐線快速土浦行きに乗りました。グリーン車の2階席の窓側席です。

この路線もだいぶランドマークを記憶したので、ぼーっと眺めているようでも「そろそろ荒川」とか察知できるようになりました。

 

 

列車は次々と荒川、江戸川、そして利根川の支流などを横断して霞ヶ浦が見えてきました。

2017年に地図と測量の科学館を訪ねたあと霞ヶ浦に行ったのですが、この時には霞ヶ浦総合公園前までバスに乗り、そこから沿岸沿いに土浦駅まで歩いて戻りました。

なんだかだいぶ歩いたので霞ヶ浦を制覇したような気になったのですが、地図で見ればほんの一部分です。霞ヶ浦沿岸をぐるりと歩く方法はないか、時々地図を眺めては探していました。

 

 

土浦駅から江戸崎行きのバスに乗る*

 

 

懐かしい土浦駅に8時46分に到着し、9時10分の江戸崎行きのバスに乗りました。

後方のタイヤの上あたりの二人がけの座席が向かい合わせになった、初めて見るタイプのバスでした。

 

霞ヶ浦に流れ込む桜川を越えると、沿岸に水田地帯がひらけてところどころ蓮田があります。夏にまた訪ねてみたいものだと思っているうちに、土浦駐屯地の敷地になり予科練平和記念館が見えました。そこからは霞ヶ浦のすぐそばをバスは走り、蓮田や水田地帯や黒い瓦屋根の家などが続き、対岸には筑波山も見えました。

穏やかな水面が大きな鏡のようです。こういう場所の水田地帯には、どんな暮らしや歴史があるのだろうと考えているうちに、バスは内陸部へと曲がり、沿線に大きな農家の建物が増えてきました。

結構起伏があり、バスは上ったり下ったり、曲がったりしながら霞ヶ浦から離れて行きました。

 

ポツポツと降り始めた雨が本降りになっています。出発前に確認した予報では曇りか晴れだったのですけれど、これは傘をさしながらの散歩になりそうです。

 

ぐるぐると集落や学校を回りながら下り坂になり「大谷」に入ると、「美浦トレセン」という文字が目に入りました。

なんの施設だろうと考えていたらふと馬のプールだと閃き、急にこの場所に親近感を覚えました。でも家に帰って確認したらあれは福島の施設でしたね。

この美浦(みほ)トレセンも競走馬用の施設で、その歴史を読むとこんな時代背景があったのかと初めて知ることばかりでした。でもどこかで私もこの美浦トレセンの名前が記憶に残っていたのですね。

 

小雨の中ぐるぐるとバスはまわり、川に沿って水田地帯がひらけてきましたがなんだか不思議な場所に感じました。

地図で確認するとそれこそ馬の蹄鉄のような楕円形をした水田地帯で、余郷入という地名のようです。おそらく昔は霞ヶ浦が深く入り込んだ場所で、少しずつ沖へと干拓して水田を広げたのだろうと想像したのですが、どんな歴史があるのでしょうか。

 

姥神(うばがみ)という交差点で県道49号線へ曲がるとゴルフ場があり、この辺りからは霞ヶ浦よりもだいぶ高い場所へと上って行きました。

左手が一段低い場所になり水田地帯が見え、しばらくすると街の中に入って終点江戸崎のバス停に9時55分に到着しました。

 

霞ヶ浦右岸の風景が次々と変化しながら現れて、わずか45分でしたが充実したバスの車窓の風景の散歩でした。

 

 

バス停の前に小さな建物があって、中が畳敷になっています。そこがバスの待合所でした。

江戸崎町の歴史もわずかしかわからないのですが、このバス停の雰囲気だけでも訪ねてみてよかったと思いました。

 

3時間後にここから出発する稲敷市立歴史民族資料館前を通るバスに乗る予定でしたが、計画を変更して江戸崎の近くにある気になっていた場所を歩けるだけ歩いてみて途中のバス停から乗ることにしました。

幸いなことに雨もすっかりやみました。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

行間を読む 183 中央線沿線から記憶を辿る

1月初旬、稲敷から佐原の一泊二日の散歩に出かけるため、日の出前に家を出ました。

2度で、顔が凍りそうに感じる寒さです。

土浦駅までJR上野東京ライン常磐線に乗るために、新宿駅から中央線に乗って東京駅へと向かいました。

 

