水のあれこれ 246  厚狭の寝太郎堰

厚狭(あさ)に宿泊しようと計画したのは、河口の開作を見てそのまま海岸沿いを下関まで長距離の路線バスがあるからでした。

 

せっかく初めて訪ねる場所ですから、時間があれば水路を歩いてみたい。そう思って地図を拡大したり航空写真に切り替えて眺めているうちに、JR美祢(みね)線に沿って山あいから流れ出てきた厚狭川が南西へと流れを変える場所に堰があるのを見つけました。その数百メートルほど西の山の端に熊谷居城跡があり、その前を水路が山に沿って流れながら厚狭の盆地全体へと水を流し、最後は駅の南で合流して山の間を通り瀬戸内海へと流れているようです。

 

北側から流れてきた厚狭川が山にぶつかるところで取水堰を作り、盆地に水を行き届かせ、そして三方から流れてくる小さな川の水が盆地に溜まってしまわないように排水させる。

その合流部が少し太い水色の線になっているのは、排水機場だろうと見当がつきました。

用水と排水の両方が大事ですからね。

 

検索しているうちに、寝太郎堰だと知りました。

時間と体力があったらこの寝太郎堰とその用水路が水田を潤す地域と排水機場のあたりを訪ねようと計画しましたが、タクシーでぐるりと少しだけ回ったのでした。

 

*寝太郎堰と寝太郎用水路*

 

山陽小野田市郷土資料館の資料に「寝太郎」という章があります。

 湿地帯だった厚狭の「千町ケ原」を瑞々しい水田に変え、村おこしを成し遂げたと伝えられる「寝太郎」。日本各地に伝わるこのお話は、そのほとんどが民話として語り継がれているだけですが、厚狭の町では、実在の人物であったかのように「寝太郎」が生活の中に息づいています。

 いつ誰の手によって厚狭川が堰き止められ、厚狭盆地に縦横に水路を構築する事業が行われたか公的な記録は残っていません。しかし、膨大な資金と労力を要したことは疑いようがなく、この偉業に対する人々の感謝の気持ちが、寝太郎物語として語られるようになったのでしょう。

 

歴史を正確に記録するのは大変ですね。

 

大井手(寝太郎堰)

 約300年前に築造されたといわれる大井手は、石張溢流堰(いしばりいつりゅうせき)で、当時の土木工法の英知を結集したものでしたが、大洪水で流失したため、昭和38(1963年)、コンクリート造の固定堰が造られました。

寝太郎用水路

 大井手(寝太郎堰)から引き入れられた水は厚狭盆地をくまなく流れています。

 従来は鴨庄や広瀬地区を流れているだけでしたが、昭和43(1968年)に分水場が造られ、山川地区にも流れるようになりました。

千町ケ原(せんちょうがはら)

 大井手(寝太郎堰)の築造及び導水により拓かれた美田は「千町ケ原」と呼ばれています(受益面積383ha)。

 今ではかなりの部分を住宅地や産業地が占めるようになってしまいましたが、北部を中心に美田が広がっています。

 

ホテルの窓から朝霞が見えて、その中から現れた水田地帯は本当に美しいものでした。

 

旱魃(かんばつ)記念碑*

 

その資料に、旱魃記念碑の説明もありました。

 寝太郎荒神社の敷地内には「旱魃記念 自昭和14年6月22日至同9月11日迄晴天 大井手のみ満作」と刻まれた石碑があります。

 昭和14年(1939年)は大干ばつで、厚狭川の東側などは収穫が皆無の状態でしたが、大井手(寝太郎堰)から水を引いた地区は逆に豊作だったとのこと。

 その驚きと感謝が一本の石柱に刻まれています。

 

2か月半も雨が降らない年があったのでしょうか。

 

知多半島愛知用水建設のきっかけになったのが1947年(昭和22)の大旱魃だと知って、私が生まれる十数年前までは「大旱魃」という言葉があったと驚いたくらい、干ばつの被害が激減した時代になりました。

 

 

 

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散歩をする 344 寝太郎堰から厚狭川沿いに古開作へ

ホテルの窓から見る厚狭の街並みは、黒の屋根の街をぐるりと囲むように水田が広がった落ち着いた景色でした。

時々通過する新幹線を窓から眺めていると、ニュースでは小倉の旦過(たんが)市場について伝えていました。今回のただひたすら川と海と開作を見る散歩の最後の目的地で大きな火災が起きたのは、出かける前日でした。

 

さて、体力と気力が残っていたら厚狭川が山の間から市内に流れ込むあたりにある堰と、駅南側の排水機場のような場所がある川合のあたりまで歩いてみようという計画がありました。

いく前に地図で眺めていた時に盆地のような地形に水田地帯が広がっているので、農業用の取水堰だろうということ、そして排水させることも必要そうと想像していました。

 

結局は、長崎ちゃんめんを食べにいくだけで体力は残っていませんでした。

せっかく厚狭を訪ねたのに、宿泊するだけになりそうです。

 