ここ数年あちこちを散歩していて、特に東北方面へ出かける時にはこの路線を利用するのですが、ちょっとした緊張感とともに記憶が蘇る路線でもあります。

 

左手の新宿御苑の森を過ぎると小さな崖線のような斜面があり、そこから信濃町(しなのまち)駅へと入ります。

隣の千駄ヶ谷駅とは違って半地下のような駅の印象です。

当駅は地上駅だが、明治神宮外苑側の標高が高いことから、ホームから階段などで上った場所にある改札口が外に段差なく直結している。

Wikipedia信濃町駅」「駅構造」より)

 

南側は神宮外苑、南東に赤坂御所、北西には新宿御苑で、ちょうど細長い窪地のあたりかもしれません。

 

信濃町駅の北口にはまっすぐ都道319号線が新宿通りに向けて通っていて、その新宿通りが内藤新宿から半蔵門までかつての玉川上水を通していた尾根のような場所だと実際に歩いてわかりましたが、四谷方面からこの信濃町のあたりへは下り坂で、さらにここから江戸城まで現在の迎賓館あたりはちょっとした谷間という感じです。

 

信濃町駅を出ると左手は少し斜面のように見えて、四ツ谷駅のあたりでまた半地下駅になります。

今はビルが立ち並ぶので、かつての地形がどんな感じか通過するだけでは想像もつかないのですが、江戸城の外堀の近くに切り立つような場所だったのかもしれません。

 

 

*通過する時に必ず蘇る記憶がある*

 

信濃町駅を過ぎると殿堂のような建物が一瞬見えます。この辺りは半世紀ぐらい変わらない風景に感じるほど1970年代からの記憶が蘇る場所でもあり、そして現代とどうつながっているのか逡巡する場所でもあります。

思い返すと10代の頃から、この街はちょっと緊張感を感じる場所でした。

 

看護学校を卒業して都内の国立系の病院で働き始めましたが、ある日寮の部屋に先輩を引き連れた同期が訪ねてきました。

宗教の勧誘だとわかりました。「◯◯さんの部屋には大きな仏壇がある」「勧誘されるらしい」という噂は広がっていましたから。

 

「うちは禅宗なので」とすぐに断りましたが、「無とは何か」「イデオロギーに入り込むな」といったことを教えてくれた父が、宗教の勧誘には気をつけるようにアドバイスしてくれていたのでした。たしか高校生の頃で、駅名とともに記憶されていたのでした。

 

勧誘された頃の私は宗教からは離れたかったので「禅宗だから」は口からのでまかせで、本当は自分の部屋を北欧調の家具やファブリックで統一したかったので、そこに仏壇を置くなんて考えられないことが拒絶感だったのですけれど。

 

今でも信濃町駅を通過するとその日のことを必ず思い出すので、「国民はすぐに忘れる」なんて人の記憶をバカにできないかもしれませんね。

 

Wikipediaでその歴史を読むと1950年代にそうした勧誘が問題になっていたようですが、1970年代から80年代のなんとなく触れてはいけないような扱いに感じた社会の雰囲気や父のアドバイスの背景がようやくこういうWikipediaなどでまとめられてつながってきました。

 

その後、職場で堂々と本や新聞を広げる同僚からの勧誘を軽くかわせるようになったのは20年ほど前ですが、ねじれ国会から数年後だったのでちょうど息を吹き返した頃だったのかもしれませんね。

最近はさらに、政治に深く食い込んで息を吹き返す団体がまたいつ出現するかという緊張感を今まで以上に感じながらこの駅を通過しています。

 

ところで、この深い谷間を見下ろす崖っぷちのあたりは元々どんな土地だったのだろうと気になっていたのですが、Wikipedia信濃町に書かれていました。

1953年(昭和28年)11月23日ー元駐日イタリア大使館駐在武官邸を購入し、創価学会本部が信濃町に移転。

 

当時はどんな風景の場所で、どんな時代の雰囲気だったのでしょうか。

 

 

散歩の出だしから途中下車の寄り道のようになりましたが、行間が気になることが年々増えてきました。

 

 

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

 

 

 

散歩をする 411 霞ヶ浦右岸と利根川左岸に挟まれた場所を歩く

昨年12月初旬に利根大堰と中条堤を訪ねて利根川の両岸を歩いたあと、いつか歩いてみたいと思っていた利根川下流域を訪ねてみることにしました。

 

2018年12月に利根川の河口を見るために銚子を訪ね、1年後の2019年11月には神栖を訪ねたあと霞ヶ浦から北浦をぐるりとバスで回ってみました。

 

その頃からのやり残した課題のように、いつか見てみたいと思っていたのが、霞ヶ浦の右岸と利根川左岸に挟まれた場所です。

自治体で言えば稲敷市のあたりで、西から東へといくつかの河川が霞ヶ浦に流れ込んでいて、霞ヶ浦沿岸や新利根川周辺あたりに干拓地らしい場所があります。

 

問題は今まで訪ねた地域とは違って鉄道がありません。地図を縮小拡大しながらあちこち眺めているうちに、土浦から路線バスを乗り継げばこの辺りを通って利根川右岸の佐原まで行けそうです。

 

江戸崎という地名に目が止まり、「ここが江戸崎かぼちゃの産地か」とつながりました。

江戸崎に船溜りのような太い水色の線が描かれていて、霞ヶ浦へと水路がつながっています。その水路をたどると「稲波」という水田地帯がありました。

地図から想像するに、干拓地のようです。

 

この辺りを見てみたい。

路線バスをたどっていくと、丘陵地帯を抜けると利根川左岸に流れる新利根川周辺が干拓地のような水田地帯で、その田んぼのど真ん中に稲敷市立歴史民族資料館を見つけました。

干拓の歴史がわかるかもしれません。

そしてその近くに「水神」というバス停もあります。

 

つぎつぎと関心がつながって散歩の計画ができました。そのまま佐原から日帰りもできるのですが、せっかくなので泊まりがけにしましょう。

 

2日目は佐原周辺の水路と水田地帯を歩いてから、まだ訪ねたことのない伊能忠敬記念館に立ち寄り、そのあと今度は利根川右岸側を上流に向かって途中下車しながら歩くことにしました。

 

どこを歩こうかと眺めていると、いくつか「水神社」を見つけました。

駅からは結構歩くのですが、せっかく訪ねるのですから周辺はどんな場所なのか見てみよう。

 

1月初旬、凍てつく季節の散歩でしたが、日中は風もなく暖かい陽射しに恵まれました。

そして香取海の時代から利根川東遷事業へとこの地域はどんな場所だったのか、その雰囲気を少し知ることができました。

 

 

しばらくこの散歩の記録が続きます。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

つじつまのあれこれ 37 たくさんの空砲、時々実弾と不発弾

ちょっと穏やかではないタイトルですね。

高校生まで生活した地域には自衛隊と米軍の基地と演習場がありました。演習の時期には、空砲でも「ド~ン」という音が聞こえて数キロ離れた学校や家の窓ガラスがビリビリと音をたてるくらいの迫力がありました。

時には「今日の演習は実弾」だとか「民家近くに落ちた不発弾処理」のお知らせとかあって、今考えれば非日常的な生活空間でした。

 

それで素人ながら今日のタイトルのような用語を耳にして育ったのですが、最近の世の中はこんな感じだなあと妄想している話です。

 

このところ政府の新しい方針とか対応が次から次へとニュースになるので、「それはどういう意味なのか」「それによって生活はどのように変化するのか」「メリットとデメリットは何か」と国民に考える暇も与えない作戦かのように感じるのですが、今までも選挙前というのはこういう雰囲気だったのか、それとも私があの日以来政治家の言葉にピリピリと神経を尖らせているからかはわかりませんが。

 

ただ、あの日以前もここ数年、「そんなことは無意味」と思われるような政策を世の中の反応を見るためにニュースにするかのようなことが多く、ああまた観測気球だろうと思っているといきなり実弾が飛んでくるので、ホント政策の決定過程って不思議なシステムですね。

あるいはもうその話はポシャったのだろうと安心していると、不発弾になってある日突然爆発の危険性が出てくるとか。

やっぱり、私の妄想だけではないですね。

 

*つじつまが合わないから強権的に実行される*

 

この一週間、「申請者が8000万人を超えました」「申請者が9000万人になりました」と、クリアランスセールのようなニュースが続きました。

ようやく期限の2月末が過ぎて、やれやれこれで静かに「自分の存在を証明するためのカード」の申請を考えられると安堵しています。

 