翌朝、また4時半ごろから窓の外を眺めていました。

右手に明るく見えるのは小野田の工業地帯のあたりでしょうか。

4時56分、まだ通過するはずのない新幹線のトンネル出口から黄色いランプが見え始め、次第に近づき、どうやら線路を点検しているようです。初めて見ました。

日が昇ると一面のもやがかかり、街は見えなくなりました。

その間に、前日に小野田市郷土資料館で購入した資料を読んでいたら、厚狭川の堰について書かれていました。

ああ、やはり、ここを見てみたい。バスで厚狭駅から渡場バス停まで行く計画でしたが変更し、奮発してタクシーでぐるりと回ることにしました。

 

 

*寝太郎堰から厚狭川沿いを見る*

 

7時40分、朝靄はすっかりなくなり今日は天気が良くなりそうです。駅前からタクシーに乗りました。

厚狭川左岸側は少し小高い場所になって、旧市街地の雰囲気です。厚狭川に沿って堰を目指してもらいました。国道316号が厚狭川沿いに通っています。数分ほど走ると、堰が見えてきました。

以前はそのそばにも橋があったそうですが、今は流されたのか通過できないそうで、もう少し上流の橋を渡って、厚狭川右岸の水田地帯の農道を下って寝太郎堰を見ることができました。

 

運転手さんはきっと私が何を見たかったのかわからなくて戸惑ったようで、「この辺りは鴨もたくさんいて、桜の季節は美しいですよ」と教えてくださいました。

そのまま川沿いを行けば排水機場も見ることができそうでしたが、途中で、通学時間の通行禁止区間になり、国道沿いに渡場バス停に向かってもらうことにしました。

 

山の間を静かに厚狭川が流れる場所が続き、周囲の家の屋根は黒い屋根と赤茶色の屋根とあり、魚の鴟尾(しび)をつけた家を見かけるようになりました。

いつ頃から魚の鴟尾が広がったのか尋ねてみましたが、やはりわからないとのことでした。米子では石州瓦は高級なので「金持ち」と聞いたことを話すと、「この辺りでは毛利側か石見側かによって瓦の色を変えていたらしいと、NHKで言っていた」とのことでした。

ところ変われば、瓦の色の歴史もいろいろのようです。

 

厚狭川の水害の記憶を尋ねると、「洪水はすくないが土手の8割くらいまで水が上がるときもあり、その跡が土手に残っている」「何年か前、低い場所や水田が湛水して、船で重機を運んで復旧作業をしたことがある。在来線の線路沿いはまだ工事が済んでいないところもある」とのことでした。

 

こうした地元の方の記憶を知る機会になり、タクシーにして正解だったと思うことにしました。

 

 

*古開作をぐるりと回る*

 

予定よりもだいぶ早く渡場バス停に着いたので、そのまま古開作を回ってもらうことにしました。

厚狭川右岸の河口にある大きな干拓地で、「古開作バス停」を地図で見つけましたが詳しい歴史は探しきれませんでした。

 

厚陽中学校前に大きな貯水池があり、その真ん中に参道と厳島神社がありました。

通過する時に、石碑があるのを見逃しませんでした。きっと古開作の歴史が記録されていることでしょう。水を張って田植えの準備が始まった水田地帯を少しぐるりと回ったあと、貯水池に戻ってもらいました。運転手さんに少し待ってもらい、貯水池の真ん中にある石碑まで歩きました。

 

「古開作干拓記念碑」と大きく彫り込まれています。

大正10年に建てられた碑で背面に彫られた歴史を写真に撮りましたが、今、拡大してもよく読めず、「明治四年八月」の部分がかろうじてわかりました。

 

両岸の干拓地より少し高台に、住宅地が広がっています。

静かな風景でした。

 

寝太郎堰から厚狭川そして古開作まで充実のドライブが終わり、渡場でタクシーを降りました。

ここから下関までの長距離路線バスに乗る予定です。

 

 

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食べるということ 81 長崎ちゃんぽんと長崎ちゃんめん

初めて長崎ちゃんぽんを食べたのは1970年代初めの頃、たしか中学校の入学式のあと、母と友人そして友人の母親の4人で食べに行きました。底冷えのする寒い日でした。

なぜか長崎からは遠く離れた地方の小さな街の小学校の近くに、当時はとても珍しい長崎ちゃんぽんを出すお店がありました。野菜が山盛りで、当時ご馳走だったインスタントラーメンのしょうゆ味・味噌味・塩味とも違う白っぽいコッテリとしたスープで、なんとも歯ごたえの良い生麺でした。

 

今でもその情景と味を懐かしく思い出します。

まだ、長崎ちゃんぽんが全国にチェーン店で広まる前だったと思います。

 

 

1980年代初頭、佐賀の友人宅に泊まらせてもらった時に、お父様がちゃんぽんを食べに連れて行ってくださった記憶があります。あれが人生で2回目の長崎ちゃんぽんでした。長崎から佐賀の友人宅へ行きましたが、長崎ではちゃんぽんを食べた記憶がないのは、当時はまだ女性が一人で食べる雰囲気ではなかったからかもしれません。

 

昨年、佐賀から長崎を回った時にも本場の長崎ちゃんぽんを食べることを楽しみにしていました。

佐賀のクリークを見て歩く計画で、蓮池公園から佐賀江川のあたりに長崎ちゃんぽんのお店があることをチェックしていました。暑さのために計画を変更することが多かったので、結局、食べずじまいでした。

 

 

防府長崎ちゃんめん

 

さて今回の2泊3日の散歩は、お昼ご飯は食べそびれて非常食のおにぎりに助けられました。

 