ただし、リスク分散のためにほんとうに健康保険証と紐付けしないようにできるのか、今までの民間のポイント会社に情報がいくシステムと完全に切り離したカードを作れるのか、そのあたりを確認したいのですが、役所の方々は今きっと対応に追われて青色吐息でしょうから事態が落ち着いてからにしようと思います。

慌てる理由はないですからね。

 

いまのところ理解できていないことは以下の点です。

マイナンバーとマイナンバーカードは全く別の事業だとマイナンバーの制度づくりに関わった方の話を読んだが、それは実際にどういう意味なのか。

 

マイナンバー制度は各自治体単位で管理され始めたものだったのに、なぜ管轄の異なる健康保険証や運転免許証までを強制的に紐付ける国全体のシステムになり、そこまで自治体の役所で対応しなければならなくなったのか。

 

・なぜマイナンバーカードをつくると2万ポイントをもらえるのか。対応しているポイントカードを持っていない場合は、そのためにポイントカードも作る必要があるのか。

 

・「一律給付金などを素早く行えるように」も目的の一つであったのなら、なぜ2万円の現金でなく民間のポイントになるのか。役所から2万円が振り込まれたほうがよっぽど「信用」できるのに、なぜ国家が民間会社のポイントを利用するのか。

 

・カードリーダーがなければ「自分を証明できない」カードとはそもそも身分証明書として使えないのではないか。

 

 

マイナンバーカードを実際に利用しての不具合の経験を最近耳にするようになりましたが、そのヒヤリハットともいえる声にどのように対応するかという視点が政府からは見えなくて、目標達成とかそのために激務をこなす自治体職員を「底力がある」と精神論で称賛するのは危ない方向だなあと思いますね。

 

少しでも失敗を認めると政権にとって瑕疵になるという雰囲気が強いのでしょうか。

むしろ不具合の存在を認めてどう対応するかを知らせてくださる方が、信用できると思うのですけれど。

 

 

2016年ごろのポイントの話が出た頃に発射されたのは空包でも観測気球でもなく、実弾が不発弾となって生活の中でジワリと危険な存在になっていたと感じるこの頃です。

 

 

*おまけ*

 

以前はスポーツでもスターターとして空包(発射音だけが出る弾薬)が使われていて、音だけで危険ではないと思っていたらそうでもないようです。

安全性

 

空包は近距離で射撃されると、しばしば死亡や重傷といった結果を招く。弾頭を持たないことから一見して無害と誤解される場合もあるが、実際には事故防止策が必要となる。

Wikipedia「空包」)

あな、おそろしや。

 

 

 

 

「つじつまのあれこれ」まとめはこちら

マイナンバーとマイナンバーカードについての記事のまとめはこちら

失敗とかリスクについての記事のまとめはこちら

 

行間を読む 182 「茅ヶ崎公園自然生態園」

2005年に訪ねた横浜国際プールがあるあたりは鶴見川左岸なのかそれとも多摩川右岸と言うのかはよくわからないのですが、低い丘陵地が折り重なるようにあって、ほんの少し前は人里離れた地域だったのだろうというイメージでした。

20年ほどたって再び歩いてみると、ひとっ飛びに隅から隅まで開発されて洗練された街にしたような驚きでした。

 

今回は南から北へと歩きましたが、起伏のある複雑な地形にこれだけの構造物ができたことにも驚きです。

鶴見川左岸の地形はどんな特徴があるのだろうと思っていたら、「茅ヶ崎公園自然生態園」のサイトに詳しい歴史が書かれていました。

あのUR都市機構のマンション群に造られた茅ヶ崎公園です。

 

1. 太古

紀元前4,000年前

人間が住み始めるはるか昔(12万年ほど前)、相模湾関東平野まで入り込んでいました(下末吉海進)。その後、海は引きましたが人間が住み始めた縄文期には再び小規模な海進(縄文海進)があり、この辺りは入り江だったようです。付近に茅ヶ崎貝塚堺田貝塚などがあるのはそのためです。こうした貝塚のほかにも人間の暮らしの痕跡がこの地域には多数存在しています。生態圏内には縄文時代早期と中期の遺跡が確認されています。東山と西山の尾根に集落や炉、猟場(落とし穴)、どんぐり等を蓄えた穴と考えられる址が見られたそうです。1万年近く昔、人々はここでどんな暮らしをしていたのでしょう。

 

横浜の沿岸部は昔は海だったことは耳にしたことがありますが、あの起伏の激しさがその跡だったのですね。

だからあのあたりに古墳や遺跡が残り、それを公園にしているようです。

 

昨日の記事で、洗練されすぎているような遊歩道に「ちょっと飽きた」と思ってしまったのですが、もう少し範囲を広げてやはり北山田駅あたりの公園まで、川や公園をつないで歩いてみると、この太古からの地形を理解できるのかもしれませんね。

 

そして鶴見川流域の地理に書かれた内容も。

鶴見川流域は、標高80mから150mの低い丘陵地帯が分水界をなし、河床勾配は、源流から恩田川合流付近までの上流部で約1/250、沖積低地の中下流部で約1/1000の緩勾配となる。流域の大半が大きく起伏した丘陵・台地のため、かつては開発されることもなく、自然豊かな環境・景観が形成されていた。しかし、1960年代(昭和30年代半ば)に始まる高度経済成長期から、流域周辺は人口が急増し、住宅地として急速に開発が進められた。1958年(昭和33年)には流域内の市街地率は約10%、人口は約45万人であったが、2003年(平成15年)には市街地率約85%、人口約188万人となっている。この市街地化の結果、谷戸や低平地の農地はほとんど姿を消し、自然主体の流域から都市主体の流域へと変貌した。

 

港北ニュータウンの開発とか都筑区のあたりで水田や里山を残すための活動について、ほとんどその地域とは無縁だった私でさえところどころ記憶にあるのは、やはり住宅地と自然との境界線が驚異的に変化した時代だったからかもしれませんね。

 

その「茅ヶ崎自然生態園」には港北ニュータウン開発と公園整備、そして生物相保護区などの歴史がまとめられていて、ここ半世紀ほどの記憶を整理することができました。

 

「昔から住む方のお話」もあるのですが、主に「自然が豊かだった」という記録でした。

生物学的には自然豊かな土地だったとは思うのですが、散歩をしてみてあの地形の印象から、おそらく鉄砲水や洪水で何度も財産や命を失った歴史もあったことと思います。

そのあたりは掘り起こされて歴史になっていくにはまだ時間が必要かもしれませんね。

 

洗練された小川のある遊歩道や池のそばの雑木林は安全に整備されていたので、そういう危険だった歴史を想像することが難しかった。

それが、珍しく遊歩道を歩きながらちょっと物足りなく感じてしまった理由だったのかもしれません。

いえ、これはあくまでも私自身の理解の浅さの問題ですけれど。

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

散歩をする 410 鶴見川左岸の小さな川沿いの公園を訪ねる

鶴見川を渡りるとIKEAの前の大きな道路はまっすぐ、そのまま北へと切り通しの道になって通っています。その右手に淡島神社の鮮やかな朱色の社殿が見えました。鎮守の森が崖になって、その上に住宅地があるので元々は崖線だったようです。鶴見川河岸段丘でしょうか。

 

鶴見川の治水の神様かと思って訪ねてみましたが違いました。検索すると和歌山に総本社があるようで、17世紀後半に病を治してもらったことで建てられたようなことが書かれていました。どんな時代で、どんな人の繋がりではるばると迎えられた神社でしょうか。

 

切り通しの道は下を向いて歩いて息が切れそうな勾配でしたが、この道がなかったら崖の上と下の世界を行き来するのも大変だったかもしれません。

途中、切り通しの壁面から水が染み出していました。こういう場所の排水もどんな技術があるのだろうと考えていると、その排水用の穴にペットボトルが詰め込まれていました。

ほんと、どうしようもないですね。

 

目の前が開けて今度は下り道になり、山裾のすぐそばに橋があって「一級河川おおくま川」が流れていました。地図で確認すると、先ほどの崖の反対側を弧を描くように流れて、鶴見川遊水池の左岸で合流する支流のようです。

橋を渡るとすぐにまた上り坂になり、途中にある長福寺の参道が急な石段になっているのが見えました。

鶴見川の左岸側の「台地」かと思ったら、アップダウンの多い複雑な地形でした。

 