1日目の防府では、佐波川の円筒分水から防府天満宮、佐波神社まで歩き、ホテルの近くで早めの夕食を食べようと思いましたが、16時すぎだったので地元のお店はまだ開いていません。

長崎ちゃんめん」というチェーン店らしいお店がありました。もう空腹と暑さと疲労の限界で野菜もたくさん食べたい気分だったので、全国展開っぽいお店でもいいかと思って入りました。

 

ちゃんぽんではなくちゃんめんってなんだろう。

とりあえず野菜ちゃんめんの小と餃子、そして生ビールを頼みました。

大盛りかと思うような野菜がたっぷりのちゃんめんが来ました。あの人生で初めて食べた長崎ちゃんぽんを思い出すような味で、満足してお店を出ました。

 

長崎ちゃんめんちゃんぽんの違いは麺が違うことと、全国展開を最初に始めたのがこの長崎ちゃんめんの方だということがお店に書かれていました。

 

*今回は1日目も2日目も全く同じものを食べた*

 

さて、2日目のお昼はやはり食べそびれて、新山口駅で新幹線を眺めながらおにぎりを食べました。今日こそどこかお店に入って旅先の食事らしい食事をガツンと食べようと思っていましたが、雨と寒さで予定していた小野田駅近くのお店に入ることは諦め、厚狭駅の近くで食べることにしました。

 

1日目の夜に長崎ちゃんめんを検索していたら、その1号店が厚狭にあることを知りました。翌日泊まる場所ですからなんと奇遇と思いましたが、さすがに2日間同じものを食べることはないですね。

 

さて2日目、空腹と疲労とさらに寒さもあって、厚狭駅に降りた時には長崎ちゃんめんの方へと歩き出していました。

そして新幹線と山陽本線の列車を眺めながら、昨日と全く同じものを食べ、その美味しさと野菜がたっぷりとに入っていることに満足したのでした。

 

長崎ちゃんぽんが広がって半世紀ほど、新たな食べ物が受け入れられて広がっていくようすは興味深いですね。

 

 

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散歩をする 343 小野田から厚狭へ

高泊開作を少しだけ歩き、15時35分に小野田駅に着きました。幹線道路沿いの食堂でガツンと遅いお昼ご飯を食べようという計画も幻となり、駅に着いた時には寒さと空腹でクラクラでした。

これは早々に宿泊予定の厚狭へ行って、早めの夕食を食べようと思いました。

 

駅に着いたら下り線の列車が近づいている表示が出ています。これを逃してはならないと、慌てて階段を昇って向かいのホームへ行きましたが、貨物の通過列車でした。

山陽本線の次の列車までまだ30分ありましたが、もう改札のそばの待合室まであの階段を往復する気力もなく、肌寒い中ホームのベンチに座り込んだのでした。

雨の中の散歩は気力を削がれますね。

 

下校する高校生でホームがいっぱいになった頃、待ちに待った列車が来ました。いつもならうっとおしい混雑ですが、冷えた体に心地よく感じるほどでした。

隣駅の厚狭駅に6分ほどで到着しました。四方を山に囲まれた盆地のような場所です。

雨はパラつく程度になっていました。

駅の近くの水路をたどりながら、16時35分、まずはお目当ての場所に向かい温かい夕食で元気が出ました。

 

*厚狭*

 

この地名も「あつさ」と読みそうになるのですが、「あさ」です。

新幹線の停車駅ですが、昨年通過した時には記憶に残っていませんでした。

 

開作を地図で探していた時に、厚狭川の河口近くの南高泊のあたりまで高泊開作と思われる場所あることに気づきました。その干拓地らしい場所をたどると、国道190号線と山陽自動車道の間に「後潟上」という地名があります。

潟とついた地名はこの目で確認したくなりますね。

そして厚狭川右岸側にも大きな干拓地があります。

海岸線をバスでこの厚狭川河口あたりに行けないかと思いましたが、高泊からは便がなさそうです。

 

ふと県道沿いの「渡場バス停」をクリックすると、厚狭駅から厚狭川沿いにバスが通っています。

そして国道190号線側の「渡場バス停」もクリックしてみると、なんと下関までの長距離の路線バスがあり、小月も通り、下関のあたりまで海岸線を通るようです。

なんと「ひたすら川と海と開作を見る散歩」にふさわしい路線でしょうか。

 

そして厚狭駅は新幹線も停まる駅なので、もしかしたらホテルの窓から新幹線も眺め放題かもしれません。

ということで、ここに泊まることを決めたのでした。

 

疲れ切った体で入った食堂でしたが、線路のそばでしたから通過する新幹線と山陽本線の列車を眺めながらの贅沢な夕食になりました。

 

満足してホテルへと向かい、窓を開けたらトンネルへと入っていく新幹線が見えました。

3日目は厚狭川沿いに開作を見て、下関までバスの車窓の散歩です。

 

 

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行間を読む 152 周防灘干拓遺跡と長州藩

高泊開作について検索していたら、「山口県文化財」(山口県のHP)に「周防灘干拓遺跡 高泊開作浜五梃唐樋 名田島新開作南蛮樋」という説明がありました。

 