歩道の右手が雑木林になりましたが、その上はマンションでその敷地が「緑地の協定区間」として「森が残る歩道」として整備されているようです。

そしてその駐車場の地下には遊水池が整備されていることも書かれていました。

 

せせらぎ公園

 

ここまでの交通量の多い道路は「新横浜元石川線」で、ブルーラインの高架橋を越えると北側は「大熊東山田線」だと案内図に書かれていました。

 

ブルーラインを超えて250mほどの交差点を左に曲がると、雑木林が見えてきました。谷戸のようで、林の中を下り坂の道があって池が見えます。

一歩入っただけで別世界のような林の道を降りると、池の周囲にはたくさんの人が散策していました。

『水と緑のまちづくり』という、港北ニュータウンの開発理念にもとづいて造られた、自然体に囲まれ、野鳥の多い、大きな池のある公園です。池には水鳥が泳ぎ、6月ごろからスイレンの花が訪れる人の目を楽しませてくれます。

公園の奥には古い民家が移築され、かつて農村であった頃の都筑区の風情を伝えています。

(「都筑区の見どころ」より)

 

そのまま細い水路が南西へと続き、その周囲にも雑木林が残り、南側はレストランなどがあるおしゃれな遊歩道でした。

 

茅ヶ崎公園*

 

その遊歩道が途中から暗渠になり、県道45号線の陸橋で反対側に渡ると、そこからまた雑木林の中を歩いているかのような道が続き、両側はUR都市機構のマンションが建っていました。

 

この遊歩道や雑木林の公園もまた「横浜市の市街地環境設計制度に基づく建築物の許可条件として設置されたもので歩行者が道上自由に通行また利用できるものです」という、「公開空地」であることが表示されていました。

1998年(平成10)にこのあたりが開発されたようです。

 

途中で大きな池があったり、水のそばを歩けるような小川が流れていたり、かつてはこんな風景があったのだろうと思われる遊歩道です。

 

晩秋の光のなか、落ち葉を踏みしめながら水の音を聞きながら森の中を歩いているような楽しさでしたが、ちょっと洗練されすぎているような感じで少し飽きてきたところ、忽然と遊歩道が終わって「ふつうの」住宅地に自動車が走り、ところどころ畑が残る風景になりほっとしたのでした。

 

早淵川を渡ると小高い場所へとと急な坂道になり、一段高いところに県道13号が通っていました。

吾妻山の山裾に細長く昔からの街道沿いの街があるようで、そこから対岸の雑木林の中にあるマンション群とぎっしり詰まったかのような住宅地が夕陽に照らされているのが見えました。

 

ここから遺跡や別の公園を訪ね歩く計画でしたが日が落ちてきたので断念して、センター北駅から電車に乗って帰宅の途につきました。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

水のあれこれ 283 鶴見川沿いの氾濫原と鶴見川多目的遊水地事業

ここ数年、東海道新幹線に乗ることが増えたので新横浜駅付近を通過する機会が増えました。

新幹線の車窓から、窓辺の猫が見えるくらい高架橋のすぐ近くまでおしゃれな現代のマンションが立ち並ぶのですが、どこかに水田地帯だった痕跡はないかといつも駅の北西の風景が気になっています。

 

1990年代半ばに岡山までのぞみに乗ってこのあたりを通過しましたが、残念ながら当時の風景の記憶はありません。

2000年代半ばごろからこの近くを行き来する機会があり、東急東横線大倉山駅からJR新横浜駅あたりの山肌が森林から宅地へと変化していく風景に驚いた記憶があります。

同じ頃に日産スタジアムのあたりが遊水池であることを何かの機会で知って気になっていました。

ということで、今回は20年来の宿題のような散歩でもあります。

 

長津田駅から鶴見川両岸に水田地帯が広がる風景だったのですが、少し川から離れはじめ左手に小高い山を見ながら南東へと向きが変わると、13時50分JR小机駅に到着しました。

 

北口の改札を出たところに、「地域防災センター 鶴見川流域センター」への案内図と「日産スタジアム」「日産ウォーターパーク」「国土交通省綱島出張所」などの案内標識がありました。

目の前はすぐに水田です。

西の方の小高い場所へと向かって歩くと、水田の中に嵩上げした畑があります。珍しいですね。これもまた氾濫原だった地域の名残でしょうか。

蔵と大きな納屋などがある昔からの農家の敷地の近くに、「小机城址市民の森」の案内図がありました。

小さな集落ですが、小机城の歴史を守ってきたことを感じる場所でした。

 

右手はずっと鶴見川の河川敷の平地が続いています。方角的には日産スタジアムが見えそうですが、盛り土された道路で風景が寸断されています。

 

新幹線の車窓からは見えないけれど、すぐ近くにこんな落ち着いた街と水田地帯があったことを確認できました。

 

小高い場所の麓沿いの道からふと風景が変わり、生活道路を断ち切るかのような幹線道路に出ました。

この道路が鶴見川を越えると、第三京浜、国道466号線、首都高神奈川7号線などがぐるぐると複雑に交じり合った横浜港北JCがあるのが、左岸側の「川向」という場所のようです。

堤防の上に立つと、対岸にその巨大な道路網が見えました。

こちらの水田地帯とは別世界に行く決心が必要そうな風景ですが、鶴見川の上は穏やかで、美しい水面が見えてカモや白鷺がのんびりと泳いでいました。

 

橋を渡るとすぐのところに崎陽軒の工場があり、直売所があります。誘惑に駆られながらも先を急ぎ、その渦巻く道路網の下を歩きました。

予想とは違い左岸側も平地が続いています。1kmほど歩いてIKEAの大きなショッピングモールを過ぎ、淡島神社のあたりから上り坂になりました。

 

長津田のあたりからの細長い谷津の地形から、右岸の小机城のある小さな山にぶつかった鶴見川の水がこのあたりの両岸へと広がり洪水を起こしていたのでしょうか、渦巻く水を妄想しながら坂道を上りました。

 

鶴見川「古くから洪水氾濫を繰り返す暴れ川」*

 

Wikipedia「鶴見川」の「概要」に暴れ川であったことが書かれています。

一方、鶴見川は、古くから洪水氾濫を繰り返す暴れ川として恐れられた。流域の市街地化が進んだことで、保水・浸透機能が低下し、大雨による水位の増大が激しくなり、一旦氾濫すると大きな浸水被害が生じる危険性も高まった。このため、全国に先駆けて1979年(昭和54年)から「総合治水対策」に取り組み、2005年(平成17年)4月には全国で初めて、特定都市河川および特定都市河川流域に指定された。

 

遊水池に造られた日産スタジアムまで新横浜駅からはわずか数百メートルで、氾濫原ぎりぎりのところに1960年代に新幹線を通したのですからすごい判断ですね。

 

Wikipedia鶴見川の「語源」がありました。

大きく湾曲して、ぐっと水の流れが緩やかになっている鶴見川の地形に由来する。「ツル」は川の流れが淀む状態で「トロ」(瀞)と同じ由来であり、「ミ」は「周り・巡り」を表す言葉である。

 

地図で鶴見川の流れを追うと、まさにこの小机のあたりがその名前の由来になりそうな場所に見えます。

 

そして対岸の川向の巨大な道路網とインターチェンジもまた、現代でも氾濫があれば食い止める堤防のような役割なのでしょうか。

 

 

*「鶴見川多目的遊水池事業」*

 

京浜河川事務所のサイトに鶴見川多目的遊水池事業の説明があります。

 

鶴見川多目的遊水池は、鶴見川と烏山川が合流する横浜市港北区小机・烏山地先に位置し、将来的には、河川整備基本方針に基づき、末吉橋地点に合流する基本降水量2,600m3/sのうち、鶴見川多目的遊水池をはじめ上・中流部の調整池などにより800m3/sの流量を調整する計画です。

当面の事業として戦後最大降雨の昭和33年狩野川台風規模の洪水に対する安全性を確保するため、260m3/sの洪水調整を行います。

遊水池のしくみ

鶴見川の洪水を溜める遊水池は、周囲を堤防で囲みその中を掘り下げることにより、洪水を溜める容量を確保します。

鶴見川に面した堤防のうち一部を低くし(越流堤)、洪水をここから遊水池内に流入させて一時溜め、鶴見川があふれるのを防ぎます。

そして、洪水が去った後で排水門から鶴見川に水を戻します。

 

鶴見川多目的遊水池 〜洪水から暮らしを守り、安らぎを創出〜」(国土交通省 関東地方整備局 京浜河川事務所)という資料が公開されていて、そこには詳しく歴史や変遷が書かれていました。