今回の遠出の計画を立てるために地図で最初に目に入った二つの場所が、この「周防灘干拓遺跡」であったことがわかりました。

偶然に過ぎないのですが、ちょっとうれしくなりました。

 

高泊開作浜五梃唐樋

 高泊開作は、小野田の高泊湾を干拓したもので、寛文8年(1668)の汐止めによって完成した。この干拓の樋門は当初は3基であったが、安政4年(1857)に増設して5基になった。翌年、排水口周辺の岩盤を除いて排水効果を高めるようにした。岩盤を掘削してその上に組石造りの樋門を築き、石柱間の水門5列のそれぞれに、汐の干満作用により自然閉鎖する構造の招き扉と呼ばれる木製の扉5枚が付けられている。これが現在に残る浜五梃唐樋である。樋門は幅10.81m、総高6.18m。

 現在の新しい樋門が建設されるまで、300年以上にわたって機能した。

 

名田島新開作南蛮樋

 名田島は山口市の南部、椹野川河口部にあり、平地の大部分が干拓によってできている。寛永3年(1626)の慶三(けいさん)開作、元禄3年の長妻(ながつま)開作に始まり、安永3年(1774)の新開作(安永開作)と続き、昭和5年(1930)完成の昭和開作を持って、名田島開作の干拓事業は終わる。

 南蛮樋が築かれた新開作は、「長陽年代記」(山口県文書館蔵毛利家文庫)によれば、安永3年(1774)9月24日に萩藩主から郡奉行に百余町(およそ100ヘクタール)のお開作が命じられ、小郡宰判の代官の指揮のもと工事が行われ、同年12月7日に潮止めができたとされる。

 安永開作の樋門は、長方形に加工した花崗岩を積み上げた堅牢な石造の間に、ロクロによる巻き上げ方式の仕切板を設置した。樋守が1日に4度の干満の都度、板を上下させて潮止めと排水を行なっていた。潮の干満作用によって自然開閉する唐樋に対して、この樋門には、海外渡来の最新技術とされたロクロ仕掛けを用いたことから「南蛮樋」と呼ばれた。

 現在は沖合に山口県干拓が完成したため、樋門として機能することはない。

 

地図で新山口駅の南東に見つけた水色の場所が、この南蛮樋でした。そしてそのまま海岸沿いに西へと眺めていくうちに見つけたのが高泊開作浜五梃唐樋跡で、この二つが周防灘干拓地の代表的な場所であるとともに、技術的にも対比される場所でもあったようです。

 

 

*萩との関係は?*

 

この周防灘干拓は新田開発のためのようですが、なぜここから遠い萩が藩の中心地になったのだろう、瀬戸内海の方が気候も安定していそうだし干拓地にも近いしと素朴な疑問が湧いてきました。

 

地図で見ても、新田から米や塩を運ぶにも現在の山口線か美祢(みね)線のあたりの山道を通る必要がありそうです。瀬戸内海なら気候が温暖なイメージがありますが、中国山地は豪雪地帯もありますからね。

たぶん学生時代にはもっと習ったと思うのですが、萩といえば長州藩ぐらいの知識しか残っていません。

 

Wikipedia毛利氏の「江戸時代」に以下のような説明がありました。

1603年(慶長8年)10月に輝元が周防国山口の覚王寺に入った後(まだ城がなかったので)、毛利氏は幕府に対して、新しい居住地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、萩への築城を幕府に命じられた。瀬戸内海に面した便利なところは望ましくないということから萩への築城が命じられたものと思われる。萩は交通に不便な地であった。萩城の工事は埋め立てから始めなければならず難航したが、慶長13年(1608年)に完成した。以降、萩城は毛利家の居城・長州藩庁となるが、幕末には多難な国事に対応するため地の利がいい山口に藩庁が移された。

 

萩城は、岩国のように、海岸近くで川がわかれて三角州のような場所の端、海岸沿いにあります。

阿武川が二手にわかれた右側の川は放水路かと想像していたのですが、違う歴史だったようです。

 

仕事をやめてからと言わずに、また、山口を訪ねたくなってきました。

 

 

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こんな地図があるといいな 10  バス路線が網羅されている

最初の頃は、鉄道駅から歩ける範囲で散歩をしていたのですが、最近は路線バスの利用頻度が上がっています。

今回の海岸線の開作を見る散歩も路線バスに乗りました。

 

10数年前には考えたこともなかったスマホパソコンのマップで、バス停を見つけそこをクリックすると地図上に路線バスのルートが表示されるので本当に便利ですね。

最近ではさらに、次のバスが何分後にくるとか、その途中の停留所と所要時間などが出るようになりました。

ただし、最終のバスのあとの遅い時間だとクリックしてもルートが青い線で表示されないこともあって、バス路線の計画を立てる時には昼間の方が良さそうです。

 

現地の観光協会とかバス会社の事務所でバス路線図をもらうことがありますが、これがマップ上に出てきたら助かるのにと思いますね。

あの鉄道の路線図のように、どこからどこへと行き、どこで乗り換えが可能かがわかるといいなといつも思います。

 

バス会社のホームページで路線図や時刻表を確認するのですが、土地勘がないので地図を拡大縮小してバス停を追うと、どこをみているのかさえ見失うことがしばしばです。

特に、コミュニティバスのように地域内をぐるぐると回る路線は複雑ですからね。

そして今のところ路線バスのルートは一路線だけしか表示されないので、いくつかの路線を確認したい時には何度もクリックし直す必要があります。

まあ、その苦労も遠出の計画段階での醍醐味とも言えるのですが。

 

初めての場所に出かける前には、そのバス路線の乗り方や料金、支払い方法をホームーページで検索しておくようにしているのですが見つけられないこともあります。

前から乗るのか後ろからなのか、運賃は前払いか後払いか、ICカードが使えるかどうか、使えない場合には運賃はいくらかなど確認しています。

こういうことは、そこに住む人には当たり前すぎて書くこともないのかもしれませんね。

事前に見つけられないと、バスが来るまでドキドキしながら待っています。

 

地図をクリックしたら、そういう情報も出ると便利ですね。

ただバス路線は複雑多岐なので、重くなりすぎでしょうか。

 

そして、あまり便利になると「バスを乗り継ぐ旅番組」も必要がなくなってしまいますしね。

 

 

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記録のあれこれ 122 あの土はどこから来たのか

祖父母の水田から岡山の干拓の歴史へと興味が出て、「吉備の穴海」から奈良時代に小規模の干拓が始まり、現代の児島湾干拓地まで広がった歴史を知ることとなりました。

少しずつ資料館やネットで得られる資料を読み、その土木技術や干拓地を中心に歴史が築かれてきたことに圧倒されていくうちに、ずっとずっと気になっているのが「あの土はどこから来たのか」ということでした。

 

埋め立てるのに使った土は、どこから来たのか。

干拓事業の詳しい資料はあっても、なかなか答えを見つけることがありませんでした。いえ、素人が検索しているので見落としたり、読み飛ばしていることも多々あると思います。

 

今回、山陽小野田市郷土資料館で購入した「ふるさと文化遺産」の「高泊開作」の「田をつくる」で、はじめて「土がどこから来たのか」が書かれている文章を目にしました。

 海を干拓して田を造るためには、土が必要でした。有帆杵築には「土取」という地名が残っており、一説によると、そこから土を取って運んだのではないかと言われています。

 

 

地図で確認すると、有帆川を渡る山陽本線の鉄橋から数百メートルほど上流に「杵築」という地名がありました。

その近くのバス停をクリックしたら、なんと「土取」バス停がありました。

さらにそこから数百メートル上流側に山陽自動車道が通っていますが、「ふるさと文化遺産」によれば、開作以前はその辺りまでが海だったようです。

 

ということは昔は有帆川の河口がその辺りで、河口付近の土地から土を取って干拓に利用したのでしょうか。

あくまでも、「と言われています」という内容なのですが。

 

 

日本中の干拓地の土はどこから来たのだろう。

1400年も昔に人海戦術で土をどこからか運ぶなんて非現実的だと思っていたのですが、琵琶湖からの瀬田川の氾濫にたいして大日山(だいにちやま)を切り取ろうという考えが奈良時代にあったことを知ると、山を削って平地をつくったり切り通しで道を作る時に出た土が運ばれている可能性もあったのでしょうか。

 

農地を得るために、あるいは人が安全に住むために平地にして、その土をどこかへと移動させる。

案外と記録に残されていないのかもしれませんね。

 

 

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散歩をする 342 高泊開作を少しだけ歩く

地図で開作を探した時にすぐに目に入ってきたのが新山口駅の近くの長細い場所と、山陽小野田市の有帆川右岸にある横長の水色の部分でした。

拡大すると、「周防灘干拓遺跡 高泊開作浜五梃唐樋(たかどまりかいさくはまごちょうからひ)」とありました。

最初は正確な読み方もわからず、ただ「干拓遺跡」と「樋」という字から水に関連した何かであることに惹かれてぜひここも訪ねようと決めたのでした。

 

 

*横土手から高泊開作浜五梃唐樋へ*

 

硫酸町から有帆川を渡るとすぐの交差点に、「国指定 浜五梃唐樋 1.2km」と表示がありました。

 

いつもなら「あと1.2kmだ!」と元気になるところですが、本降りの雨の中、ちょっと歩けるだろうかと心配です。

 

左手に硫酸町の黒屋根の落ち着いた工場の敷地と有帆川河口に干潟が広がっているのが見え、右手にはぐんと低くなった場所に広々と水田地帯と農家の家々が見えました。

この海との間の高い場所が「横土手」と地図に示されていた場所で、17世紀に始まった干拓の堤防であることを思うと、歩く気力が戻ってきたのでした。

 

県道354号の大きな橋の下をくぐると、今度は右側に池のように広い場所がありその向こうは工場で、海側は産業廃棄物の処理場と、風景が変わりました。

ここが締め切り後の江汐湖であることが、山陽小野田市郷土資料館の「ふるさと文化遺産」に書かれています。

 楊井三之允は寛文12年(1672)、千崎と高畑にある山峡をふさぎ、面積23ヘクタール(おのだサンパークの敷地、約2.5個分)の水面をたたえるため池を完成させました。それが現在の江汐湖です。

 江汐湖の水は川となり西高泊の水田を潤し、最終的に浜五梃唐樋から海に流れ出ていました。

 

「藩をあげての大事業である高泊開作を指揮した」(「ふるさと文化遺産」)のが楊井三之允(やないさんのじょう)だそうです。

 

工場の間の細い道のような場所でしたが、木々の間に小さな石碑がありました。

汐止記念石(しおどめきねんせき)

 ここは、高泊開作の堤防築造時、最初に樋門が設けられた場所です。

 高泊開作の経過を記録した「高泊御開作新田記」によると、寛文8年(一六六八)、横土手を築きようやく排水門が完成した矢先に豪雨に見舞われ、その後も台風と高潮に襲われたため、2度に渡り土手が崩壊し、樋門が流されました。そこで、当嶋(とうしま)八幡宮の参道下の岩盤を切り抜き、より頑丈な樋門を造ることとなり、「切抜唐樋(きりぬきからひ)」と呼ばれる2つの新しい樋門が造られました。そのうちの一つが、現在の「浜五梃唐樋」です。新たな樋門が完成したことにより、この場所は埋められました。

 この汐止記念石は、大正6年(一九一七)5月11日、高泊開作二五〇年祭において建てられました。

     山陽小野田市教育委員会

 

 

水門のような場所を二つほど渡ると、目の前に小高い場所が近づき、小さな集落がありました。

見上げるような場所が当嶋八幡宮で、その手前に岩で築いた頑丈な堰のような場所がありそれが「浜五梃唐樋」でした。

周防灘干拓遺跡高泊開作五梃唐樋

 

 この唐樋は寛文八年(一六六八年)に萩藩の直営事業として行われた高泊開作(四〇〇ヘクタール)の排水用樋門で岩盤を切り抜いて造られたことから切貫唐樋とも言われています。

 当初は、三枚の招き戸で開閉していた三梃樋(さんちょうひ)でしたが、安政四年(一八五七年)に排水効率を高めるために五梃樋に拡張され平成元年まで使われていました。

 排水口に設けられている招き戸は、潮の干満で生じる自然の水圧によって開閉する仕組みで、非常時には招き戸をロクロで巻き上げるように設計されています。

 この唐樋は、当時の優れた土木技術や、近世になって急速に発展する本市(ほんし)の基礎となった高泊開作築造を伝える遺跡の一つとして貴重なものです。

    国指定 平成八年三月二十八日指定 文部省・山口県山陽小野田市

 

「岩で築いたような」ではなく、「岩を切り抜いた」のですから気が遠くなる工程ですね。

海側の水が溜まった場所から五梃を覗き込んだのですが、土木技術の知識がなさすぎて「潮の干満で生じる自然の水圧によって開閉する仕組み」が想像できなかったのが残念です。

 

それでも約1,000キロ離れたここまで来て、地図で見つけたこの場所に立てたことだけでも満足しました。

 

 

*高泊の水田地帯を歩く*

 

地図では、干拓による水田地帯をぐるりと囲むように集落が山側に続いています。

その水田と集落との境界線のような道路を歩いて国道190号線に出て、国道沿いには15時ごろでも開いている食堂がありそうなのでそこでお昼ご飯にしてから小野田駅まで歩く、という計画でした。

 

ところが、やはり雨の中の散歩は体力を使いますね。最初は蒸し暑く感じていたのに、だんだんと体も冷えてきました。

目の前の当嶋八幡宮を訪ねる予定でしたが、見上げるような石段で中止し、とりあえず歩けるまで歩いて小野田駅までのコミュニティバスに乗ることにしました。バスの時刻表をチェックしておいてよかったと思いました。

 

静かな落ち着いた集落の中を歩いていると、小学生の下校の時間のようです。元気な声が聞こえてきました。

右手に水田地帯が開けて見えてきました。その水田の中にある高泊神社も訪ねてみる予定でしたが、立ち寄るとバス停まで歩き切る体力がなくなりそうです。

運転中でも神社があると一礼していた父のことがふと思い出されて、離れたところからどうぞこの地域をお守りくださいと思いながら歩きました。

 

「郷」という集落にあるバス停になんとか辿り着きました。

まだ1万6000歩ぐらいでしたが、肌寒さと疲れと空腹と、もう一歩も歩きたくない気分でバスを待ちながら広々と続く水田を眺めました。

田植えが終わったばかりで、緑が美しい風景でした。

 

17世紀までは、この辺りは海辺だったようです。

「ふるさと文化遺産」の「高泊開作」に、「現在、市役所や市民病院、小野田駅が建っている場所は昔、高泊湾という海でした。この広大な海を埋め立てて陸となった」と書かれていました。

 

コミュニティバスが来ました。昔海だった場所を走り、昔海だった小野田駅に15時35分、到着しました。

 

 

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行間を読む 151 小野田開作から小野田セメントへ

私が小学生の頃に日本が工業国入りして、あちこちに大きな工業地帯ができていることが誇りとして社会科の教科書で学んだ記憶があります。

同じ頃に公害が社会問題となり、成人した頃には環境破壊か経済成長か、自然か人工かという葛藤に社会が直面している時代でした。

 

今なら「環境を守り経済成長も、自然を守り人工的な技術も」と思えるし、むしろ大きな工業地帯とかダムや水利施設などどうしてそこにそれができたのだろう、以前はどんな地域だったのだろうという歴史に関心が出てきました。

 

*「小野田セメントと笠井家」*

 

山陽小野田市郷土資料館では小野田セメントについての常設展示があり、やはり大企業の持つ力は大きいのだと思いましたが、購入した資料「ふるさと文化遺産」の「小野田セメントと笠井家」を読むと、地元の資産家が産業を興したという私のイメージとは異なることが書かれていました。

 かつて寒村に過ぎなかった小野田、笠井家はこの地を近代産業都市に変貌させました。

 寛文8年(1668)に高泊開作が築造されて以降、有帆川河口の干拓事業は徐々に進められましたが、明治になると、そこに工場が建ち、小野田は工都としての道を歩み始めます。明治14年(1881)、日本初の民間セメント製造会社「セメント製造会社」(のちの小野田セメント(株))が設立、明治22年(1889)には国内でも早期に設立された民間化学会社「日本舎密製造会社」(のちの日産化学(株))が誘致されました。小野田は日本近代化の先駆けとなったのです。

 

私が小学生だった1960年代にはセメントはどこでも見かけましたから、セメントの歴史に思い至ることもありませんでした。

小野田新開作にできた日本初の民間セメント会社が、小野田セメントだったのですね。

 

 会社が事業を進めるにつれ、必要なインフラも整備されます。原料搬入と製品搬出のために、まずは港が整備され、現在の小野田港が造られました。また、小野田駅から小野田セメントまでを結ぶ鉄道が敷かれ、現在、小野田線の一部となっています。

 整備されたのはインフラだけではありません。従業員が住むための住宅が建てられ、周りに商店ができて街が形成されます。人が多く住むようになると、学校や病院、道路、郵便局など、都市として必要な機能が整備されました。

 野来見や木戸・刈屋、目出など一部に人が住む寒村だった小野田。明治14年(1881)の人口は3,341人だったのが、昭和15年(1940)に高千帆と合併して市制を施行する直前には3万人を超えていました。まさに一からまちをつくりあげたといえます。

 このまちの誕生に大きな役割を果たしたのが笠井家です。小野田セメントを創設し「会社と地域の発展は不可分」との信条のもと、会社とまちの発展に尽くした笠井順八、その長男で、小野田町長として長年にわたり都市基盤の整備に心血を注いだ笠井健二郎、次男で小野田セメントを日本を代表する会社に躍進させた笠井真三。明治から昭和初期までの小野田は、笠池に牽引されながら歩んできました。

 笠井家が残した遺産は、今でも市民の生活に役立っているもの、そして大切に保存されているものなど様々です。しかし、いずれもまちの大切な財産として市民に受け継がれています。

 

 

 

 

*「順八と会社の創業ー士族の救済と日本の近代化ー」*

 

続いて、小野田セメントを立ち上げた理由が書かれていました。

 明治14年(1881)、笠井順八は小野田に「セメント製造会社」(のちの小野田セメント(株))を設立しました。順八が会社を立ち上げた理由は2つあります。まずは、明治維新後の秩禄処分によって生活の糧を失った士族を救済するためです。これまでの家禄にかわり士族に発行された金録公債による出資や、政府の士族授産金の貸与により資金を調達しました。また士族を従業員として雇います。そして、もう一つは日本の近代化にセメントが必要であると感じたためです。当時セメントを調達していたのは官営深川工場だけで、多くを輸入に依存する状態にあったことから、順八は「外国の泥土(セメント)を以って金貨に交換するは実に国の為に慨嘆するのみ」と考え、セメント製造を決意します。

 順八は工場建設地に小野田新開作を選びました。明治4年(1871)に干拓されたばかりで広大な荒地があったこと、セメントの原料である泥土と石灰石、燃料となる石炭が周辺に豊富に存在していたからです。

 「笠井さんは人夫か社長か、ごみにまみれて共稼ぎ」と謳われるほど、順八は骨身を惜しまず働いたと言います。明治16年(1883)には中心設備である堅窯(徳利窯)4基が完成、セメント製造に成功して事業の一部を踏み出しました。

 

江戸末期から明治維新のあたりは「黒船に驚いた日本人」のイメージにとらわれていたのですが、次々と驚異的な変化を生み出し、受け入れる時代であったことに改めて驚きます。

 

「外国の泥土」の重要性に先見の明があっただけでなく、「士族に発行された金録公債による出資」「士族授産金により資金調達」というあたりも、どんな時代の雰囲気だったのでしょう。

「経済」という言葉も概念も、まだまだ浸透していない時代だったのではないかと想像するのですけれど。

 

 

たしかに「笠井家」という地元の名士が産業を興した話ではあるのですが、どこかに「人類」の為にという考え方が広がった時代を感じ、そしてクラボウヒストリーに重なりました。

 

 

 

 

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散歩をする 341  南中川駅から硫酸町へ

JR小野田線南中川駅は、周囲よりも高い場所に造られていました。

ホームから来た方向を見ると、両側の住宅の2階ぐらいに土盛りされた高さに線路が通っています。

無人駅で、少し急な階段を降りて歩き始めました。

 

地図でも碁盤の目のように道が通っている地域ですが、県道に出るとまっすぐな道を車が結構通過していきます。

道路沿いには、「この付近の地盤は海抜約0.9mです」と表示がありました。

 

石を積んだ形の碑がありました。

近づいてみると、あの昭和17年の風水害の記録がありました。

昭和十七年八月二十七日夜半颱風高潮猛襲シ全市忽チ泥海ト化ス本碑踏石上面ハ正ニ當時ノ潮高二準ス死者百二十五名其他ノ災禍擧テ録ス可ラス市民一体能ノ災害ノ克服ニ努ム朝野ノ扶援救恤亦到ラサルナシ殊ニ二六大都市ヲ始メ各地ヨリ寄贈ノ衣類ハ積テ山ヲナシ罹災者ノ感銘特ニ深シ茲ニ市民零細ノ資ヲ據メ災害一週年ニ此ノ碑ヲ建テ以テ永遠ニ感謝ノ微衷ヲ表セントス

記憶は少し曖昧ですが、石が積み上げられた高さは1m20~30cmぐらいだったでしょうか。

 

帰宅してから今回の遠出の記録を書いている時に、他の地域にも昭和17年の風水害の碑があることとつながりました。

 

 

山陽小野田市歴史民族資料館*

 

本降りの雨の中、駅から数百メートルのところにある山陽小野田市歴史民族資料館を目指しました。

まっすぐだった県道がY字に分かれる交差点の先に大きな建物があり、そこが図書館と資料館でした。

美しい庭木の敷地内を、雨の中自動ロボットの草刈り機が手入れをしていました。干拓地や昭和17年の風水害のことを考えながら歩いてきたので、突然、架空の世界に迷い込んだような感覚ですね。

 

この辺りは小野田新開作で、小野田港駅のあたりが小野田古開作だったようです。

開作に関してやこの地域の産業についての展示が充実していて、展示内容を全て写真に収めたいと思うほどでしたが、ふと「山陽小野田市 ふるさと文化遺産」という資料があることに目が留まりました。

あの開作とはというネットで見つけた内容も含まれた詳しい資料で、迷わず購入しました。

 

今年の6月11日から8月30日までは、「企画展 昭和17年8月27日ー80年前の風水害ー」を展示しているようです。

 

 

硫酸町

 

私の遠出の計画はいつも、地図で気になった場所からスケジュールを組み立てています。

 

今回の南中川駅で下車したのも、地図を眺めていたら有帆川河口右岸に「周防灘干拓遺跡高泊開作浜五挺唐樋」を見つけて、ぜひそこを歩いてみたいと思った空でした。

最初は目出駅から歩こうかと思ったのですが、よくよくみると「硫酸町」という地名があり、どんな場所なのだろう由来はなんだろうと気になったのですが、そこにちょうど郷土資料館がありました。

それなら南中川駅で下車して資料館を訪ね、硫酸町から「横土手」そしてその干拓遺跡まで歩いてみようと思いついたのでした。

 

風水害の石碑を見ることができ、なんとも偶然がつながって満足の計画となりました。

 

資料館を出て北東へと少し蛇行する県道を歩くと、左手が「硫酸町」で大きな黒屋根の落ち着いたレンガづくりの工場の敷地と街路樹が整備されたゆったりとした歩道が続き、右手が「日産」という地名で山を切り崩したような場所に住宅がまばらに立っていました。

有帆川を渡る橋の直前に、先ほどの郷土資料館で見た茶色の甕の大きなモニュメントがありました。

 

小野田橋

 小野田橋は、明治42年に当時の須恵村高千帆村を結ぶ橋として架設されたもので、その後の町制を経て昭和15年の両町合併による市制制度への推進役を果たすとともに、皿山で焼かれた硫酸瓶の出荷拠点でもあったことから、市の産業・歴史・文化に大きく貢献した橋です。

 もともと小野田橋は現在地より50m上流の位置にありましたが、昭和15年に新しく産業道路用として建設された本橋を小野田橋と呼ぶようになりました。

 このたび本橋は橋の老朽化が進んだため、小野田メインストリート景観整備協議会の諮問を受け、平成8年3月に再整備されたもので、全長71.40m、全幅長16.00mの三径間単純PCポステンT桁橋です。環境整備に当たっては、小野田市の歴史や文化をはぐくむ"豊かな時の流れ"をイメージした修景が施されています。

 

そうでした、「橋を架ける」ことが両岸を結ぶ時代が始まってからそれほど経っていないのですよね。

橋ひとつにもそれぞれの歴史がありますね。

 

旦(だん)の皿山

 小野田市の窯業の起こりは、天保の末年に周防富田出身の陶工甚吉が、萩藩大組土佐世彦七の協力を得て、ここに焼物の窯を築いたのが始まりです。

以降、市内の各所に窯が築かれ、日用雑器からセメント会社の徳利窯用の赤煉瓦まで、様々な製品が生産されました。特に明治22年に創業した日本舎密製造(株)が良質の硫酸瓶を必要としたことから、旦を中心に窯業の全盛期を迎え、大正初年には江本小十郎が亀の甲に須恵陶器所を開窯しました。窯業は、その後昭和30年頃までに市の基幹産業としての役割を果たしました。

 この広場は、小野田橋と一体的に整備されたもので、硫酸瓶が「おわに船」によって積み出される様子をイメージして作られました。モニュメントの硫酸瓶には、かつての皿山の風景が描写されています。

 

地図で「硫酸町」を見つけた時には、高い煙突からモクモクと白い煙が立ち上る工業地帯を想像していたのですが、実際に歩いてみると河口に静かな街が広がっていました。

 

 

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