 

今回は遊水池を訪ねる時間はなかったのですが、ぜひ歩いてみたいものです。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

「城と水」まとめはこちら

行間を読む 181 鶴見川から多摩川、そして利根川を結ぶ路線へ

年の瀬も押し詰まった昨年末のお昼頃、久しぶりに東急田園都市線に乗りました。

 

東急田園都市線は、ずいぶん前に市ヶ尾か藤が丘のあたりまでは乗った記憶があるくらいです。

渋谷駅から地下鉄区間をすぎると見晴らしの良い高架線になって冬景色の多摩川を渡りましたが、これもまた国分寺崖線の高低差からくるものだろうと最近になってつながりました。

 

それに比べると多摩川の右岸側は低い丘陵があちこちにある感じで、風景がまた異なりますね。平地を通過していたような記憶があるのですが、鷺沼駅の手前からは切り通しだったり、たまプラーザ周辺ではすごい斜面に家やマンションが立ち並ぶ風景で記憶とはだいぶ違っていました。

市ヶ尾駅のあたりから平地の畑が増え鶴見川を渡ると、「藤が丘」「青葉台」とまた小高い場所に入り、しばらくすると「田奈」駅の向こうにまた川沿いの平地が見えて鶴見川支流の恩田川を渡ると長津田駅に到着しました。

この辺りの地図を見ても私の頭の中の地図は平地だったのですが、実際に通ったことで立体的に思い出せるようになりました。

 

長津田駅JR横浜線に乗り換えると、恩田川沿いに長細く水田地帯が見え始めます。長津田、こういう意味だったのですね。

 

 

東急田園都市線の「沿線風景」と地形*

 

Wikipedia「東急田園都市線」の「沿線風景」にその地形の特徴が書かれていました。

渋谷ー二子玉川

(略)用賀駅を過ぎ、環八通り玉川通りが交差する世田交差点の直下で玉川通りのアンダーパス下を横切って南側(東側)に抜け、間も無く国分寺崖線を出口として行善寺坂付近で地上に出る。

 

二子玉川溝の口

二子玉川駅のプラットホームは南側(先頭車両寄り)で多摩川の橋梁上にかかり、かつては併用軌道線だった二子橋を右側(西側)に見ながら同川を渡る。渡ったすぐ先に二子新地駅があり、ここから溝の口駅までは多摩川の氾濫原を高架で進む。

 

溝の口長津田

溝の口駅の南側にあるトンネルを皮切りに、起伏の多い多摩丘陵を貫通する。カーブ、トンネル、切り通しあるいは高架が連続し、地表を直線的に進む区間は少ない。

(中略)

田奈駅のすぐ先で鶴見川水系の恩田川を越えると周囲は平坦になり、宿場町として古くからの街並みも残る長津田地区に入る。

 

私の車窓の風景の観察もなかなかいい線をいっていました。

 

ところで行き先表示で40年近く見ていた長津田は「ながつだ」だとずっと思っていたら、「ながつた」でした。

ホームにちょうど南栗橋行きの列車が入ってきました。それに乗れば利根川の近くまで行けます。思わず利根川をまた見たいと乗りたくなってしまいました。

 

私がこの路線に乗り始めたのは東急田園都市線の前の新玉線時代で、まだ渋谷ー二子玉川間が開通したばかりの頃でした。Wikipediaの歴史を読み直していて記憶がうっすらと戻ってきたのですが、あの頃はまだ二子玉川から多摩川を渡る直通列車はなくて乗り換えていたのですね。

 

それが2003年に東武電鉄と相互乗り入れが始まり、今では利根川まで直通で行ってしまうのですからすごいですね。

 

Wikipediaの歴史を読むと、二子玉川溝の口間が最も早く1927年(昭和2年)に開業したようですが、あのあたりは「多摩川へ合流する2河川」があり「洪水によって袂をわかつ」ような場所だったようですから、当時橋を架けるというのは難事業だったことでしょう。

そして1974年に多摩川水害が発生したのはわずか3kmほど上流でした。

 

新玉線に乗っていた頃から20年ほどの間に沿線の宅地開発が次々と進み、いつの間にか3本の大きな河川を横断するようになりちょっと知らない世界になっていました。

なんだか出だしからそんな浦島太郎の気分の散歩になりそうです。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら